「いっくん、もう帰れる?」

 鞄を掴んで今すぐにでも教室を飛び出したい気持ちをぐっと抑え、僕は平静を装いながら「ああ」と余裕があるような相槌を返す。咲果はにっと口を上げたまま、肩にかけた通学鞄の持ち手を握っている。

 ──彼女も楽しみにしてくれているのだろうか。

 そんな小さな期待が持ち上がりそうになり、いやいや冷静になれただの友達だ、と僕は自分に言い聞かせた。

 今日は職員会議があるとかで、午前中だけでは学校は終わり。そんな少し早めの〝放課後〟に遊びに行こうと咲果に誘われたのは、昨夜のことだ。
 昨日の僕はギターもダウンジャケットも持っておらず文字通りの身一つだったため、一時間もたたずに家に帰ることにした。あれほどに持て余していたイライラはいつの間にか姿を消して、卑屈を含めた自己嫌悪感も、咲果が川へと投げ入れた小石と共に下流へと流されていった。
 時間がそこまで遅いわけではなくても、あたりは暗い。僕は咲果のことを家の前まで送って行った。玄関に入る直前、振り向いた彼女は言ったのだ。
「明日学校が終わったら、ちょっと付き合ってよ」──と。

 ふたりで過ごすのは、別に初めてなわけではない。肩を並べて歩くのだって、言ってしまえば昨夜も同じようにしたばかり。それでも今日は、今までとは違っていた。

 まず最初に、放課後というちょっと特別な時間帯だ。普段僕はそのまま家に帰ることが多いし──寄るような場所もないというのが事実だ──、咲果はいつも倉田とふたりで帰っている。もしかしたら僕とは違ってショッピングモールにアイスを食べに行ったりプリクラを撮りに行ったりしているのかもしれないけれど、どちらにしても今日はそんな友人との楽しい時間を僕のために空けてくれたわけである。

 次に、服装。僕らが共に過ごしてきたのはいつも夜の帷が降りてからだ。僕はスウェットやパーカーにダウンジャケット。咲果は大抵風呂上りのようで、もこもことした洋服にスエードブーツと、ちょっと見た感じぬいぐるみのような印象を受ける格好をしていた。しかし今日は、お互いに制服だ。いくら冬とはいえ、制服の下に着膨れするほどのものを着込むのは難しい。さらに女子は、寒かろうが何かろうが、制服のスカートの長さは決して変えることがない。すらりとした脚がスカートから伸びているのをつい見てしまい、僕は慌てて視線を逸らす。
 それにしても、オレンジ色のマフラーをしているのはいつも同じだというのに、組み合わせだけでこうも違う印象を受けるのか。明るく笑う咲果によく似合っている。だなんて思っている時点で、もう僕はかなり彼女に惹かれてしまっているみたいだ。

 そして最後に、他人の目がある中で僕らが並んで歩くのは、初めてだということ。僕たちがあの川沿いの公園で会うときには、周りに人は誰もいない。真夜中なわけでもないのにどういうことか、本当にいつもひとっこ一人歩いていないのだ。同じ時間帯を切り取っても、僕が生まれ育ったあの街とはずいぶん違う。きっと住んでいる人たちの時間の使い方が異なるんだろう。まだ日が降りきらないうちに学校の外で一緒に過ごすのだって初めてのことなのだ。
 ちなみに、僕たちが毎晩のように会っているということは誰も知らない。それは咲果に口止めされていたから。とは言え、そんなことをされなくても誰かに言うつもりなんて最初からなかった。ギターを弾くのが好きだということを仲良くもないクラスメイトに知られるのもなんとなく嫌だったし、付き合っているだのと冷やかされるのも避けたかったし。

 だけど多分一番の理由は──僕の小さな独占欲だ。
 咲果との時間を、彼女の笑顔を、透き通ったあの歌声を、僕だけの記憶に閉じ込めたかったのかもしれない。