「…………」

 痛みも終わりも、すぐにはこなかった。
 死を前にしたからか、目を閉じてからの時間は随分と長く感じた。

「……?」

 おかしいな、いくらなんでも長すぎる。

「は……!?」

 開けた瞳に飛び込んできた景色は、銀色だった。
 まぶたに浮かんだ想い出よりもずっと鮮明で、忘れるはずのない色彩。
 魔王の、髪の色だ。

「ま、魔王……?」

 幻や、走馬灯のようなものじゃない。
 目の前に、確かに魔王がいた。
 ゆっくりと、彼女が俺に振り返る。
 吸い込まれるように綺麗な、魔法陣の浮かんだ視線が、俺を捉える。

「……勇者さん」
「っ……」

 まっすぐな目と、透き通った声。
 心臓を捕まえられたような、気持ちになった。

「魔王、俺は……その……」

 いろんな言葉が、理由が、脳をよぎっていく。
 言葉はうまくまとまらず、なにを言っているのか、どう言えば良いのかわからない。
 ただ分かることは、魔王が俺を助けにきてくれて、また迷惑をかけてしまうということ。

「大丈夫です。あのときの勇者さんは、誰も傷つけずにみんなを守ろうとしたんです。なにも、後ろめたいことはありません」
「っ、だけど、俺は人間で……もっとうまくやるべきだったのに、それを……!」
「ええ、そうです。勇者さんはたしかに人間です。そして……私は、人間のことも統治すると決めた、魔界の女王です」

 久しぶりに聞く彼女の声色は優しく、けれど強い意思がこもっていた。

「だからここで……私の城で、私の意に反することはゆるしません。あなたが勝手に死ぬことも、あなたを誰かが害することも、です。私は……この国の女王ですから」

 彼女の瞳に、魔力が集まっていくのがわかる。
 なにをするつもりなのかは、すぐに答えが出た。

「……翻訳魔法、効果拡大」
「は……?」
「これで、この空間にいる私たちは、お互いに言葉が通じる状態になりました」

 彼女が言う通りの現象が起きたのだということは、すぐに分かった。

「……魔王様はそれで、俺たちに話し合いをしろという気ですか? 魔族の俺たちと、人間のこいつが?」

 それまでなにを言っているのかわからなかった魔族の言葉が、理解できるようになったから。

「……いいえ、違います。勇者さんにもあなたたちにも私の言葉を聞いて欲しいから、使っただけです」
「……それを俺たちが聞く必要がどこにあるんですか、魔王様」
「ありますよ。私が王で、あなたたちは家臣です。それを無視するというのなら……言葉以外の方法で、わからせます」
「っ……」

 はっきりとした魔王の言葉に、魔族が押し黙った。
 怯んだのはリーダー格であろうそいつだけではなく、その他の魔族たちもだ。

「魔王……」

 有無を言わせないだけの実力が魔王にあることは、家来の態度でわかる。
 そうでなくてもこの空間に渦巻く彼女の魔力だけで、充分に理解できる。
 はじめて対峙したときと同じ、膨大な魔力を持つ暴風のような存在が、魔王が、そこにいる。

「……心配しなくても、意見を禁ずるわけでも処断するわけでもありませんし、あなたたちの気持ちを軽々しく見ているわけでもありません。だから私の言葉を聞いて、言いたいことがあるならそれは聞きましょう。……良いですね?」
「……わかり、ました」

 その気になればいつでもこの場にいる全員を倒せるだけの実力者が、あえて言葉を使っているのだ。
 それを無視すればどうなるかは、どんなに愚かでも想像できるだろう。
 その場にいる魔族たち全員が武器を引っ込めたのを確認してから、魔王はふたたび口を開いた。

「まず、はじめに。何度も言っていますが、王である私が直々に、勇者さんを害することは禁止といったはずです。彼は……ええ、捕虜ですから」
「魔王様、今の勇者に捕虜の価値はありません、むしろ殺してしまった方が安全です! 人類なぞ、そいつ以外は弱く、脆いではありませんか!!」    

