「はぁーなんか、一瞬だったなぁ」

 あっという間に空は暗くなり、夕飯のもんじゃ焼き──これまた「いっくんがラーメンの次によく食べたものが食べたい!」という咲果のリクエストだ──を食べた僕たちは、商店街を駅の方へ向かって歩いていた。

「いっくんスタンプラリーも全部クリアしたし、本当楽しかっ──」
「咲果、待って」

 商店街の入り口にほど近い場所にある、昔ながらの小さな薬局。おじいさんが店主を務めるそのお店は、夕方六時にはシャッターを降ろしてしまう。
 僕はその薬局の前に、背中に背負っていたギターケースを下ろした。昔からこの商店街で路上ライブが行われているのを僕は見てきた。決して興味があったわけではなかったから、わざわざ足を止めるようなことはなかったけれど、こんな人前で素人なのに歌を披露できるなんてすごいなと思っていたのは事実だ。

 もしかしたら、昔の知り合いに見られるかもしれないし、笑われるかもしれない。それでも僕はどうしても、今日ここで路上ライブをしたいと思ってギターを持ってきたのだ。

 じーちゃんからもらったギターは、今日のために気合を入れて磨いてきた。チューニングはばっちりだし、指先が冷えたときのためにホッカイロもポケットに仕込んである。あとは咲果の歌声があれば、それだけで僕らの音楽は完成する。

「いっくん……、ここで演奏するの……?」

 こわごわといった様子で、咲果は僕に尋ねた。

「うん。咲果が歌うんだよ」
「えっ……!?」

 僕の言葉の意味を数秒後に理解した咲果は、みるみるうちに顔を赤くさせて「無理無理!」と両手を顔の前で何度も振る。

「無理じゃないよ。歌ってほしいんだ」
「人前でなんて、歌えないよ!」
「ここには咲果のことを知ってる人は、誰もいないよ」
「そうだけど……」
「歌うことを、誰も反対したりしない」
「…………」
「歌ってほしいんだよ。自由に、咲果らしく」

 咲果と出会って、僕の毎日は変わった。何もかもを失ってモノクロで無音だった僕の世界に、彼女は光と色と、そして音楽を運んでくれた。

 咲果が吉祥寺に連れていってほしいと頼んだのは、彼女が訪れたかったからではない。僕が抱えていた痛みを伴う過去を、優しい思い出へと変えるためだった。
 僕はずっと、咲果に救われてばかりだ。彼女のおかげで笑うことを思い出して、本気で掴みたいと思う夢の手がかりを見つけることができた。だから今度は僕が、彼女の力になりたい。

 歌うことが大好きなのに、その夢を諦めてしまった咲果。
 あんなに綺麗な歌声を持っているのに、絶対に人前ではそれを聞かせない咲果。
 ──なあ咲果、きみはきみの人生を、もっとちゃんと生きていいんだ。

 シャッターを背に、ポロンと僕は弦を弾く。高いアーケードは、ギターの音をうまい具合に反響させる。通り過ぎる何人かが、お、という感じでこちらに顔を向けた。だけど誰も立ち止まらない。

 僕は弾く。ふたりで作った曲のイントロを、ゆっくりと指先に乗せていく。
 僕は弾く。彼女の歌が始まらなくても、Aメロを。
 僕は弾く。きゅっと口を真一文字に結ぶ咲果の隣で、Bメロを。
 僕は弾く。曲の中で一番思いが込められる、サビを──。
 そこで初めて、ギターの旋律に透き通るような声が合わさった。
 びりりと足元から脳天にかけ、電流が駆け上っていく。

 咲果が歌っている。大勢の人々が行き交う中で、目を閉じて彼女は歌う。もしかしたら全神経を、歌うことに集中させているのかもしれない。その歌声はいつもの公園で聞くものと同じはずなのに、雑踏がハーモニーとなっているのか、それともシャッターが声を反響させているのか、普段とはまた違う特別な響きを持っているようにも感じられた。

 ひとり、またひとりと僕らの前で足をとめる人が出てきた。会社帰りのサラリーマン。慌てて駅に向かっていたように見えたスーツ姿の女性。手を繋いでいるカップルに、制服姿の高校生。
 伸びやかな咲果の歌声は、徐々に集まり始めた全ての人々を包み込むように広がっていく。誰もが、呼吸を忘れたかのように咲果の歌に聞き入っていた。