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「樹、パート分けどうする? 俺、歌得意だからメインいっちゃおうかと思ってんだけど」
いつの間にか隣の席に陣取っていた前野がしたり顔でそんなことを言っている。
いや、なんでお前が隣にいる? いやその前に、その呼び方は何なんだ?
現在、僕たちがいるのは学校の音楽室。もちろん音楽の授業中だ。
音楽室と言えば、前の方にドカーンとグランドピアノが置いてあって、隅には大太鼓や小太鼓が壁に沿った形で収納されて。壁面にはベートーヴェンやモーツァルトたちが難しい顔をして並び、視線を少し下に落とせばおばあちゃんが作ったかのようなキルティング生地のカバーがかけられた木琴や鉄琴が鎮座する。教室に机はなく、木製のスツールが必要に応じて並べられるというのが今まで僕が見てきた音楽室だった。
しかしこの学校の音楽室には三人がけの長い机が並べられており、各々好きな席で授業を受けることができる。僕にとっては新しい授業スタイルだ。
席へのこだわりなんかはないため、普段の教室と同じ窓際の一番前に座る。するとごくごく自然な様子で前野がその隣へと滑り込んできたのである。しかも何の躊躇もなく『樹』と僕を呼び、旧友かのような気軽さで声をかけてくるのだ。
やつが僕を樹と呼んで以来、なぜか僕らが一緒に過ごす時間は増えている。あっけらかんとしていて裏表のない前野は、実際のところ相当に鈍いのだが、非常階段での一件は心に刻まれているらしい。一度もサッカーという言葉を出すことはなく、流されるように僕はやつと少ないながらも会話らしきものをするようになっていた。
「前野がやりたいなら、メイン行けばいいと思うけど」
〝メイン〟というのは合唱のメインパートのことだ。三月に行われる卒業式で、二年生がはなむけの歌を歌うというのは全国共通の習わしらしい。この学校でも例外なく、三年生を歌で送り出すという慣習が残っている。ただ少し特殊なのは、その熱の入りようがすごいということ。普通ならばソプラノ、アルトとふたつのパートにわかれるくらいのものが、ここではさらに細かいパート割となっている。
主となるメロディラインを歌うメインパート、定番のソプラノとアルトは健在、さらには主旋律をなぞることの一切ないバックコーラスというパートが用意されているのである。
ちなみにパート割は基本的には挙手制。あまりにも人数に偏りが出た場合は、残酷なことに簡単なオーディションのようなものが行われるらしい。特に花形でもあるメインパートは狭き門のようだ。
僕はもちろん、バックコーラスに手を挙げるつもりでいる。ギターをちょっとくらい弾けるからと言って、歌がうまいとは限らない。僕だって自分の歌唱力に難があることくらいはちゃんと自覚しているのだ。
「前野とかやめろよ、他人行儀じゃん」
前野は鼻にシワを寄せると、そのまま片方の目を細める。わかりやすいほどの〝しかめ面〟だ。
きっと前野は、漫画を読むことが好きだと思う。だってその表情は、僕ですら見覚えのある人気漫画のキャラクターがよくする表情にとても似ていたからだ。それにしても、どうして咲果にしても前野にしても、距離の詰め方がこうも強引なのか。他人であることは事実なのに、やたらと〝他人行儀〟を嫌がる。
僕が黙っていると、前野は今度は少しだけ頬を赤く染めながらぼそりと呟いた。
「りゅ……竜でいいけど」
──前野竜、の、竜?
みんなからあだ名で呼ばれている前野は、実は下の名前で呼ばれることに憧れを持っているのかもしれない。
「……わかった、ボウ」
「いやっ、だから! 竜でいいって言ってんのに!」
面倒だと思っていたはずのクラスメイトとのやりとり。それでも咲果の影響で耐性がついたのだろうか。嫌な気持ちはしなかったし、素直すぎるクラスメイトを前に僕の口角は少しだけ上がってしまっていたかもしれない。その証拠に、隣のボウは満足そうに鼻の穴を広げていた。