向かった先は、いつもの公園だ。今夜もキンと空気は冷たいが、空を見上げれば満点の星空が広がっている。
東京にいた頃は、これの十分の一も見えなかったのにな。いつの間にかネオンひとつない、月明かりと星明かりが照らすこの景色に目が慣れてしまっている。
『人間とは、慣れる生き物』
いつしかじーちゃんが言っていた言葉が蘇る。あんなに嫌だと思っていたこの場所での生活も、今では日常として受け入れることができるようになってきた。最初はうざったいだけだと思っていたクラスメイトの存在が、ありがたいと思う出来事もあった。僕に笑いかけ、いつでも話を聞いてくれる彼女がいる毎日が、自分の中に定着していた。
もう全てがどうでもいいと思っていたのに、感情なんていらないと思っていたのに。今の僕は、この場所とここでの出会いに大きく心揺さぶられ、そして救われている事実を認めざるをえない。
はあ、と息を吐きだして冷えたコンクリートの段差に腰を下ろす。きっと今夜、咲果は現れないだろう。それがわかっているだけで、こんなにもつまらなく感じてしまうなんて。別に毎晩やって来るというわけでもないのに、いつからか僕は彼女の来訪を楽しみにしていたみたいだ。
「バカだな、僕……」
この土地に引っ越してきて一ヶ月半。色を失った僕の毎日は、咲果の存在を機に少しずつ色彩を取り戻していた。だからこそ、今僕が見上げる空は深い群青色をしていて、星だってキラキラと瞬いている。こんな風に空を見上げるようになったのも、この場所で咲果と音楽を通して遊ぶようになってからだ。
ギターの弦にそっと指を乗せる。ぴり、と冷えた指先に走るほのかな痛み。
その瞬間、まるで映画のエンドロールのように知らない音楽が脳内に流れ込んできた。だけどそれは、記憶の中にとどまってはいてくれない。その感覚を無理やり言葉にするならば、右の脳から左の脳、引いては心の中へと滑り落ちていくリボンを必死に掴もうとするも、指の間をすり抜けていく感覚と似ていた。
捕まえることに早々に見切りをつけた僕は、慌ててスマホの音声メモを起動させ、ほのかに残る記憶を辿りつつ指が動くままにメロディをなぞる。
それは演奏だなんて言えるようなものでは全くなくて、ただ必死に今通り過ぎていくメロディのしっぽを追いかけているような感じ。せわしなく、慌ただしい。指がもつれてしまうことも、音程が思っていたものとずれてしまうこともいくつもある。それでも指は止まらない。僕の中を駆け巡るメロディのリボンも止まらない。
無我夢中で追いかけて、最後にリボンが星空へと吸い込まれた。そのときに、やっと僕の指も、動くことをやめたのだ。
はぁ、と小さく息が漏れ出る。それは息切れにも近いような種類の呼吸で、僕の体は不思議と熱を持っていた。さっきまではシンシンと感じていた寒さもどこかへ行ってしまっている。ただ、ドクドクと驚くほどに心臓が波打っていた。
──なんだ、今の。
──ただ、すごく楽しかった。
今度はぞわぞわと全身が粟立っていく。僕はまじまじと、自分の両の手のひらを開いて見つめた。
そこにはもちろん、寒さと摩擦でほんのり赤くなった指先があるだけで、何も掴んでなどいない。それでも僕は確かに、ここに何かが生まれているのを感じたのだ。
「ナーォォ」
突然聞こえた猫の声に、僕ははっと我に返る。足元ではあの丸い猫がこちらを見上げている。そこで僕は、スマホをそのままにしていたことを思い出したのだ。
冷えたコンクリートの上で光る画面では、今もまだこの空間を録音している真っ最中だ。僕は停止マークをタップして、早速ファイルを再生する。流れてきたのは、冬の透き通った空気の音と、僕の拙いギターの音。まぶたの裏にはこの場所でその曲を歌う咲果の姿がくっきりと浮かぶ。
「書ける、かも」
ギターケースのポケットから、僕はノートとペンを取り出した。
ごめん
ありがとう
優しさに慣れてしまってた
気遣いに甘えていた
まるで子供みたいに自分勝手に振る舞ってさ
必死に追いかけたメロディをなぞりながら、自分の思いをノートにぶつける。こういうのを殴り書きと言うのだろう。ノートに綴られる文字は人様に見せられるようなものではなかった。それでも僕は書いた。何度も何度も再生ボタンを押しながら、時にはギターを弾いて確認しながら、言葉をノートへと刻んでいく。
手紙ひとつも書けない僕だけど、こういう形ならばきちんと思いを形にすることができる。
こうして僕の夜は、いつもの何倍もの速さで過ぎていったのだった。