「んぅ……ん……」

 眠たげな声をこぼして、魔王の頭が揺れていた。
 完全に意識が落ちてはいないようだが、明らかに意味のある思考はできていない様子は、いわゆる『うとうと』している状態だった。

「……おーい、魔王」
「――んぁっ」

 そのままだと頭が落ちて机と衝突しそうだと思ったので、夕食の洗い物を終えて帰ってきた俺は彼女に声をかけた。
 落ちかけた意識を持ち上げた魔王は、目をぱちぱちさせたあと顔を赤くしてこちらを見て、

「す、すみません、お腹いっぱいになったら幸せな気持ちになってしまって……」
「いや、別に気にしなくていいぞ。なんなら、この間みたいに少し寝ていくか?」
「だ、大丈夫です。前みたいに深刻に寝不足ってわけではないので……それに、せっかく遊びに来てるのに寝ちゃったらもったいないですし」
「そうか? まあ、無理はするなよ」
「うぅ……ありがとうございます」

 深刻なものではない、ということは前みたいに何日もほとんど眠れずという感じでは無いのだろう。
 少しだけ安心しつつ、俺は魔王の対面に座り、淹れておいた茶をすする。恥ずかしさをごまかすためか、魔王の方はぐいっと飲んでいた。

「ほい、おかわりどうぞ」
「あ、おかわりどうも……」
「無理してないなら良いんだけどよ……本当に暗殺とかじゃないのか?」
「だ、大丈夫ですよ! ええっと、今回のは趣味というか……最近読書が捗ってて寝不足ってだけなので」
「読書?」
「はい。それでちょっと、ここしばらくは夜更かしを……欲しかった本がようやく手に入りましたので」
「なるほど、お前忙しいもんな……」

 一国の主、しかも今はかつての敵国も統治して、日々頭を悩ませている立場だ。
 多忙ゆえ、趣味に時間を費やすとなると必然的に睡眠時間を削るしかないのだろう。

「まあ、前みたいに命が危ないとかそういうんじゃなくて良かったよ。というかそんなに読みたい本があるなら、こっちに来なくても良いんだぞ?」
「いえ、それとこれとは別といいますか、ええっと、そのう……」
「……?」
「……読書も楽しいんですけど、勇者さんといるのはもっと楽しいので」
「そ、そうか……」

 ストレートな好意に、自然と心臓が跳ねてしまう。
 今度は俺が照れ隠しに、お茶を飲み干す番になった。

「ぷは……ところで、魔界にはどんな本があるんだ?」

 半分は照れ隠しだが、もう半分は純粋な興味だった。
 魔界の文化は俺が思っていた以上に発達していて、ボードゲームなどの娯楽もあるし、なんならインフラ周りは人界より発達している。
 既に魔界チェスや魔界パズルなどで遊んでいることもあり、別の世界の娯楽、というものに俺は結構興味があった。
 おかわりを淹れながら投げた疑問に、対面の魔王は、うむむ、と腕を汲んで、

「人界と同じで、いろんな本がありますよ。歴史書とかレシピ本、あとは小説……漫画もあります。もちろん魔界語での呼び方があって、地域性というかちょっと異なってはいますが、おおむね人界に近いものがあると考えてよいかと」
「そうなのか……小説とか漫画みたいなのもあるんだな」
「ええ、『もしも』を想像する……というのは、人族も魔族も同じみたいですね」
「まあ、そりゃそうか。お互いの世界にボードゲームとかパズルとかの『娯楽』があるくらいだし」

 細かいルールなどは違うが、人も魔族も娯楽という文化を持っているのは共通だ。
 そういった環境下で、同じようなジャンルのものが出てくるのは、自然なことだろう。人界でも言葉は違っていても、似たような文化が育っていることはある。
 そして魔王はおそらく、魔族の中でもかなり娯楽好きな方だろう。今は俺の部屋におきっぱなしになっているボードゲームや魔界チェスは、俺のためにわざわざ買ったのではなく元々彼女の持ち物だと聞いている。

「……なんか魔王って、乱読家なイメージあるな」
「らん……?」
「ああ、これは知らない単語なのか。ええと……本の好き嫌いはないっていうか、なんでも読むのが好き、みたいな意味だよ」
「あ、そうですね。読み物に好き嫌いはほとんどありませんよ。だいたい、一度開いたら集中して最後まで読んでしまいますし。……そのせいで寝不足なんですが」
「なんというか、イメージ通りだなぁ……まあそうでなけりゃ、わざわざ人類語の解読とか自分でしないよな」

 情報を得るためだとしても、面倒なら自分ではなく部下にやらせてもいい立場だ。
 それをわざわざ自分でやっていたあたり、勤勉で真面目なのもそうだが、そもそも文字を読んだりするのが好きな『たち』なのだろう。

「勇者さんは、本って結構読まれますか?」
「嫌いじゃないな。つっても、俺の場合は旅しててあまり荷物を多く持ち歩けない立場だったから、読書家ってほどじゃないが……大きな都市に行くと図書館があることがあって、そこで気になったやつを読んでたくらいだよ」
「ほうほう……たとえば?」
「んー、なんとなく目に付いたやつだな。野草図鑑とかキノコ図鑑は野営で便利だから、優先的に読んでたけど」
「……そういえば、歓迎されるのが苦手で野宿が多かったって言ってましたね?」
「まあな……ああいうのってたまに書いてあることが間違ってて、ひどい目に遭ったりもしたわ。キノコはスケッチと実物でわりと判別つかねえし」
「それぜったいそこそこの頻度で毒食べちゃってるじゃないですか!?」
「ああいうとき、回復魔法が使えて良かったって思ったな」
「唐突に重めのエピソードが来ましたね……うぅ、もうぜったいそんなことしちゃいけませんよ? めっ、です、めっ」
「お、おう」
「魔界に生えてる草とかキノコは人類にどんな影響があるかわかりませんし、うっかり食べちゃダメですからね?」

