「……魔王、その本は?」

 当然ながら、見覚えのないものだった。
 明らかに年代物だと理解できるが、表紙と背表紙に書かれいる文字は俺が知っているものじゃない。
 絵のようなものも描かれておらず、それだけで内容を想像することは困難だ。

「これは人界から取り寄せたものです。人類の王城、その地下にある書庫の奥に保存されていた、古い魔法と、歴史の本です」
「人界の本なのか、それ……!?」
「勇者さんにわからないのも無理はありません、数千年前の言語で書かれているもので、私も読み解くのにかなり時間がかかりましたから。他に保存されていた書物とあわせて少しずつ解読して……まあそれで寝不足にはなりましたが、お陰で知りたいことはわかりました」

 そういえば、何度か彼女が寝不足の状態で俺の独房に訪れていた。
 読書に夢中になっているのが理由だといっていたが、人界の古文書を解読をしているとはおもわなかった。

「……書かれていることはいくつかありますが、ここでもっとも大事なのは、この本には『勇者』がなんなのかが記されているということです」
「勇者、が……どういうことですか、魔王様」
「『勇者』という存在がどうして、どうやって産まれたのか……この本に、ちゃんと書いてあったんです」
「は……? 待て、俺はそんな話は知らないぞ、俺は……『勇者』は、あるとき突然に産まれはじめたって……」

 かつて、魔族との戦いで窮地に陥ったときに、人類に英雄が現れた。
 星形のアザを持つそいつはいつしか『勇者』と呼ばれ、しかし魔王を倒すには至らず倒れた。
 だが、最初の勇者の死後、また星形のアザを持つものが産まれ、勇者となった。
 以降、人類は歴代の勇者を神の遣い、あるいは救世主であるとしている。
 それが、俺が知っている『勇者』の成り立ちだ。

「勇者さんが知らなかったのも、無理はありません。だって本当のことは、とても明るみには出せませんから。だから『勇者』というものを、人類が危機のときに現れた神の遣いめいた存在ということにでもしたのでしょう。実際……戦争というものの中にいれば、そんな奇跡にも、すがりたくなりますから」

 手に持ったぼろぼろの本をじっと見つめて、魔王は吐息する。

「そして真実を記した書物は王城の奥に隠して……数千年の戦乱のうちに、『勇者』という存在は当たり前になって、疑問を持つ人もいなくなった……」
「じゃあ、俺は……『勇者』っていうのは、なんなんだ……?」
「……『勇者』の正体は、魔法による『呪い』です」
「呪い……?」

 人類の希望という触れ込みには、およそ相応しくない言葉だった。
 驚いている俺に対して、魔王は少しだけ表情をゆるめて、

「呪いといっても、どこか痛みとか、不具合があるわけじゃありません。勇者の呪いが発動するのは、現在の勇者が死んだときです」
「死んだときに発動する……あ……」
「ま、さか……魔王様、人類は……」
「ええ、魔法に明るい人たちはもう分かっているみたいですね。……『勇者』となっているものが死んだときに、一定の経験値を引き継いで、他者に再び呪いを転移させる魔法。それが、『勇者』という役割の正体です」
「……!!」
「擬似的な『転生』を繰り返して……人類では不可能なほど強くなって、『いつか』魔王を倒し、魔族に勝利する。たとえそれまでに、無数の『勇者』という犠牲を積み上げてでも……勇者さんたちにかけられていたのは、そういう呪いです」

 先代の勇者が死ぬ度に、次の勇者に少しずつ強さが引き継がれていく、呪い。

「身体に星形のアザが浮かぶのは、私の瞳の魔法陣のように強い魔力が身体の表面に影響を与えているのではなく……新たな『勇者』がすぐに見つけられるように、目印としてつけられていたんです」
「『勇者』は……俺たちは、戦って死ぬことを前提に……えらばられたって、ことか……?」
「……『勇者』になるのは、おそらく先代の死後に産まれた命の中から、ランダムに選出されていると思います。今までの『勇者』は、人種も性別もバラバラでしたから」

 どれだけ敗北を重ねても、道半ばで命が潰えても。
 その経験と強さを引き継ぎ、新しい命に宿る。
 そしていつか魔王を滅ぼすというのが、俺たちの役目だったらしい。

「この『勇者の呪い』というべき魔法は、当時の王族によって生み出されたようです。そして『勇者』を英雄にして祭り上げて、次代の勇者をいちはやく見つけて、戦いに向かわせるという流れも、当時の王族たちによってつくられました。この本に書いてあるのは、そういうお話です」
「……なら、こいつは……『勇者』は……」
「はい。彼だけじゃない、今まで私たちが戦ってきたすべての『勇者』が……『いつかの勝利』を夢見て生み出された、捨て駒ということです。……彼らも、戦争の被害者なんです。だって望まずに力を与えられて、『勇者』として魔族と戦うことを、宿命づけられていたんですから」

 動揺した魔族たちが、俺を見た。
 武器を向けてくるほどの殺気は、すでにどこにもない。
 だけど俺も、同じように動揺していた。
 結果的に俺たちは言葉を見つけられず、ただ見つめ合うことになる。

「そして、この本に書かれていることが事実なら、ここで勇者さんを殺しても……」
「……もっと強い『勇者』が、どこかで生まれてしまう、ということですね」
「ええ、そしてその新しい『勇者』が……今、魔族を憎んでいる誰かに見つかってしまったら……」
「……また、人類と魔族の戦争になる」
「もちろん、過激派がいうように人類をすべて滅ぼしたり、家畜化すればその危険はいつか消すことができるでしょう。ですが……これ以上、誰かが血を流す必要は無いと私は考えています」

