ゆっくりと立ち上がった咲果は、夜空へ両手を伸ばしながら大きく深呼吸をする。つられるように、僕もその場で胸いっぱいに冬の空気を吸い込んだ。
 ひんやりと染み渡っていく、透明な空気。そこにほんのりと交じる、彼女のシャンプーの香り。

「歌手、なりたかったな」

 踵をあげてさらに上へと背伸びした彼女は、解き放つようにそう言った。

「なれる……」
「え?」

 反射的に口から言葉が飛び出る。〝なりたかった〟だなんて、過去形にしなくていい。
 もちろん僕は、咲果のことを何も知らない。どんな事情があってその夢を過去形に変えたのか、どんな思いを乗り越えてその台詞を放ったのか、そんなことは何もわからない。
 それでも僕は知っている。彼女の歌声が、人の心を強く強く揺さぶること。彼女の声そのものが、特別な響きを持っているということ。そして何よりも、彼女自身、歌うことが大好きなのだろうということを。

「なれるよ、歌手」
「……そうかな」
「絶対なれる」
「……ありがとう」

 どきりと心臓が高なったのは、咲果の瞳から涙がこぼれ落ちたように見えたからだ。実際にはそれは僕の勘違いで、咲果はもう一度伸びをすると、今度はくるんと僕の方へと体を向けた。そこにはもう、泣き出しそうな気配は一切感じられない。

 彼女と会話をするようになってまだ二日目だが、咲果は切り替えがとても得意なタイプだということはわかった。そしてその切り替えは、それ以上踏み込ませないための彼女なりの棘の形なのかもしれないと、そんなことを感じていた。