 笑い話のつもりで過去の失敗を語っただけだったのだが、どうやらかなり本気で心配されてしまったようだ。
 まさかここまで大真面目に受け取るとは思ってなかったので、悪いことをしたような気持ちになってしまう。

「まあ、もう大丈夫だろ。だってここにいる限り、魔王が俺に毒のあるものをよこしてくるようなことないんだから」

 対外的なことを考えて捕虜という名目だが、魔王が俺を大事に扱ってくれているのはもはや疑うまでもない。
 未だにどんな食材なのか分からないということはあるが、今さら毒を盛られる心配をすることはなかった。

「もちろんです、ぜったいに勇者さんに変なものを食べさせたりはしませんよ! むしろいつも栄養満点で質の良い、旬のものを仕入れていますからね!」
「……ありがとな」

 ふんす、と鼻息荒く熱弁する魔王のことを、不謹慎だが可愛らしいと思ってしまった。
 話しているうちに空になった魔王のカップに茶を注いで、俺は言葉を続ける。

「ところで……今回読んでるのは、どんな本なんだ?」
「あ、ええと……今は歴史書、ですかね。人界の歴史が書かれたもので、王城に蔵書されていたものを取り寄せて読んでます」
「人界の歴史……ああ、それで結構量があって、夜更かし気味になってるって感じか」
「あはは……はい、お恥ずかしながら……」

 魔界の歴史も長いのだろうが、人界の歴史も浅くはない。
 王城の中には大きな蔵書スペースがあったし、あそこからいろんな本を取り寄せているのなら、読書量が多いのも納得だ。

「また人類を理解するための勉強、か?」
「そうですね。やっぱり近いところがあると、そこから仲良くできると思いますし……歴史的な失敗などがあれば、それを繰り返さないように注意したりとかもできますから」
「相変わらず、勤勉なやつだなお前は……」
「お互いのため、ですから。それに今回のはそれだけじゃなくて……ちょっと個人的な事情も入ってますし」
「……個人的な事情?」

 急に歯切れが悪くなったので、聞いてもいいことなのか迷いつつ、俺は疑問符を投げた。
 魔王は少しだけ照れくさそうに、カップに注がれた茶に視線を落としてから、上目遣いでこちらを見て、

「その……勇者さんの住んでたところのこと、もっと知りたいなって思ったので」
「……そんなの、別に聞いてくれればいくらでも話してやるぞ」
「あはは、勇者さんの性格からしてそう言ってくれるとは思ってたんですが……なんていうか、自分で調べる楽しさ、みたいなのもありまして」
「まあ、それはちょっと分かるが……」
「ふふ、いつか完全オフで、人界に遊びに行ってみたいですね。観光地とかのんびり見て回ったりしたいです」

 魔王が行く時点で大ごとになると思うが、『もしも』という意味なら悪くない考えだろう。

 ……前の俺なら、そんなこと思わなかったんだろうけどな。

 昔の自分なら、『魔王が人界に遊びにいきたがっている』なんて聞いても、悪い冗談だと思ったことだろう。
 けれど今の俺は、魔王がどんなやつかを知ってしまっている。この勤勉で真面目な魔王が、本気で人界に遊びに行きたいと思っていることを、知っている。
 なにより、恋した相手が自分の故郷を見てくれるというのは、それだけで嬉しいことだと感じた。

「ま、機会があったら楽しんで来てくれ。俺の生まれた土地なら、母さんにでも案内を頼めば良いだろ」
「なに言ってるんですか、勇者さん。そのときはいっしょに行くんですよ!」
「……は?」
「人界に遊びに行くのも、勇者さんを外に出してあげるのも、どっちもやるってことです。だって……勇者さんといっしょの方が、きっと楽しいですから」
「あ……」

 そこまで言われて、俺はようやく理解した。
 人界に遊びに行きたい、といった魔王の言葉が、『なんとなくそうなったら良いな』ではなく、いつか絶対に叶えたいことなのだということに。
 そしてその隣に、俺が居て欲しいと思ってくれているのだ。

「…………」

 あまりにも嬉しくて、言葉を失ってしまった。
 それこそ、照れ隠しにお茶を飲むなんてできずに、魔王のことをじっと見てしまうほどに。
 銀色の髪を揺らして、対面の彼女が首を傾げる。
 
「……? どうしたんですか、勇者さん。私のこと、じっと見て……あ、どうせ『こいつまた前向きなことばっかり考えてるよ』とか思ってますね!? 私はぜったい諦めませんから! いつか勇者さんに人界案内してもらうんですからね!」
「……分かった。分かったよ。そのときは俺で良ければどこでも連れてってやる。いちおう勇者として、人界はあっちこっち見てきてるしな」

 口にしてみると、意外なほどその景色はすんなりと想像できた。
 そしてそのとき、彼女の隣にいる自分が友人ではなく、恋人であったらいいな、なんてことまで考えてしまう。

「……本当に、前向きなやつだな、お前は」
「それはもう、前向きじゃ無いと王様なんて面倒なことを何千年もやってられませんよ」

 彼女のように、ぜったいにそうしてやる、なんて自信はないけれど。
 そうであったらいいと思うくらいは、良いだろうか。
 そんなことを考えながら、俺は今度こそ照れ隠しにカップを傾けた。