……今日も無事終わりましたね。

 言葉には出さず、心の中だけでつぶやく。
 私が今いる場所は自宅ではあるけれど、同時に職場でもある。あまり気を抜いた姿を、部下に見せるわけにもいかない。
 すれ違う部下たちに簡単な挨拶をし、時に呼び止められて対応をしつつ、私は目的の部屋を目指す。
 最終的な行き先は部下たちがほとんど近づかない部屋なので、徐々にすれ違うことも減ってくる。

「……ふぅ」

 扉の前までくれば、もう、溜め息を吐いても気にされない。

 ……何度来ても、ドアを開けるときにちょっと緊張しちゃうんですよね。

 自分の恋心、なんて厄介なものを自覚してしまってから、それはより強くなった。
 この先にいる人のことを考えると、それだけで胸が疼く。早く会いたい焦りと、会う前に少しでも落ち着いた、いつも通りの私でいたいという見栄がぶつかって、自然と息がこぼれる。
 すう、はあ。深呼吸を挟んで気持ちを落ち着かせて、私はドアに手をかけた。

「ゆーしゃさーん、遊びに来ましたよ!」

 努めて明るい笑顔で、いつも通りに入室する。

「……あれ?」

 いつもなら、おう、と短い言葉で迎えてくれる彼が、いなかった。
 がらんとした雰囲気の部屋で、私は首を傾げる。

「……留守? いやいや、そんなわけないですよね。寝室、かな?」

 一応、名目とはいえ彼は捕虜という扱いになっている。つまり勝手に出掛けることはないだろう。
 そうなると、彼がいる場所は寝室ということになるのだけど、

「珍しいですね、勇者さんがこんな時間に寝てるなんて……」

 勇者さんの生活は、びっくりするほど規則正しい。
 朝は早くから起きているようだし、毎日部屋を掃除して、ご飯は三食ちゃんと作って食べているし、空いた時間にはトレーニングと読書、魔界チェスのひとり打ち。

 一日中部屋にこもっていて退屈しないのだろうかと心配したこともあったけれど、思った以上に彼はこの小さな空間でしっかりと生活を営んでいる。
 そんな勇者さんが、この時間まで寝ている、というのはちょっと珍しいことだと思った。見たところ、食事を作ったような形跡も見当たらないし。

「……一応、様子を見るべきでしょうか? いやでも、寝室に許可もなく入るのはちょっと良くないですよね……」

 寝室は彼のプライベートな空間なので、今まで踏み入ったことはない。
 独房にそんなものは本来必要ないのだろうけれど、私にとって彼はお客様なのだ。相手のために用意したスペースに、無闇に踏み込んでしまうのは避けたい。
 とはいえ、もしもなにか問題があって寝室から出てこられないのであれば、私が対応するべきなのも本当だ。

「うぅ、ど、どうしましょう……え、ええっと……とりあえず、ノックかしてみて……わっ」

 ドアの前で悩んでいると、寝室に繋がっているドアが開いた。
 当然、そこから出てくるのはこの部屋の住人である勇者さんだった。

「あ、勇者さ……うわ、顔まっか!?」
「ん、ああー……来たのか、魔王……」
「だ、大丈夫ですか!? なにかあったんですか!?」
「ああ、だいじょうぶ……なんていうか、えぇ……風邪って、わかるか? そういう感じでな……ごほっ」
「わ、わかります、病気ですよね!? だめじゃないですか、寝てなくちゃ……!」
「いや、声聞こえてたし……水とかほしっ、げほっ、欲しかったからな……」

 明らかにいつもの元気がなく、しわがれた声の勇者さん。
 顔中がまっかっかで、目もとろりとしていて、ぼんやりとした姿は、彼がここにきて初めて見せる弱った姿だった。

「み、水なら私が持ってきますから、寝ててください、ほら!」

 私は慌てて彼の手を引いて、ベッドまで連れて行き、寝かせる。
 よほど弱っているのか、勇者さんはぼうっとした顔でうなずいて、素直にベッドに身を沈めてくれた。

「あわわわ……風邪、風邪……いやでもここ魔界ですよね、勇者さんの世界にない菌の仕業だとすると、最悪免疫なんてなくて命が……それに、もし呪いや毒の類いだったら……?」

 浮かんできた最悪の想像に、ぞっとする自分がいる。
 先ほどまで勇者さんに会えるとうかれていた気持ちはとっくに吹っ飛んでしまい、なんとかしなきゃ、という気持ちで頭がいっぱいになってくる。

「……いえ、落ち着きましょう、私」

 棚に並べられたコップの中から手近なものをとり、水を入れながら、一息。
 緩みかけた気持ちを再度、仕事モードに入れ直せば、冷静な魔王としての私が顔を出す。

「病原菌であれ、呪いや毒であれ、私の魔法でどうにかできます。だから、慌てる必要はない……ええ、だから、落ち着きましょう」

 今大事なのは、彼の不調の原因がなんであるか特定すること。
 それが毒や病原菌なら、私の魔法で駆逐。呪いであった場合は種類によっては解除が少し厄介だけど、これもどうにでもなる。どんな呪いかさえわかれば、私が外せないわけがない。
 心を鎮めて、私は水を持って再び寝室へむかった。