 魔王の、誰かが傷つくことを否定する言葉に、今度こそ誰も反対の声をあげなかった。

「……こういう理由があれば、過激派のひとたちも安易に勇者さんを殺せなくなります。だって、今から全人類を奴隷化したり滅ぼしたりするには私をなんとかしなければならず……それは不可能ですから、彼を暗殺しても、次代の危険を生み出すだけになりますからね」
「あ……」
「だから、『現在』の勇者さんが私たちに協力的なうちに、『勇者の呪い』をなんとかするから、彼には手を出さないように……と、過激派のひとたちには説明しようかなと」
「……魔王」
「安心してください、もちろんそんなことは建前ですから。……私にとって勇者さんが大事なひとであることは、かわりません」
「……そう、か」

 魔王が口にした、大事なひと、という言葉が、嬉しくなる。
 俺の立場がすこしでも良くなるように、周りに説明できるように、彼女は寝る時間も惜しんでくれていたのだ。

「……あなたたちも、分かってくれますか?」
「魔王様、俺たちは魔王様を、案じています」
「ええ、知っています。いつも、助けられていますから」
「でも……勇者を殺すことが、最善ではないのは、わかりました。状況的にも、魔王様の気持ちとしても」
「……ありがとうございます。あなたたちの理解と忠義を、嬉しく思います」

 すべてを納得したわけではないのだろう。
 魔族たちはみんな、種族こそ違えど、あきらかに複雑そうな表情をしているのが分かる。
 それでも、もう俺に武器を向ける気はないようだった。

「……あ、あの、待ってくれ!」

 背を向け始めた魔族たちを、俺は呼び止めた。
 翻訳魔法の効果はしっかりと働いていて、魔族たちは足を止めてこちらに振り返る。

「ええ、っと……」

 こんなに素直に振り返って貰えるとは思わなかったし、なにより言いたいことがまとまってなかった。
 それでも、このままなにも言わずに別れるべきじゃない、魔王の翻訳魔法がきいているうちに、彼らと話しておきたいと思った。         

「……なんだ、勇者」

 リーダー格だろう、は虫類に似た二足歩行の魔族が言葉を投げてくる。
 まだ言葉はまとまっていない。それでも、促されたので俺はぽつぽつと話すことにした。

「……その、俺がしたことは……よく、分かってる。敵だったことも、今も恨んでるやつがいることも、ちゃんと知ってる」
「それは……我々に謝罪をしたい、ということか?」
「……それであんたたちの気が晴れるなら、いくらでも。でも、そういう問題じゃないのも、わかってるよ。謝ったって、戻ってこないものは、ある……俺も、あんたたちも」
「……ああ、そうだな」

 俺だって、顔見知りを失ったことは何度もあるし、人類を守りたかったから戦った。
 だけど彼らも、それは同じ。大事な人を失いながら、自分が傷つきながら、同胞たちを、自分の国を、王を守ろうとした。

「それでも、なんというか……その、魔王がいいやつなのは、俺も分かる。最初は信じられなかったけど、もう知ってる。それと……魔族たちも、俺と、人類と同じように……いろんなやつがいることも、わかってる」

 魔王と何度も話して、ときには遊んで、飯を作って、いっしょに食べて。
 町に出て、多くの人々を見た。人類じゃない、魔族という、人々を。
 空の色が、世界の姿が違っても、そこに暮らす魔族たちに人類と同じように心があることを、俺は知ってしまった。

「知らなかったときにしたことが、奪った命が、戻ってこないってことだって理解してる。でも、俺はもう……魔王を倒そうとも、魔族と殺し合いをしたいとも、思っていない」
「……そうか」

 言葉は短く、彼がなにを考えているかはわからない。
 周囲の魔族たちも言葉をつくることはなく、けれど俺をじっと見つめている。
 怨敵を見る目ではなく、ただ俺がいう言葉を、聞こうとしてくれている。

「だから、ええっと……少なくとも俺は、もう誰とも戦いたくないし、戦争もしたくないと思ってる」
「…………」
「その、それだけだ。それだけ、伝えたかった。せっかくその、魔王の翻訳魔法が働いてるから……」
「……勇者」
「お、おう、なんだ?」
「……悪かった。話も聞かずに、お前の命を奪おうとした」
「あ……」

 投げられてきたのは、短く、けれど明確な謝罪。
 そしてその言葉を制するものも、否定するものも、誰もいなかった。

 わだかまりはまだ多くあって、消化しきれていないこともいくつもあって。
 それでも今、相手は謝罪をしてくれたのだ。

「……気にしないでくれ。そっちだって、理由があったんだから」

 魔王が言ったように、今すぐ手を取って仲良くすることはできないだろう。
 だけど、少なくともこれで、俺と彼らが敵対する必要はなくなった。
 それはまだ歩み寄ったともいえないような小さな一歩で、俺たちはまだ友人ですらない。
 それでも、俺にとっては充分すぎる一歩目だった。

「……手違いで連れ出してしまった捕虜を独房まで護衛します、構いませんか、魔王様」
「はい、よろしくお願いします。あ、私も独房に用事があるのでついていきますね」

 それ以上、俺たちが会話をすることはなかった。
 こうして俺は命を奪われることなく、再び独房へと戻されることになった。