「いっくん、こんばんは!」

 その日の夜、公園でギターを抱えていた僕の前に彼女は現れた。

 ここ最近、僕はほぼ毎晩のようにこの場所でギターを弾いている。しかし咲果がここへやって来るのは毎日ではない。僕たちは約束をしているわけではないし、女の子である咲果が夜に外出をするというのは、僕が同じようにするよりもハードルが高いのかもしれない。両親だってやっぱり心配するだろうし。
 それでも今夜、きっと咲果は現れると僕はそう思っていた。

 オレンジ色のマフラーで顔の半分を隠した彼女は、自然な様子で僕の隣へと腰を下ろす。ふわりと舞うのは、シャンプーの甘い香り。ドキッとした心を、風呂上がりで外出したら風邪を引くんじゃないかという保護者みたいな心配で落ち着かせる。
 「いやぁ今日も冷えるねぇ」などと言う咲果は、言葉の割には楽しそうだ。いつもそう。彼女はいつでも、どんなときでも、本当に楽しそうな表情をする。あ、赤点を取ったときだけは本当に焦った顔をしていたけれど。
 思い出して口の端が微妙に持ち上がってしまうと「あーいっくん思い出し笑いしてるでしょ」と図星を突かれてしまった。

「ね、今夜は何にする?」

 数回、この場所で僕らは音と音を重ね合わせた。僕がギターを奏で、彼女は声を奏でる。それは誰に聞かせるでもない、僕たちふたりの遊びのようなものだ。目的があるわけでもないし、目指すものがあるわけでもない。
 それは例えば、小学生の頃の休み時間に夢中になったドロケイとかと同じようなものだ。子供たちは決してマラソン選手になるために走り回るわけじゃないし、警官になる訓練としてドロケイに興じるわけでもない。泥棒に至っては論じるまでもないだろう。子供たちがそれに夢中になる理由はただひとつ。〝楽しいから〟だ。

 僕は彼女の問いには答えず、今日初めて耳にしたメロディのイントロを、なんとなくの記憶を辿り指に乗せる。隣の彼女を包む空気が少しだけ固まるのを感じたけれど、気付かないふりをしてギターを弾き続けた。しかしいつまで経っても、そこに歌声が重なることはない。

「──なんで、って言いたいんでしょ」

 ブツリと曲の途中で演奏を切ると、咲果は苦笑いしながらいつものように足先をゆらゆらと揺らした。
 どうやら僕が言いたいことは、もう伝わっているみたいだ。不思議だなと思う。僕には彼女の気持ちが全くわからないのに、咲果は僕が言わんとしていることがギターの音色だけでわかるのだ。

 パート割りを決めたあと、僕たちは先生のピアノ伴奏に合わせて歌の練習をスタートさせた。とは言っても、本格的に練習が始まるのは次回からで、今日行われたのは簡単な音合わせみたいなものだ。みんなが楽譜を見つつ、周りの音程を探りつつ、なんとなくで歌詞と音符を拾っていく。

 ギターを弾くことはできる僕だけど、じーちゃんから習ったギターコードと一般的な楽譜は全く違う。耳で聴いて覚えるタイプの僕にとっては、おたまじゃくしが縦になって泳いでいるような楽譜ではメロディをイメージすることすらできず、今日はほとんど口パク状態だった。そしてそれは、歌が得意なはずの咲果も同じだったのだ。

「なんでバックコーラスに?」

 すぐに核心に迫りたい気もしたが、僕はあえて順番を守るようにその質問からスタートさせた。
 きっと咲果には、咲果なりの理由がある。僕がサッカーから離れた理由があるように。そしてそれは、簡単に土足で踏み込んでいい部分ではないという気がしたのだ。

「人数が一番多いから」

 その他大勢になれると楽でしょ、と彼女は口笛を吹くようにそう付け加えた。

「なんで音楽に興味のないふりを?」

 音楽の授業中、彼女はずっと隣の席の倉田と楽しそうにおしゃべりをしていた。
 授業のときにコソコソとおしゃべりを楽しむ。それは高校生──特に女子にはよく見られる光景だ。

 しかし僕が気になっていたのは、咲果が他の授業ではいつも真面目に授業を受けているという点だった。赤点を取ったことはあったものの、彼女の授業態度は一ヶ月ほどしかこの学校にいない僕から見ても優良なものに違いなくて、先生から注意されているところなんて見たことがない。
 そんな彼女の今日の態度は、わざと音楽に興味がないということを周りにアピールしているようにも見えたのだ。

「あー……。それはね、ちょっとした事情っていうか、辻褄合わせというか……」
「辻褄合わせ?」

 うまく説明する言葉が見つからないのかもしれない。咲果は腕を組み、口元をきゅっと結ぶと視線を彷徨わせた。

 『音楽が好きだと周りに知られたくないのか?』『歌うことを恥ずかしいと思っている?』『自分の歌を過小評価してるんじゃないか?』

 心の中から湧き出てくる言葉たちを、すんでのところでみぞおちへと押し返す。
 僕がどの言葉を言ったところで多分それはどれも彼女にとっての正解ではなくて、それでも咲果はそれら全てに困ったように笑いながら頷くような気がしたからだ。
 だから僕は、じっと我慢して彼女が言葉を見つけるのを待つ。

 咲果は右手を口元に置いたまま、じっとどこか一点を見つめている。時折、とんとん、と丸めた人差し指の第一関節を唇に当てているのは、思考を巡らせている証拠なのかもしれない。彼女の頭上に、インターネットのページを読み込むときのクルクル回る円が見えるような気がした。
 ──と、彼女は「これだ」とひとりごちると、姿勢を正してふぅーっと長い息を吐き出した。

「わたしね、小さい頃からずっと歌手になりたかった、って前に話したよね」

 それは初めて僕があの歌声を聴いた夜、彼女自身がつぶやいた『歌手、なりたかったな……』という心の言葉。彼女は今から、あのときの続きを話そうとしている。そう感じた僕は、咲果と同じように背筋を伸ばした。