自分の中で、ぷつりと何かが大きく弾けた。
これ以上踏み込ませない、笑顔の壁。僕の言葉なんて、彼女の心にはこれっぽっちも響いていない。咲果の声には、真実などひとつも含まれていない。
彼女はきっと──いや絶対に、そんな風に思っていない。目の前の彼女が見せる底抜けの明るさに、僕は偽物を感じてしまったのだ。
「……それなら明日、メインパートに異動するって言うんだよな?」
怒りは極力抑えられたものの試すような口ぶりになってしまったが、もはや後には引けない。実際に咲果を追い詰めてやろうという気持ちが、ジリジリと僕の背中を押していたのだ。
そのあとだって僕の思っていた通り、眉を下げたままやっぱり彼女は笑っていた。その笑顔に、腹の奥底からチクチクとした痛みがせり上がる。
どうしてそんな諦めたような顔で笑う?
どうして思ってもいないくせに、僕に同調する?
──なあ、僕に同情でもしているのか?
ぐるぐると渦が巻く。小さな苛立ちは徐々に周りを巻き込んで、他の渦を吸収し、どんどん大きくなっていく。僕の心を荒らしていく。咲果の話をしていたはずなのに、いつの間にか渦の中央には僕の失われた夢が鎮座していた。
「……なんだよそれ」
自分で思っていたよりも、ずっとずっと低い声が響く。どこかでもうひとりの自分が、それに驚いているのを感じた。
「僕はもう、やりたくてもやれないのに……」
サッカーへの思いは、全て手放したはずだった。あの日、ボールからユニフォームから何もかもをゴミ箱に押し込んだとき、こんな思いも一緒に捨てたはずだったんだ。
何かを〝やりたい〟だとか。何かに〝なりたい〟だとか。〝希望〟だとか〝夢〟だとか〝将来〟だとか。
それなのに、輝く光を手に持ちながらも動こうとしない彼女を見ていると、僕の中にほんの少し残っていた未練のカケラがざくざくと心を刺す。それが痛くて、苦しくて、歯がゆくて、それでいて腹立たしい。
僕は逃げたわけじゃない。仕方がなく、手放した。だけど彼女は、動く前に諦めている。
「咲果は、逃げているだけじゃないか」
――ざくり。
どういうわけだろう。その言葉は確かに咲果に向かって放ったものなのに、同時に僕の心をも強くえぐった。
咲果はどんな顔をしているのだろうか。もしかしたらそれでもまだ、彼女は笑っているのかもしれない。
そんなことを考えたら、もうそちらを見る気にはなれなかった。僕は無言のままそそくさとギターをケースにしまい、彼女に背を向け歩き出した。「ナーォ」という丸い猫の低い鳴き声だけが僕の背中を引くように響く。
それでも僕は、足を止めたりしなかった。咲果が何も言わないのをいいことに、追いかけてこないのをいいことに、僕は彼女の元から逃げ出したのだ。
家までは歩いて十分。いつもよりスピードを上げ、大股で歩を進めた。凍てつくような風が僕の頬をペチペチと何度も叩いては通り過ぎる。ヒリヒリとした皮膚の痛みは、やがて胸の奥にできたジクジクした痛みと同化していった。
「……だから冬は嫌いなんだ」
誰にでもなくそう言った僕は、足元に転がっていた石を舌打ちと共に蹴飛ばしたのだった。