「…………」
「……ええと」

 なにを言えば良いのか、正直わからなかった。
 魔族たちは俺を独房に戻して帰っていき、魔王は残った。
 こうして、いつも通り、俺の独房にふたりきり、なのだが。

「…………」

 目の前にいる魔王が、じっとこちらを見上げている。
 魔法陣の刻まれた視線がこちらに投げかけられて、感情がないまぜになる。
 大事なひとだと言ってくれて、そのために奔走してくれて。
 だけどそうなったのは、間違いなく俺がここにいるせいで。
 嬉しいのと悔しいのとがごちゃごちゃになって、言葉がつくれない。

「勇者さん」
「お、おうっ」

 声をかけられて、反射的に返答した。
 魔王はゆるやかに一歩、俺の方へと歩み寄って、

「……めっ」

 ぺちん、とあまりにも軽い音が、俺の頭を打った。

「は、え……?」

 あまりにも唐突で、緊張感のない叱責。
 まるで悪いことをした子供を叱る親のような、優しい平手が、俺の頭に落ちた。
 髪の毛のクッションだけで充分痛みがなくなってしまうような、弱すぎる、だけど確かな衝撃がしっかりと頭の奥に響く。

「……ダメですよ、勇者さん。自分の命を、軽々しく捨てたら」

 はじめて出会ったときのように、あるいは俺が母親を信じられなかったときのように。
 魔王は俺の間違いを、あらためて否定した。

「……うん」

 言い訳は、しなかった。
 彼女が言うことが正しいと思ったし、なにより魔王がそれを望んでいないことを知っていたのに、俺は自分が死ぬことを受け入れようとしていたから。
 彼女が悲しむことがわかっていたのに、俺は抵抗しなかったのだ。

「……わかってます。勇者さんが、私に迷惑をかけないようにとか、人類の立場が悪くならないようにとか、そもそも魔族と争いたくないとか……そういうことを、考えていたことは」
「……ああ」
「それでも……それでも、です。あんなふうに、受け入れるのはダメです。それを仕方が無いことだと受け入れてしまったら……それこそ、人類の皆さんを守ることができなくなってしまいます。なにより、あなただって、ひとりの人類なんですから」
「うん……悪かった」

 魔王のいうことは、もちろん分かる。
 俺が殺されるということは、魔族にとって最後の抑止力がなくなるということでもあるのだ。
 新しい勇者がどこかで産まれたとしても、それこそ探し出して殺してしまえばいいのだから。

「分かってくれれば良いんです。よかった、勇者さんが無事で……」
「…………」
「安心してくださいね、今後はこんなことがないようにしますから。警備も強化するし、『勇者』という存在の構造についても周知を――」
「――なあ、魔王」
「はい、なんでしょう? あ、もしかしてどこか痛いですか? 回復魔法使いますか?」
「いや……そうじゃなくて」

 しいて痛いところがあるとすれば、胸の奥だ。
 魔王に面倒をかけて、哀しい顔をさせたという事実が、心臓をきつく縛ったような痛みになって胸の奥に鎮座する。
 そしてその痛みが、魔法ではどうにもならないことも知っている。

 さっきまでぐちゃぐちゃだった頭の中が、整理されていく。
 まるで魔王に叩かれたことで、喉に詰まっていた食事が取れたみたいに。
 言いたいことが、自然と言葉になった。

「俺は……お前に迷惑をかけてばっかりだ」
「……急になにを言い出すんですか。そんなことぜったいありませんよ」
「『勇者』として、人よりすこしばかり腕っ節が強いだけで……いるだけでお前の立場を悪くしてる」
「……自棄(やけ)になっちゃダメですよ」
「ん、相変わらず、難しい人類語知ってるな。……自棄じゃなくて、事実だよ」

 落ち込んでいるわけじゃない。
 俺が口にしているのは、ただの事実だ。

「人類に勝利をもらたさなかったし、魔族にとっては恨みの対象で……どう扱っても、面倒な存在だ。お前に気をつかってもらってばかりで、守ってもらうばかりで……なにも、返せるものもない」
「勇者さん……」
「自分で分かってるんだ。いろんなやつに迷惑をかけながら……魔王やその部下たちにたくさん助けられながら、なんとか俺は生きてるって」

