夕暮れ時が近づく頃、彼女が最後に僕を連れて行ったのは坂道カーブが重なる住宅街だった。
「……ど、どこ行く、わけっ……?」
「いっ……、いいところっ!」
学校へと続く坂道は、ゆるやかなカーブがいくつかある程度だ。しかし今僕らが上っているのは、歩くのですら足を踏ん張らなければならないような傾斜のきつい坂道。住宅を三軒ほどすぎるたびにカーブがあるので、力任せにまっすぐな坂道を上がるのとは訳が違う。
今日の僕は、ここに越してきてからの全移動距離を遥かに上回る範囲を自転車で巡ったわけで、ふくらはぎはそろそろ限界に達しそうだった。
しかし男たるもの、そんな簡単に弱音を吐くわけにはいかない。実際ここで生まれ育ってきた咲果は、若干の息は切らしているものの、ぐいぐいと自転車のペダルを踏みしめて行くのだから。
それでもさすがに、この心臓破りの坂は地元民の心をもへし折るのかもしれない。よろ、と急激にスピードを落とした彼女は、途中で自転車からひらりと降りて苦笑いを浮かべる。
内心助かったと思いながらも、僕は彼女に合わせるかのように同じく自転車を降りた。
「とてつもない坂だな」
上がる息を押し殺し、まったく平気な素振りを装う。しかし実際、気を抜くと膝はガクガク震えてしまいそうだ。こんなに足を駆使したのは、サッカーをやめてから初めてのことだ。ふくらはぎに乳酸が溜まって重たくなる感覚は快いものではないのに、懐かしくも思えてしまう。
「いけるって、思ったんだけどなぁっ……」
両手でハンドルを押しながら歩く咲果は、言葉と言葉の間の呼吸を挟みながらやっぱり笑う。それにつられて笑顔になりそうになった僕は、力任せにハンドルを押し上げた。
それにしても、すごい坂道だ。そこに立ち並ぶ住宅は、傾斜を平らにするために重ねられたコンクリートの上に立ち並んでいる。そのため、顔を真上に上げなければその全貌は見えない。家に辿り着くには玄関前の長い階段を上る必要があり大変かもしれないけれど、きっとどの家からの眺望も素晴らしいのだろう。
「ほらっ。見ていっくん。影っ、ながーく伸びてるっ……」
そんな声に視線を落とせば、いつの間にかオレンジ色に輝いていた夕日を受けて、僕らの横にはそれぞれ長い影が並んでいた。
自転車を押す、やたらと足と腕の長い僕らの影。その先には、段々畑のようにたくさんの家々が並んでいる。ずいぶんと上まで来たみたいだ。
きっと今日の最後の目的地は、これから向かうところだ。そこへ到着すれば、楽しかった今日が終わってしまう。たったの半日だったけれど、とても濃くて、だけどやっぱりあっという間で。この時間が終わってしまうことがひどく名残惜しくもある。
咲果が僕に見せたいものが何なのか。知りたいけれど、永遠にたどり着かなければいい。そんなことを考えたとき、斜め前を進んでいた影がぴたりと止まった。
「着いたっ……!」
はぁっ、という彼女の息が混じった風が耳たぶを揺らす。「間に合って良かった」と小さくこぼした彼女は、カチャンと自転車の後ろのスタンドを立てる。
目の前には、傾斜をまっすぐ縦に切り落としたような細い階段が下まで伸びていた。
「うわ……」
思わず口からそんな感嘆がこぼれ落ちる。
階段の下り口に立った僕の視界に飛び込んできたのは、なだらかな山と山の間に沈もうとする眩しい黄金色の光が照らし出した、この街の景色だったのだ。
器用に連なる屋根の合間に伸びる細い路地。その先には歩行者用の踏切がカンカンカンと懐かしい音を上げている。つい先程僕らが通ってきた大通りがずいぶんと小さく見える。そのどれもが、オレンジと金を混ぜて命を吹き込んだかのような色で染められているのだ。それはまるで絵画のようで、だけど子供の頃に読んだ絵本の挿絵のようにも見えて、それでいていつだったかどこかで見た写真のようでもあって。初めて見る景色なのに、どこか懐かしいような、胸の奥がぎゅっと掴まれるような色と香りを持っていたのだ。
「──この景色をね、いっくんに見せたかったの」
そう言った咲果の横顔も、オレンジ色に染められている。彼女の瞳のブラウンに夕日が反射してキラキラときらめいて、思わず魅入ってしまえば、彼女は僕を見て優しく笑った。ドキンと心臓が大きく跳ね上がる。その姿が、この世の物とは思えないほどに美しく、儚くて──。
咲果はトンッと軽快なステップを踏むようにして階段に腰を降ろすと、僕にもそうするようにと視線で促した。
周りを見回し車が来ないことを確認した僕は、彼女の自転車の隣に自分のそれを停めた。それから階段の、咲果の斜め上──ふたつ上の段に腰を下ろす。
すう、と鼻から空気を吸い込めば、キンと冷えた空気が鼻孔から肺へと流れていった。
季節は冬。空気はもちろん冷たくて、たまにびゅうと吹く風は頬をヒリヒリと赤くさせる。それでももうすぐ今日の役目を終えようとしている太陽の光はじんわりと温かく、僕たちはどうしたって抗うことのできない自然の中で生かされているということを再認識する。人間なんて、自然から見たら本当にちっぽけな存在で、いつだってその大きな力によって滅ぼされてしまうのだろう。
だけど、こうも思うのだ。明日にはまた太陽が昇り、この街を、僕たちを照らしてくれるのだと。