夜の空に向かって、今宵も僕は白い息をまるく吐き出す。
今夜はさらに冷え込むでしょうと気象予報士がテレビで言っていたけれど、今の僕に限っては厳しい寒さだって通用しないみたいだ。さっきから心臓がうるさくて、そのせいなのか暑く感じる。ダウンコートでしっかりと覆われている首元はなんならうっすら汗をかいているくらいで、僕は顎まで引き上げていたファスナーを少しだけ開け、ふぅーと大きく息を吐き出した。
──ついに、曲が完成した。
三日三晩、ほぼ眠らずに作業に集中した。僕の中にこれほどの集中力があったなんて、自分でも驚くくらい盲目的にそれに取り組んできたのだ。
咲果に早く謝りたい、早く今までのように話したい。その思いにはいつしか、早く咲果にこの曲を聞かせたい、早く彼女にこの歌を歌ってほしい、という願いが含まれるようになっていた。
だから今朝僕は、学校で咲果に言ったのだ。「今夜、いつもの場所に来てほしい」──と。
「こんばんは、いっくん」
じゃりっと靴と小石が擦れる音に、待ち人の声が転がる。いつも通りの明るく透き通った声。だけど心なしか、緊張しているようにも感じられるのは僕が緊張しているからなのだろうか。
「あ、うん……」
我ながらその返しはどうかと思う。来てほしいと言ったのは他でもないこの僕なんだから「来てくれてありがとう」とか「寒いのにごめん」とか「そのマフラー似合うよな」とか、そのくらい言えてもいいと思う。だけど僕は自分で自覚している以上に、この状況にとても緊張してしまっていたのだ。
「……隣、いい?」
いつもは何も言わずに隣に座るのに、遠慮がちにそう尋ねる咲果に僕の胸はツキンと痛む。
きっと彼女は今日も、僕の気持ちを優先させようとしているのだろう。いつだってそうだ。何も考えていないようで、自分が思うがままに行動しているように見えて、彼女の言動の全てには相手への思いやりが隠されている。僕は咲果のそんな部分に、今まで何度も知らずのうちに救われてきたのだ。
こくんと顎を引くと、咲果はほっとしたように眉を下げて笑う。ふわりと隣に落ちてくる、懐かしい柔らかな香り。
たったの三日だ。それなのに僕にとってこの瞬間は、ひどく懐かしいもののように感じられた。
「……あの、さ」
すうと息を吸い込んでから口火を切ったものの、若干声が震えてしまう。
ああ、かっこ悪いな。
僕はごまかすように咳払いを挟むと、「これ」と咲果に一枚のルーズリーフを差し出した。
首を傾げつつもそれを受け取ろうと伸ばした彼女の指先は、寒さで赤くなっている。真冬でも関係なく外で運動をして過ごしてきた僕と女の子である咲果では、どれほどしっかり着込んでも気温の感じ方は違うはずだ。きっとこれまで彼女は寒さに耐えながらも僕と一緒に過ごしていたのだろう。それなのに僕は今の今まで、そんな風に考えたことが、一度もなかったのだ。
己の不甲斐なさをまたひとつ思い知る。だけどそれでやさぐれるのは、もう終わりにしたい。
僕は差し出していたルーズリーフを一度自分の膝の上に置くと、羽織っていたダウンを脱いで彼女の膝下へと広げた。ふわりと優しく、なんてスマートにはできなくて、そっけなくパサリと掛けるような形になってしまう。
「え?」
「寒そうだし」
「わたしなら大丈夫だよ、いっくんが風邪ひいちゃう」
「暑いから」
「……え?」
「僕、今暑いから平気」
言葉までもが多少無愛想になったのは許してほしい。僕だって、こういうことをするのは初めてで、なんだか照れ臭いんだ。
かっこつけているなんて思われただろうかと、不安が頭をもたげたけれど、隣の咲果は柔らかな表情で「そっか」と言ってから僕のダウンで足元をすっぽりと覆い、小さな両手でそれをきゅっと握りしめた。
ダウンと一緒に心まで彼女に掴まれたような感覚に包まれる。視覚というものは、ダイレクトに心へと影響を与えるものなのかもしれない。
僕はもう一度咳払いをひとつすると、改めてルーズリーフを彼女へと手渡した。
「咲果に伝えたいことを、歌にしたんだけど」
「…………」
「最終的には、咲果に歌ってほしい曲になったっていうか……」
「…………」
「僕がギターを弾くから、咲果はこれを歌ってくれないかなって……」
「…………」
いつまで経っても返事はない。
もしかしたら歌を作ったなんて言われて、引いているとか? これって、俗に言う〝想いが重い〟というやつだったのだろうか。付き合っているわけでもないのに、一方的にこんなことをしても怖がらせるだけだったりして。
僕はまた、自己満足な行動をしただけだったのか。
「……だめ」
ぐるぐると冷や汗と共にネガティブな思いが回る頭の中に、静かな、だけどしっかりとした彼女の声が響いた。
『だめ』、すなわち『ノー』。つまりそれは、明らかな否定の言葉だ。
どこかで咲果は喜んでくれるんじゃないかとまで淡い期待をしていた僕は、その言葉に大きくダメージを受けてしまう。ぐわぁん、と金ダライで殴られたような衝撃だ。
しかし咲果は泣き出しそうな顔のまま、優しく笑ったのだ。
「わたしのために作ってくれたなら」
ひゅうと、冷たいけれど透明で滑るような風が彼女のおくれ毛をさらう。
「──いっくんが、歌ってよ」