 いつか、『勇者』だった頃のように。
 戦いが強いだけでどうにかなるような状況じゃない。
 今の俺は、誰かの助けがなければ生きることすら難しい立場にいる。

「もちろん……今ここで逃げ出すことはできる。魔王城を抜け出して……どこか、遠くに。むしろ、その方が良いかもしれないくらいだ。俺が勝手に出て行ったなら、誰かが責められることも少ないだろう」

 真面目な話、正面からやりあって俺を止められるとすれば魔王やメイドくらいだ。
 ろくすっぽ拘束されていない、独房とは名ばかりの部屋から逃げ出してしまうのなんて、難しくない。
 魔界の厳しい土地であっても俺くらいの強さなら生きていけるだろうし、人間界に逃げ込んでどこかひっそりと暮らすことだってできなくもないはずだ。

「でも――」
「――だめです、勇者さん」
「あ……」

 ぎゅ、と手をつかまれる。
 魔王の手はよわよわしくて、震えていた。
 それでも、今にも涙をこぼしそうな目は、はっきりと俺に向けられている。

「だめ、です……どこにも、いかないでください……」

 ……ああ、本当に。

 なんでそんなふうに、まっすぐぶつかってきてくれるのか。
 ひねくれた自分には勿体ないほど有り難くて、優しい手。
 そのくせ、臆病な俺よりもずっと覚悟と勇気に満ちた瞳。

「……分かってるよ、魔王。心配しなくても、そんなことはしない」
「……ほんとう、ですか……?」
「ああ、本当にしない。というか、困ったことに、それができない……いや、したくないって、思うんだ」
「え……?」

 俺が捨て鉢になっているわけではないということに、気付いたのだろう。
 魔王の目から悲痛な色が消え、かわりに疑問が浮かぶ。

 こんなにもまっすぐに、相対してくれるのだ。
 俺も、少しくらいは勇気を出して言わなければいけない。
 魔法陣の刻まれた深い紫の目を見据えて、俺は言葉を続ける。

「頭ではちゃんと分かってるし、迷惑をかけたくないとも思ってるんだ。でも……できない」

 自分の存在が魔王にとって負担や不利になっていることは、理解している。
 そんなふうに迷惑ばかりかけている自分に、無力を感じてもいる。
 それでも、俺はここを離れたくないと思ってしまっている。

 こんなにも弱々しく結ばれてくる手指を、ほどけない。
 それくらいに、俺は彼女のことを好いてしまっている。
 言葉にすると止まらなくなるとわかっているけれど、既に口はひらいてしまった。

「……お前といると、楽しいんだ」
「あ……」
「魔王がこの部屋に来てくれることを考えるだけで、嬉しくなる。お前と向かい合って飯を食ってるだけで、普段より何倍も美味いって思う」

 魔王と、離れたくない。
 彼女との時間を、失いたくない。

「来てくれない日は寂しいし、ひとりで食うのは味気ない……それで、いつも寝る前に思うんだ。明日は魔王、来るかなって」
「勇者、さん……」
「……最初は、この命を差し出すつもりだった。次は、人類のために捕虜になるのが最善なら、そうしようって思った。お前のことも、疑ってばかりだった。でも……お前が何度もここにきて、いっしょに飯食って、たくさん話して、いろんなもので遊んで……いつの間にか、俺は人類のためじゃなく、自分のためにここにいるようになってた。……俺が、お前に会いたいから」

 人類の守り手であったことも、敗者で捕虜であることも忘れて。
 ただのひとりの人間として、彼女が部屋に訪れるのを待つようになった。

「それだけじゃない。魔王に教わった魔界チェスが趣味になって……もう、戦いたくないって思った。平和な場所で、のんびりチェスでも打っていたいってな」

 戦うことが自分の意味だと思っていた。事実、そのとおりだった。
 そしてその場所が取り上げられて空虚だった俺に、魔王はいろんな感情を注いでくれた。

「メイドとも話して、外に出て……魔界と、魔族を見て。その気持ちはもっと強くなった。人類も魔族もどっちも変わらない、本当なら戦いなんてなくて……平和に暮らせるなら、その方が良いって。わだかまりがあっても、いつか無くなったら良いなって」
「…………」
「それで……そんな平和な世界に、時間に……俺は、お前といっしょにいたいって、思っちまったんだ」

