「……ん」

 ぱちりと目を開けると、意識は鮮明だった。
 不愉快な熱と気だるさ、喉の痛みはすっかりと消えて、快調だと感じる。

「あー……まあ、身体冷やしたのが悪かったんだろうなぁ……油断しすぎ、だな……」

 振り返って考えて見ると、あれしか理由がない。
 魔王の言うとおり、身体をきちんと拭いておくべきだったのだ。

「……魔王のお陰だな」

 ぼんやりとはしていたものの、熱が出ている間のことは、はっきりと覚えている。
 魔王が回復魔法をほどこして、食事も食べさせてくれた。
 世話をかけてしまったと思うと同時に、ありがたくも思う。

 軽く伸びをしながら起きあがろうとして——

「——と」

 シーツの上に重みを感じて、俺は動きを止めた。
 視線を投げると、ベッドを枕にするような格好で、見慣れた銀色の頭があった。

「魔王……帰ってなかったのか」

 とっくに帰っただろうと思っていたので、驚いてしまった。
 俺の部屋に窓はないが、かなりの時間眠った感覚があるので、時刻は相当遅いだろう。

「起こすべき、か……いや、でも……」

 規則正しく、すうすうという呼吸が聞こえる。
 俺が動いても起きないくらいだ。かなり深く眠っているのだろう。

「疲れて寝落ちするくらい、心配かけたってことだよな」
「ん、う……」

 寝息がこぼれて、魔王が身じろいだ。
 銀色の髪が広がって、寝顔がこちらを向く。
 形のいい眉と瞳が閉じられている、いつもとは違う魔王の顔。

「改めて見ると、やっぱりめちゃくちゃ顔が良いな……」

 整った麗しい顔立ちでありながら、表情はどこか幼さがある。
 今も、ぐっすりと眠る彼女はまるで俺よりもずっと年下の少女のようにすら見えてしまう。
 魔界の美醜感覚がどうなっているのかは知らないが、少なくとも人類の価値観では相当な美人なのは間違いない。

「……まつ毛長いな」

 そっと触れてみると、ん、と小さな呼気が漏れた。
 俺は眠ったままの魔王のまつ毛を摘み、頬に触れて、耳に手を伸ばして——

「——はっ」

 そこでようやく、我に還った。
 眠っている相手、それも女性の身体に勝手に触れるのは失礼だった。

「……なにやってんだ、俺は」

 少なくとも、友人にすることではない。
 自分がしていたことを反省して、俺は手を引っ込めた。

「っ……」

 罪悪感のせいか、心臓が暴れている。
 自分を落ち着けるために、俺は深く呼吸をした。

「……はぁ」

 どうにか平静に戻って、改めて魔王を見る。
 勇者である俺の前で、完全に緩み切った顔で眠る、魔界の女王を。

「ん、すう……むにゃ……ゆーしゃさん……えへへぇ……」
「……勇者の前でぐっすり眠る魔王があるかよ。いや、俺もこいつの前で寝てたんだったな……」

 何度か彼女がきたときに居眠りしていたことがあるし、今回だって風邪のだるさに任せて魔王の前で眠ってしまった。
 だらしのない顔になった魔王を見て自然と表情を緩ませながら、俺は改めて実感する。

「……本当に、勇者とか魔王とか、もう関係ないんだな」

 自分が背負っていた使命は、もはや無い。
 戦争は終わり、勇者としての役割は無くなった。
 今、こうして彼女の寝顔を見ても、寝首をかこうなんて気持ちは一切湧かない。
 世話をしてくれたことへのありがたさと、迷惑をかけてしまったという気恥ずかしさと、眠っている彼女に触れてしまったという罪悪感。
 どれも、勇者が魔王に抱くような感情ではないのに、それが当たり前になってしまっている。

「……お前がいると、安心するよ」

 心の底から、認めざるを得ない。
 俺はこいつと一緒にいると、楽しくてしょうがない。
 勇者としての使命を背負った十数年という時間よりも、彼女と出会った数ヶ月の方が、ずっと濃密で、大切だと思えてしまう。

 いつの間にか料理を二人分用意するのが当たり前になっているし、気がつけば魔王のことを考えてしまっている。
 今だって、迷惑をかけてしまったという申し訳なさよりも、こんな時間まで側にいてくれたという嬉しさの方が遥かに大きいくらいだ。

「……ああ、そうか」

 ふっと、自分の中に気持ちが浮かんだ。

「……参ったな」

 いつだって彼女のことが頭から離れず、毎日来ることを楽しみにして、側にいてくれることが嬉しいと思ってしまう。
 自分の中にはじめて生まれた、この感情の正体が、唐突にわかってしまった。

「……なあ、魔王。俺、お前のことが好きみたいだ」

 眠っていると知っていて、俺は魔王に言葉をかける。
 彼女は銀色の髪を揺らして、むにゃ、と気持ちよさそうな寝息をこぼした。

「……ふっ」

 あまりにも無防備な寝顔に、自然と笑みがこぼれてしまう。
 無礼だと理解しつつも髪に指を通すと、自分の中にある気持ちが増すのを感じた。

「参ったな、本当に。勇者が、魔王に惚れるなんてな」

 参った、と言葉にしつつも、俺は晴れ晴れした気持ちだった。
 好きだ、という言葉があまりにも自然に心の中に落ちて、否定できなかった。
 自分の中でくすぶっていた気持ちの正体を知って、それを悪いことだとさえ思えなかった。

「……しょうがないよな」

 なりたくてなったわけでもない勇者という役職を、それでもやろうと決めたように。
 憎むべき相手だと教えられてきた魔王を、敵だと思えなくなったように。
 自分の中に生まれてしまった気持ちに、嘘はつけないのだから。

「……まあでも、これを言うのはマズいよな」

 彼女はきっと、俺のことを嫌ってはいない。
 ただ、気持ちを受け入れてもらえるのかどうかはわからないし、受け入れられたとしても、障害が多すぎる。
 勇者と魔王が恋仲になることを、きっと世界は許さないだろう。

 困らせたいわけでも、彼女の立場を危うくしたいわけでもない。
 それなら、俺はこの気持ちをしまいこむだけのことだ。

 彼女の髪から、指をはなして。
 俺は、自分の中に生まれた気持ちを、閉じ込めることにした。