「失礼、します……」

 一応のノックをしてから引き戸を開けるも、中には誰もいない。
 職員室の隣に位置する、進路指導室。もしかしたら三年生がいるかもしれないと若干身構えていた部分もあり、空っぽの室内にほっと肩の力を抜いた。

「イツキング……、ついにやる気を出したか」
「うおっ……!」

 突如、資料が積まれた長テーブルの後ろからぼさぼさ頭がにょきりと飛び出した。思わず変な声を上げてしまうと、その人は豪快に笑いながらこちら側へとやって来る。

「進路なら担任の俺に任せておけ!」

 ばしんと胸を叩いて目を輝かせるのは、担任のふじやんだった。
 藤谷透、三十二歳独身。ぼさぼさ頭の冴えない高校教師──なんて言ったらどつかれそうだけど。ふじやんはそんな感じだ。熱血教師といった風ではなく、基本的にはどんなことも適当。それでも適度な距離を取りつつ、生徒のことをそれなりに考えているように見えるのが、ふじやんという教師だ。
 そんなふじやんが今僕の目の前で、キラキラと目を輝かせている。いつもは保たれている距離もやたらと近い。しかもさらりと〝イツキング〟なんて呼ばれた気がしたのだが、気のせいだろうか。

 ふじやんは向かい合わせになっている席に座るよう僕に促し、自分はその向かいへと腰を下ろした。

「で。イツキングはどんなことに興味がある?」
「そのイツキングって何ですか」
「まあまあ、細かいことはいいってことで」
「はあ……」

 進路指導の先生というのは学年ごとに決まっているが、二年の担当がふじやんだったとは。これまで進路については考えないようにしていたから、まったく知らなかった。

 今日この場所に来たのは、これまでの卒業生の進路実績とかそういうものを見てみたいと思ったからだ。僕の通うこの高校は、確かに大学進学する生徒のほうがずっと多い。それでも進学の道を選ばずにきた先輩たちだってきっといたはずだ。今後親を説得するためにもそういったデータは必要だろうと思い、放課後にここへと足を運んだのだ。

「どこの大学の資料を見に来たんだ?」

 ふじやんは棚の引き戸を開けて、パタパタとファイルの背表紙を指でなぞる。有名大学や、聞いたことのないような大学名が印字されたパンフレットが窓際の机に並べられているのを眺めながら、僕はひとつ深呼吸をした。

「大学に行くかは、まだわからないです」

 戦いに挑む戦士のような気持ちで、僕はやたらと胸を反らせるようにして答える。だってそうでもしなければ、こんなセリフはとても口に出すことができそうになかったから。きっとこれから大人による「何を言っているんだ」攻撃が始まる。親の前にまずは担任で予行練習と思えば、この状況もそう悪くはないはずだ。

 ──しかし。

「いいんじゃない」

 ふじやんは僕のことを、へえ、という表情で見るだけだ。

「え……、それだけですか……?」

 予想外の反応に、正直面食らってしまう。するとふじやんは、なんで?と眉をゆるくしかめた。
 なんで?は僕のセリフだ。普通大人というのは──特に教師だとか親というものは、大学進学をさせたがるものではないのだろうか。

「だってさ、イツキングの人生だしね? でもまあ、理由は聞きたいかな。卒業したら何すんの?」
「えっと……まだちゃんと決めているわけじゃないんですけど。その……音楽の、道とか」

 もごもごと口ごもりながらもどうにか伝える。正直、こんな展開になるとは思っていなかったのでうまい説明を準備していなかったのだ。ただ、これは今の僕の本当の気持ちだった。