 欲がでている、我が儘だと思う。
 それでも、思うことはとめられない。
 気持ちを押し込めることはできても、なくすことは絶対にできない。

「……迷惑をかけてるのも、自分が面倒な立場だってのも分かってる。それでも……俺は、お前といることを……失いたくない……失いたく、ないんだ」

 そしていざ言葉にしてしまえば、押し込めることすら難しくなる。
 自分でも意識しないうちに手指が伸び、彼女の頬に触れる。

「……勇者さん」

 魔王は俺の指を、拒否しなかった。
 瞳から疑問はなくなり、まっすぐな紫の目が俺を見つめてくる。
 彼女の瞳の奥にある、優しい闇に吸い込まれるように。
 今まで抑え込んでいた気持ちを、俺はようやく完全に受け入れた。

「……だいじょうぶですよ、勇者さん」

 頬に触れている指に、彼女の手が重なる。
 俺のものよりも遥かに細く、ひんやりとした指が、絡められてくる。

「……私も、同じですから」
「同じ……?」
「私も、いつの間にか気持ちが変わっていたんです。最初は、これ以上誰も血を流してほしくなくて……人類のことを守りたくて、勇者さんを保護するために、捕虜という名目を使いました」

 覚えている。魔王は俺のことを、『客人』として扱いたいと言っていた。
 だから、俺にこんなに快適な『独房』が用意されたのだ。

「それで、勇者さんはこの魔界に慣れて無くて……話せる相手もいなくて、不安だろうなとか……もし恨み言があるなら、私がぜんぶ受けるべきだって思って……ここに、足を運んでいました」
「……うん」
「でも……でも、です。ここであなたと話して、ご飯を食べて、遊んで……いつの間にか、私から義務感や、お仕事って気持ちがなくなっていました」
「魔王……」
「ん……」

 魔王は、俺の手を少しだけ強く握った。
 強い、けれど痛くはない、確かな感触。絡めていた手指を引き寄せて、彼女は自分の頬に俺の手を押し当てる。
 指だけじゃない、てのひら全体に、魔王の温度と柔らかさを感じる。

「勇者さんとたくさん話して……『勇者』という役割ではなく、『あなた』のことをたくさん知って、そのたびに……私の中で、勇者さんが大事になっていって……」
「…………」
「勇者さんに会えないと寂しいし、あなたのことを思い出すだけで胸がぎゅうっとなります……それで、会えない日の最後は、いつも思うんです。明日は会いにいけるかなあ、って」
「あ……」
「……ね。同じ、でしょう?」

 照れくさそうに、魔王は笑った。
 てのひらに感じている温度が、ぐんぐんと熱くなってくる。
 顔を真っ赤にしながら、彼女は言葉を続けた。

「勇者さんをここに、魔界に招いたのは確かに私が人類のために選んだことです。でも、今は……人類のためじゃなく、私のために、あなたにここにいてほしいって思っています」
「魔王……」
「私のために、ご飯を作って、待っていてほしい。ううん、本当は会いにいくんじゃなくて、いつもいっしょにいたい……」
「っ……」
「分かってるんですよ? 私は魔界の女王で、勇者さんは人類の『勇者』で……ただ仲良くするだけでも難しい立場で、そういうわだかまりはもっとゆっくりと解消するべきなんだって。でも、でもっ……」

 うるんだ、けれど泣いているのではない、熱のある瞳が、まっすぐに向けられてくる。
 きっと俺も、似たような目をしているのだろう。
 彼女がいうように、俺たちが考えていることはきっと同じだから。

