「……ほい、チェックメイト」

 ことん。
 軽い音を立てて、俺はコマを置いた。
 魔王は何度か目をぱちくりさせ、盤上を端から端までじっくりと眺め、限界まで首を傾げてから、

「……待ったしてもいいですか?」
「良いけど、ここからだと一手戻したところでどう動いてもお前の敗けだぞ」
「うえー。じゃあ良いです」

 事実を伝えると、やる気をなくした魔王がべちゃ、と机に突っ伏した。

「勇者さん、魔界チェス強いですね」
「そうか?」
「はい。私、地元民なのにぼろ敗けですよ……そうだ、勇者さん。実は魔界チェスも人間のチェスも、起源は同じなんですよ」
「……戦を学ぶため、か?」

 人類のチェスの起源は、仮想戦争、つまり国同士の戦いを学ぶためらしい。
 魔界のチェスも、細かいルールは違うようだが、そのルーツは同じところにあるようだ。

「そうですそうです。姿形、文化、言葉……いろんなものが違ってても、同じこと考えてるところもあるんですね……まあそれが戦い、というのは少しアレですけど」
「……なんか嬉しそうだな」
「だって、似てるところがあったんですよ? だったら歩み寄れる……って、思えません?」
「それはさすがにポジティブ過ぎないか? 似てるっていっても、戦争のことだぞ……」

 俺の言葉に、魔王は身体を机から起こして、少しだけやけ気味の笑顔を浮かべた。

 
「それくらいポジティブに考えないと、やってけないですよ。……現実では、山のような書類と毎日戦ってるんですから……いやほんと、なんなんでしょうねあの山は……毎日毎日、どうやって処理してるんだろう、私……」
「記憶が飛ぶほど頑張ってるのはなんとなく分かったわ……お疲れさん」

 簡単な言葉だと思うけれど、これ以外の言葉が出てこない。
 人類は魔族に負け、人界は魔王に征服された。
 だというのに、人類が家畜や奴隷として扱われていないのは、目の前にいる魔王が人類の権利を認め、そのために尽力しているからなのだ。
 人間のために戦い続けた俺としては、感謝して、労う以外にない。

「いえいえ。これもお仕事ですから。人間と魔物、双方のために必要な、ね。それに、斬った斬られたより、書いて判押したの方が楽ですよ。肩は凝りますけど」
「……血生臭くないのが一番ってことか」

 肩が凝るのはその胸のせいもあるんじゃないのか、という言葉はさすがに飲み込んで、俺は頷いた。

「当たり前ですよ。……しかし、勇者さんは本当に強いですね。軍師の才能があるのかもしれません」
「勇者が軍師ってのも、どうかと思うけどな」
「良いじゃないですか。才能は貴重ですよ」
「勇者する上で必要ないようなものでもか?」

 軍略というものを理解するために、人類のチェスも多少はかじっている。
 しかし実際の戦争で、俺は人を指揮するような機会は無かった。
 人々の希望を受けて、真っ先に魔族の軍へと突撃する。勇者というと聞こえは良いが、行ってみればたったひとりの特攻隊。
 
 兵法や軍略を使う機会は無く、むしろ策を弄してくる相手を正面突破するのが常だった俺に、軍師の才能なんて無用だろう。
 首を傾げていると、魔王は邪気の無い笑みで、

「勇者さん、自分で『好きで勇者になった訳じゃない』って言ってたじゃないですか」
「それは……そうだが。というか、覚えてたのか」
「もちろんです、勇者さんが言ったことですから。それに、個性なんて人それぞれですよ。私が今まで戦ってきた勇者にも、いろんな人がいましたし。髪の色、目の色、肌の色……性格も違えば、性別だって違いましたよ?」
「女の勇者もいたのか?」

 自分より前にいた歴代の勇者について、俺が知っていることは多くない。
 そもそも興味があまりなかったし、勇者という存在が恭しく崇められる以上、その伝説には多少の尾ひれがついて回っている。
 実際、各地に建てられた俺の勇者像も本人よりだいぶイケメンにされてしまっていたりするので、実際に歴代の勇者と対峙した魔王の体験談、というのには少しばかり興味があった。

「いましたよ。身体は男で心は女って勇者もいましたね」
「変に闇を抱えたやつまでいたのかよ……」

 勇者という重責で、いろいろ溜め込んだ結果なのだろうか。

「負けそうになると命乞いする勇者もいたし、それでも剣を振るう勇者もいました。本当に、いろんな人がいて……でも、最後はみんな、私が……或いは、私の部下が……殺しました」
「……そうか」

 殺した。
 口にするのはあまりにも簡単だが、その声色に寂しさが含まれていることが、どうしても分かってしまう。
 まだ、出会ってたったの数ヶ月。けれどその数ヶ月の間、こうして話をし続けているのだ。

 こいつが積極的に誰かの命を奪って喜ぶかどうかなんて、もはや悩むまでも無い。
 それでも、俺に隠し事をしないために、言いたくもない、けれど絶対に覆らない事実を、話してくれているのだ。

 紫の瞳に寂しさを宿して、魔王は深く、溜め息を吐いた。

「あの人たちにも、勇者さんみたいに意外な才能があったのかもしれないですね……もう、それを見ることは、できませんが……」
「……過ぎたことだ。あんまり、その、自分のこと責めるなよ」
「あら、心配してくれるんですか?」
「……そういうんじゃねえよ」

 心配しているわけじゃない。
 あんまりにも悲しそうで、寂しそうな顔をしているから、気になってしまっただけだ。
 きっと、人よりも長い寿命を持つ彼女が、何十人、或いは何百人と現われる勇者を見て、戦死する仲間を見て、どれだけの長い時間を過ごしたのかと、そんなことを考えてしまっただけ。

「ふふ、大丈夫です。勇者がそうであったように、私だって戦わなければいけない立場でした。だから……ちゃんと納得はしてますよ」
「……そうか」

 納得していると言って笑う魔王の顔は、明らかに寂しげで。
 どこが納得しているんだという、説教臭い言葉を俺は飲み込んだ。

「それにもう、そんなことにはならないんです。だからもう、そういうのは過去として、時々私の心をちくっとするだけの話で――」

 ――ぐぅうう。

「……あぅ」
「…………」

 鳴った。しかも、思いっきり。
 言葉を遮って鳴った、部屋中に響き渡るほど大きな腹の音は、もちろん魔王のお腹から発されていた。
 さすがにタイミング的にだいぶ恥ずかしかったらしく、魔王は頬を真っ赤に染めて、固まっていた。

 なにか言うべきだろうかとも思うが、なにを言ってもフォローにならない気がする。
 俺と魔王はそのままたっぷり数秒、無言で見つめ合った。
 やがて、魔王は諦めたように顔を緩め、長く真っ白な耳をへちょ、と垂らして、

「え、えへへ……お、お腹空いちゃったんで、ご飯作ってくれませんか?」
「……おう、任せろ」

 恥ずかしそうな笑みは、寂しげな笑みよりもずっと良いと思えるようなもので。
 俺の方もなんとなく、頬が緩んでしまうのだった。