 確かに相手の言うとおり、俺が人類の最高戦力であることは間違いない。
 驕りではなく現実として、『勇者』の俺は人類の中でも飛び抜けた能力を持っているのだから。
 そして魔族は基本的に、人間より頑強だ。おそらくは魔界という過酷な環境に適応してきたからだろう。

「勇者は強い。悔しいが、それは認めましょう。事実これまでに、何人も同胞を殺されているのだから」
「そう、だから勇者が生きている限り、我々は安心できない!」
「ましてその勇者を魔王城においておくなど、魔王様にも危険が及ぶこともありえる!!!」
「ゆえに、最大にして唯一の脅威である勇者は、殺すべきです!!」

 次々に、俺を否定する言葉があがる。
 魔王の翻訳魔法の効果によって、魔界の言葉でもただしく理解できる。
 怒りはない。相手のいうことはすべて事実で、恐れられて当たり前だと思うから。

「……良いですか、皆さん。勇者さん……『勇者』という存在は代替わりします。今まで何度打ち倒しても、また現れたでしょう。だから今ここで彼を処刑しても……どこかで新しい『勇者』が生まれ、それがまた戦いを呼びます」

 感情的な魔族たちに対して、魔王は冷静だった。
 上から投げ捨てるのではなく、おそらくは聞く相手がわかりやすようにだろう、ゆっくりとした言葉。
 最初こそ実力をちらつかせて相手を退かせたが、彼女はあくまで『対話』をしようとしている。

「それなら……人類を家畜として、あらたな『勇者』がうまれたら育つ前に殺してしまえば……」
「……それは民の誰かに、ずっと痛みを強いることです。私は王として、それを望みません」
「人類は我々の敵でしょうが……!」
「いいえ、人類は『かつて』敵だったのです。『今は』そうじゃなくても、『いずれ』そうするために……私はそれを、認められません」
「ですが、それでは……!」
「……わかっています。恨みも、憎しみも、お互いにあることは」

 彼女のいうことは、理想論で、きれい事だ。それは、俺にだってわかる。
 相手が言うとおりにするのがきっと一番楽なのだ。勇者なんて生まれる側から殺して、敗戦国の民族なんて奴隷か家畜として扱えば、少なくとも勝った方が持つ恨みは晴れるし、魔王自身も文句を言われることもない。

 それでも彼女は、俺が知っている魔王は、その道を選ばなかった。

「では……考えてみてください。あなたたちも、種族の違う魔族でしょう」
「…………」
「あなたはリザード、あなたは鬼。そちらのあなたはオークで……ああ、そっちの方は私と同じ精霊種ですね。奥で魔法を構えているおふたりは、ワーシープとワーウルフ」
「それ、は……」
「あなたたちだって、五千年前は敵だったんです。なんなら同じ種族同士ですら、憎み合って、殺し合って、奪い合っていた。……それを、私が力で全員黙らせたのが、この魔界という場所の統治のはじまりです」
「……同じように、人類とも手をとりあえ、と……?」
「そうですね、それが一番ですが……むりやりお互いの手をひっぱって握らせても、本当に仲良くはなれないことも、わかっています」

 自分が言うことがきれい事だということは、魔王自身が理解しているだろう。
 五千年も統治しているのだ、理想を形にする苦労だって、きっと実感として知っている。
 それでも、そんなきれい事を、理想を、形にするために五千年もひたむきに向き合えるのが、彼女だ。