「あなたといることを、私は失いたくないんです……それどころか、もっともっと、近くにいたいって……思っています」

 相当恥ずかしいのだろう。魔王の白い肌は真っ赤だ。
 だけどきっと、俺も同じくらい赤くなっているのだろう。

 お互いの気持ちをさらけ出すというのは、とても気恥ずかしい。
 けれど、彼女になら良いかと思える。
 目の前にいるのは、それくらい大事だと思える相手だ。
 
「……魔王」
「……勇者さん」
「好きだ」
「好きです」

 お互いの言葉を遮らず、俺たちは気持ちを口にした。
 どういう意味の『好き』かなんて、確かめるまでもない。
 俺と魔王の気持ちはきっと、同じだから。

「あは……」

 くしゃ、と表情をくずした魔王の目から、涙がこぼれた。
 哀しみでも、怒りでもない、あたたかな気持ちのしずくが、頬を流れていく。

「我慢しなくちゃって思ってたのに……言っちゃいました」
「それは……俺も同じだよ」
「えへへ……勇者さん、顔まっかです」
「それも、同じだろ……」

 触れた指先に、涙が吸い込まれていく。
 まるで彼女の気持ちが、俺の中に入ってくるようだった。

「良いんですか、ゆーしゃさん……私、面倒くさいし……家事できませんし……魔王ですし……自分でもびっくりするほど嫉妬しちゃうし……重い女ですよ……?」
「お前こそ良いのかよ……俺だって、面倒くさいし……細かいことばっか気にするし……勇者だし……自分でも驚くほど寂しがりだし……重いやつだぞ……」
「……勇者さんが良いんです。他の誰でもなく、あなたが好きなんです」
「……そうか。俺も……俺も、魔王が良い。お前が好きだ」

 お互いに恋愛なんてしたことがなくて、飾り気のない、簡単な言葉。
 それでも、お互いの事を知っているから、分かってしまう。
 彼女の言う『好き』という言葉が、どれだけ重くて、心がこもっているのか。
 だからきっと、俺の気持ちも伝わっていると確信できる。

「魔王……」
「あ……」

 気持ちが伝わったという事実が、俺を欲張らせる。
 両手を伸ばし、彼女の全身を捕まえるようにして抱きしめた。
 今このときだけで良いから、どこにもいかないように。魔王が俺だけを感じてくれるように。

「ん……」

 腕の中で、魔王の身体が少しだけ硬くなる。
 こわばりはほんの一瞬で、ゆっくりと体重が預けられてくる。

「…………」
「…………」

 魔王が拒否しないのを良いことに俺はしばらくの間、彼女を抱きしめていた。

「…………」
「…………」
「……ゆ、勇者さん」
「……なんだ」
「め、めちゃくちゃ恥ずかしいです……!」
「奇遇だな、俺も限界きてる……」

 体温と感触、なによりこの距離だとものすごく魔王のいい匂いがする。
 幸せだと思うし離れがたさも感じるが、それを上回るほどの照れが俺の心臓をめちゃくちゃに動かしていた。
 いつの間にか、あたたかい、どころか暑い。
 最初はひんやりとしていた魔王の体温も、今は熱い。つまり向こうも同じような状態ということだろう。

「ええ、と……い、いいか? 離れても」
「あ、は、はい、大丈夫です、いえ本当はちょっとかなりすごくとても幸せで名残惜しいんですけどこれ以上は心臓が破けそうなので大丈夫ですっ」
「お、おう、そうだよな、俺もそうだ……」

 どういうタイミングで離れていいか分からなかったのでつい聞いてしまったら、ものすごくテンパったテンションで返ってきた。
 お互いに『限界』を感じるので、俺は素直に身体を離す。

「「っ……!」」

 距離が離れてしまえば、目が合ってしまう。
 気恥ずかしさから俺は目を逸らして、魔王もまったく同じ動きをした。

「……あは」
「……なんだよ」
「いえ……なんというか、しまらなくて、私たちらしいなあって」
「……そうかもな」

 相手の声につられて視線を戻すと、魔王は真っ赤な顔のまま、いつもの笑顔でいた。
 久しぶりに見られたなという気持ちが今更に湧き、俺の方も自然と笑みになる。

 照ればかりが前に出て不器用だけど、彼女が言うように、確かに俺たちらしい。

「……お互い、恋愛初心者だし。こんなもんだろ」
「ふふ……はい。それじゃ、これからゆっくり、慣れていきましょうか。……出会ったばかりのころの、私たちみたいに」
「ああ、そうだな。でも……とりあえず、なあ、魔王」

 きっとこれから先、いろいろと大変だろう。
 恋人という新しい関係に戸惑うこともあれば、そもそも勇者と魔王という立場が大いに問題になる。
 障害は多くあり、メイドをはじめとした魔王の部下たちにもたくさん迷惑をかけるだろう。
 それでも、俺は魔王と離れたくなくて、彼女も俺を選んでくれたのだ。

 愛する人が、同じ気持ちでいてくれる。
 その事実があれば、この先どんな問題が立ちはだかったとしても俺は胸を張っていられるから。

「……飯、食ってくか?」
「……はい、喜んでご馳走になります」

 今はまだ、これくらいしかできないけれど。
 いつかきっと、もっと彼女の傍で、多くのことを助けられるようになろう。
 何千年とかけて魔界を統治した諦めの悪い彼女にふさわしい、諦めの悪い恋人になろう。

 そう決意して、俺は調理場に立つのだった。