「いっくんっおはよーっ!」

 背中から声をかけてきたのは、咲果──ではなく、くにゃっとシナを作って彼女のモノマネらしきことをしているボウだ。校門をくぐったところで後ろから抱きつかれたのだから、気分も最悪。ボウは前へと回って僕の顔を覗き込むと、げっとおもむろに顔をしかめた。

「ひっでー顔してんな、寝てねえの?」
「別に」

 くぁ、とあくびを噛み殺しながら距離の近いボウを右手で押し返す。

 正直に言えば、昨夜は一睡もできなかった。あれほどに怒りでカッと熱くなっていた体は、帰宅するまでのものの十分弱であっという間に冷えきって、代わりに絶望に似たほどの罪悪感が体中を支配していった。

 どう考えても、あれはただの八つ当たりだった。咲果が歌うことに前向きになれないのは何か事情があると思っていたはずなのに、気づけば僕は自分を話の中心に置き換えていたのだ。彼女の事情を何も知らないままに、勝手に状況を比べて卑屈になった。同情でもしているのか?なんて、あのとき僕に同情していたのは、他でもない僕自身だったのだ。

 あの後、寒空の下にひとり残された彼女はどうしたのだろうか。泣いただろうか。それともケロリとした表情で家に戻ったのだろうか。

 ──どちらにしても、僕がひどい言葉を放ったのは事実だ。

 朝会ったら、どんな顔をすればいいのだろう。もしかしたら怒って目も合わせてくれないかもしれない。そんなことを考えていたら、眠気なんて一向にやってこなかったのだ。

「ボウおはよーっ!」

 お、と無理くり肩を組んできたボウが顔を捻るのがわかる。僕の心臓はビクリと跳ね上がった。だってその声は、本物の咲果のものに違いなかったから。
 思わず体が固くなるとそれを感じたらしいボウは、「お? お?」と言いながら僕の体に何度も体重をかけたりしていた。

「いっくんも、おはよ!」

 タタッと駆け足で僕らの横を通り過ぎた咲果は、小さく振り向きながら笑顔を向けてきた。それはいつも通りの、透き通った明るい笑顔。

「……おはよ」

 耳の上あたりでくくったポニーテールと、くるりと巻いたオレンジ色のマフラーの端がひょこりと揺れる。十メートルほど先まで遠ざかってしまった彼女の背中に向かって、僕は届かない〝おはよう〟を複雑な想いと共に吐き出したのだ。