「だけど、いずれそれが少しでも解消されればと思いますし……すくなくとも、あなたたちの子供、これから先に生まれてくる人たちが……憎み合わない世界にしたいと、私は思います。思ったから、私は女王になったのです」
「……魔王、さま」
「友を殺されて、家族を奪われて、傷つけられて……苦しかったでしょう。つらかったでしょう。ええ、私だって同じです、何人も家臣を失いました」
「っ……」
「それでも……私たちがこの気持ちを持ち続けて、恨みを恨みで、痛みを痛みで返し続けたら……これから先もずっと、同じことが続きます。そしていつかまた……争いがおきるかもしれない」
「あ……」
「……この中に、これから先、恨みと怒りを持ち続けて生きつづけたい方はいますか? そしてその気持ちを、自分の子供や、愛する人が味わうことを許せる方は?」
「…………」

 魔王の質問に、誰も言葉を返さなかった。
 誰もが手を震わせて、瞳をさまよわせる。まるで、道に迷ったこどものように。

「……今すぐには無理でも、いずれ、いつか。そのために、これ以上の苦しみも、憎しみも、痛みも……私は、ゆるしません。もちろんそれを自分自身に与えることも、です。ね、勇者さん?」
「……う」

 ふいに視線をなげられて、ずきりとした。
 他人だけではなく、自分もつらい思いをする必要は無いのだと、咎められたのがわかったから。
 彼女の視線に胸が痛むのは、自分が悪いのだと俺に自覚があるからだ。自暴自棄による自己犠牲なんて、魔王が許すはずがないことはわかっていたのに。

「もしも我慢ができなかったら、私のせいにしてください。魔王がゆるさないから、自分たちは恨みをはらせないのだと、思ってください。私は……あなたたちの王ですから。責任を取ることからは、逃げません」
「……魔王様、俺たちは……そんなことを、あなたを責めたいわけじゃ……」
「ええ。わかっています。あなたたちが、魔王である私を嫌っているわけではないのも……本当は恨みをぶつけて憂さ晴らしがしたいわけではないのも、わかっているつもりです」
「っ……」
「もちろん、この国の中にはそういう恨みを持たなければ自分が保てない人も、私を嫌っているひともいるでしょう。でも……この場にいるあなたたちは、私が知っている限り、私によく尽くしてくれている方たちです。メイドちゃんとも仲の良い子も、いますね?」

 俺にはわからないことだが、魔王は俺を殺そうとした魔族たちに覚えがあるらしい。

「なので、大方……私の立場のことも考えて、不安要素である『勇者』を排除しようとしてくれたというところでしょう」
「……そこまで理解してくれているのに、許さないのですか。こいつが生きていると、必ず、あなたは責められます」
「はー、心配しなくてもいまもちょいちょいイヤミ言われてますよ。そのたびに黙らせてるんですから」
「……言われてるのか、イヤミ」
「少しですよ、少し。勇者さんは気にしないでください」

 いや気にしないのは無理だろ、俺が迷惑かけてるんだから。
 突っ込もうかと思ったが、話が脱線していく気がしたし、今は俺も魔族たちも彼女の言葉を一番に聞くべきだと思ったのでやめた。

「元からずっと私のやり方に反対するひとはいるんです。勇者さんの件だけじゃなく、五千年の間に何度も。だから今さら、それがちょっと増えたところで気にしません。本当に恨みをもって我慢できないひとがいるなら、私が相手をしてやりますよ」
「……魔王様」
「……それに、理由はもうひとつあるんです。あなたたちのように私を想ってくれる家臣だけでなく……魔王(わたし)を疎ましく思う方々も納得させられる、勇者さんを殺してはいけない理由が」
「は……?」

 魔王がウソをつく理由は無いし、彼女はその場しのぎのウソをつくタイプではないことはわかっている。
 それでも、魔王が口にしたのはあまりにも信じられない言葉だった。
 俺を殺したい相手でさえ、そうできなくなるような理由。そんなものが、あるというのだから。

 俺だけではなく、魔族たちも驚いた表情を浮かべている。
 おそらくは同じような表情をしている俺と魔族を見回して、魔王があるものを取り出す。

「……これが、その理由です。正確には、ここに記されていることが」

 何度か目にしたことがある、魔法による保存空間。
 マントの裏から出てきたそれは、古く、ぼろぼろの書物だった。