「いっくん、お腹空いてるよね? お蕎麦食べよう!」
「……蕎麦?」
学校の駐輪場にカチャンッという自転車のロックを外す小気味良い音が響く。
通学に自転車を使っている生徒は、全体の半分ほど。幸か不幸か、咲果も僕も自転車通学だ。もしも彼女が電車やバスを利用していたら、こんなときにふたり乗りができたのかもしれない。いや、交通違反なんだけどさ。それでもやっぱり、好きな子を自転車の後ろに乗せて走るのは男のロマンでもあるわけで。
「なにしてんの? 早く行こ!」
気付けばそのままロマンに浸っていたらしい。首を傾げる咲果に促され、僕は自分の自転車に跨った。
僕らの高校は、長い坂を上った先にある。登校時、それも時間ギリギリの生徒たちにとっては避けて通れない厳しい厳しい鬼門でもある。引っ越してきたばかりの頃、この坂を上りたくないがために他の高校に転校できないかと考えたほどだ。
それでも不思議なもので、毎朝のようにこの坂を上っていれば、もちろん疲れはするものの、そこまで大きな問題ではなく思えてくるのだ。じーちゃんが言う通りここでも僕はまた、この坂に〝慣れ〟を覚えていたのだろう。
柔らかな香りが、僕の横をするりと滑り抜けていく。上りがきつい坂の上にあるということは、帰りは気持ちの良い下り坂が待っているということだ。咲果はまるで漫画のワンシーンのように両足を自転車のペダルから投げ捨てて風を切る。「ひゅーっ」と楽しげな擬音語まで発している彼女は、僕よりも長くこの坂を下ってきているはずなのに、今でもそれを楽しむことができるみたいだ。
「いっくーん! はやくー!」
僕の数メートル先を行くポニーテールがひらひらと気持ちよさそうに揺れている。咲果はほんの少しだけこちらに顔を向け、楽しそうに笑った。
「──すぐ追いつくよ」
僕はそう言って、ぐんっとペダルを強く踏み込む。
時折すれ違う色とりどりの車たち。頬を切る冬の風は冷たいのに、前を走る彼女の通り道だからかどこか甘い香りを含む。高く澄んだ青空と、眼下に広がる住宅地。その真ん中を流れる川を辿っていけば、その向こうには山々が連なっている。
僕はそっと目を閉じて、この場所の、この瞬間の空気を吸い込んだ。
──ああ、この場所ってこんなにいいところだったんだ。