「──ねえいっくん」

 咲果の落ち着いた声は、そっと僕の襟足を揺らす。

「まだ自分のことを、〝空っぽ〟だって思う?」

 彼女の言葉と目の前の風景は、僕の記憶にしっかりと刻み込まれる。その声を録音するように。この景色をカメラのシャッターで切るように。

 たしかに僕は、彼女の言う通りに感じていたはずだった。それが今ではちゃんとこの胸の奥に、何か大事なものが芽生えているようにも感じる。しかしそこで、心の奥底に潜むサッカーボールを抱えた少年が、再び僕の腕を引く。これまでの自分は何だったのか──と。
 咲果の問いに、僕は少しだけ俯いて考える。それからぽそりと言葉を発した。

「──僕には、サッカーしかなかったんだ本当に。唯一の夢で、唯一の特技で、唯一のがむしゃらに夢中になれるものだった」

 それが怪我によって奪われてしまったからといって、簡単に他の何かに夢中になることなんてできなかった。してはいけないと思っていたんだ。今までずっと頑張ってきた、自分自身を裏切るように感じられて──。

 なんだ、そういうことだったんだ。

 急にすとんと何かが腑に落ち、僕の口からは乾いた笑い声が小さく零れた。
 僕が固執していたのは、サッカーそのものじゃない。サッカーに全てを捧げてきた僕自身。新しい世界に踏み出そうとする僕を、これまでの僕はどんな目で見るのか。それがずっと、怖かったのだ。

 僕は、僕にまっすぐでありたかった。誰よりも僕自身に、正直でいたかった。ずっと頑張ってきた僕のことを、これからも大事にしてあげたかった。僕が守りたかったのは、何よりもこの自分自身だったのだ。

 思わず天を仰いだとき、斜め下からまっすぐな声が届く。

「夢中になれるものをひとつに絞らなきゃいけないなんて、誰が決めたの?」

 ひとつのことに打ち込むこと。極めたもので結果を出すこと。周りにすごいと認められること。

 僕は多分ずっと、そんな一般論に縛られていたのだ。それが自分の中での物事を図るメジャーとなっていた。だからこそ、たったひとつの誇れるものを失った自分のことを、とても無意味に感じてしまったのだ。

「いっくんがサッカーのない毎日に慣れていったって、新しく夢中になれるものを見つけたって、誰も責めたりなんかしない。いっくんの人生はいっくんのもの。今のいっくんが好きなことを、思い切りやっていいんだよ」

 咲果はきっと、僕よりも僕のことをわかっていた。自分では認めることのできなかった想いを、彼女だけは感じ取っていたのだ。

 僕の中に芽生えた想い。夢と呼ぶにはまだぼんやりとしている、水面のように揺れる想い。僕の中の暗がりにも、徐々にその波紋が広がっていく。
 サッカーボールを持った少年は、ぼんやりとした表情でこちらを見上げた後に、それからゆっくりと頷いた。

 ──ああ、許されたのかな。怪我をしてしまった僕を、サッカーという夢を奪った僕を、〝あの頃の僕〟は許してくれたのかもしれない。

 は……、と小さな息が漏れ出ると、目の奥からじわりと何かがせり上がってくるのを感じた。

「……振り向くなよ……」
「こんな綺麗な景色を前に、後ろを見たりしないよ」
「……そっか」

 夕方と夜の境界線。目が痛くなるようなオレンジ色に染まる町並み。遠くで響く踏切の音。風に揺れる、ポニーテール。じんわりとそれらが視界の中でゆらゆらと滲んでいく。それがとても、綺麗だった。

「──わたし、いっくんの作る曲がすごく好き」

 まっすぐに前を向いたままのきみの瞳には、この町並みの他に一体何が映っているのだろう。