「今の段階でのイメージでいいから、ちゃんと書いてくること。来週の月曜に提出だから忘れてくるなよ」
担任のふじやんはそう言うと、がしがしと後頭部を掻きながら教室の扉から出ていった。それを追うように、ホームルーム終了のチャイムが鳴り響く。普通はチャイムを合図に帰りのホームルームが終わりそうなものだが、ふじやんは必ずチャイムよりも早くに教室を出ていくのだ。
手元に残されたのは、一枚の簡素なプリント用紙。上下にやたらと大きな余白があるA4サイズの中央に、三段の枠組みが印刷してある。枠の左には、〝第一志望、第二志望、第三志望〟の文字。
──進路希望調査だ。
「樹、大学もう決めてんの?」
いつの間にか荷物をまとめたボウが僕の前に立っていた。未だに制服姿ということは、今日は部活がオフなのだろう。普段ならば掃除の時間に着替えたジャージ姿のまま、ボウは部室へと向かうのだから。
「……いや、何も決めてない」
だけど僕はボウの放課後について、何も言わない。そしてボウもまた、それについて説明をすることはない。それが僕にとってはありがたくて、だけどここ最近では少しだけヒリヒリとした痛みを生じさせるのも事実だった。
僕たちは割といろいろなことを話すようにはなったと思う。ボウは倉田が好きだと真っ赤になりながらも打ち明けてくれたし──ちなみに言われる前から知っていた。あいつは本当にわかりやすいから──、妹の反抗期がひどい話も聞いたし、ハマっている漫画を全巻貸してくれたりもした。お気に入りのアイドルがいることも楽しそうに教えてくれたし、僕もまた、少しずつながら自分自身のことを話すようになった。
しかし、未だに〝サッカー〟という単語はお互いに一度も出したことはない。僕にとってサッカーはこれまでの人生の一部だったし、ボウにとってのそれは現在進行形で生活の大事なパーツに違いない。そんなものが会話に出てこないというのは、友人同士の会話として不自然でしかなかった。
ボウは卒業後をどう考えているのだろうか。やはりサッカーを続ける前提で大学を選ぶのだろうか。
──僕にはできない選択を、彼はするのだろうか。
グンッと一気に暗闇にいたもうひとりの僕が、僕自身の腕を強く引く。そこにいるのは、怪我をしてサッカーを失ったばかりの頃の僕だ。この世の中に絶望して、信じてもいなかった神様を憎み、空っぽとなった自分を呪った。死にたい、などと思ったわけではない。それでも『もうサッカーはできないでしょう』と医者から宣告されたあのときから、僕が〝生きている〟と実感することはなかったのだ。
なんでもいい。
どうでもいい。
何もかも、関係ない。
そんながらんどうな日々を東京で一年ほど過ごした。そして引っ越してきてからも、それは変わらなかったはずだ。──咲果と出会うまでは。
心の闇の中にいる僕は、光を持たない、黒い絵の具で塗りつぶしたような瞳で僕を見上げる。
『ひどいじゃないか。人生をかけていたサッカーを失ったのに、どうして笑えるんだ? サッカーのない生活に、なぜ慣れることができる? 僕が必死に費やしてきた時間や努力を、なかったことにするのか? 新しい生活なんて、必要ないだろう?』
恨めしげな顔で、僕は僕にそう訴えるんだ。忘れそうになった頃に、何度も何度も。