「勇者さん、お水ですよ」
「あ……わるいな、魔王……」
「自分で飲めますか?」
「ああ、なんとか……ん……」
 
 ゆるゆると身を起こした勇者さんにコップを渡すと、彼はゆっくりと水を口に含む。
 喉に触る感覚がつらいのか、少し顔をしかめながら、一杯分の水を時間をかけて飲む勇者さんを、私はじっくりと眺める。
 ただ見ているのではない。呪いの有無や毒の有無を調べる、そういう魔法を使っている。

「……本当に、病気みたいですね」
「え……?」
「いえ、気にしないでください、少し、えっと……その、触れますね」
「あ……」

 彼の熱のこもった手指を、私は持ち上げた。
 恥ずかしい、なんて言っている場合ではない。そもそも病人相手に、そんな気持ちは湧かない。

「…………」

 集中する必要はなく、ただいつも通り。
 机に置いてあるものに手を伸ばすような気軽さで私は自分の力を使った。

「お……?」
「ん、どうですか? 少しは楽になったと思うのですけど」
「……今のは」
「ごく普通の、回復魔法ですよ。あんまり強すぎると逆に負担になりますから、病気を治す程度のものです。失った体力の回復は自然に任せますから、すぐに動いたりしないでくださいね?」
「……わかった」

 意図が伝わったらしく、少しスッキリした顔をした勇者さんがベッドに背中を預ける。

「いや本当に身体が楽になった。すごいなお前の魔法……ありがとう」
「いえいえ、ちょうどお邪魔していてよかったです。あ、お水のおかわりとかいりますか?」
「ああ、大丈夫……悪いな、飯……」
「もう、こういうときはいいんですよ。ご飯の前に、身体を治してください。ご飯も今日はメイドちゃんに頼んで、消化が良さそうなものを用意して持ってきてもらいますから、それを食べてください」
「お、おう……わかった……」

 私が作ります、と言えないところがちょっと情けないけれど、メイドちゃんに任せた方が確実だ。
 私は勇者さんの部屋を一度出て、メイドちゃんに事情を説明してすぐに戻った。

「……勇者さん、ちゃんとベッドで寝てますか?」
「心配しなくても寝てるよ……無理して飯作ろうとしたりしたら怒るだろ、お前……」
「そりゃあもう、そんなことしたら、めってしちゃいますよ」
「ははっ……お前のそれ、魔王のくせに全然怖くないけど、なんか逆らえないんだよな……」
「……いいから、ちゃんと寝ててください」
「うつるぞ……」
「うつりませんよ……魔法でちゃんと治したんですから」

 体力が落ちているからか、勇者さんは素直に、ん、と短く返事をすると、ベッドに深く身を沈めた。

「情けない……身体、冷やしたのがまずかったか……悪いな、言ってくれたのに……」
「そんなこと、今は良いですから……」
「気がゆるんでたなぁ……俺、こういうの治す魔法はあんまり得意じゃないし、熱出るとうまく使えなくてな……前は、なるべく、こうならないようにしてたのに……」
「……勇者さん、それはきっと気が緩んだんじゃなくて……昔のあなたが、ずっと気を張っていただけですよ」

 想像できる。
 彼のことを知っているから、分かってしまう。
 使命のために、体調なんて崩してられないと、走り続けてきたのだろうということが、想像できてしまう。
 そうやって彼は、他人のために自分をすり減らし続けていたのだ。いままで、ずっと。

「いいじゃないですか、体調崩したって。もうそんなことで、責められたり……自分を責めたり、しなくていいんですから」
「……そう、かな……」
「はい。だから……ダメなときは、無理しないで……ちゃんと休んでください。じゃないと……心配です」
「……ありがとな……」

 私の言葉に安心してくれたのか、勇者さんの目が細められる。

「眠いなら、寝ちゃってください。そのほうが体力の回復が早いでしょうから。なにか、してほしいこととか、ありますか?」
「……ん、ない……だいじょうぶ、だ……ありがと、な……」

 ゆっくりと落ちていく、彼の瞼。
 ゆるい寝息が聞こえてくるまで、そう時間はかからなかった。

「……おやすみなさい、勇者さん」

 穏やかな寝顔に、自然と頬がゆるんでしまう。
 私の言葉を聞いて、無理をせず、弱い部分を見せてくれたことが、ひどく嬉しいと思えてしまう。

「……もう、救世主なんて……重たい責任なんて、背負わなくっていいんですからね」

 当たり前に起きて、当たり前に眠って。
 無理なんかせずに、生きていてほしい。
 疲れたら休んでもいいし、感情を無理して隠さなくてもいい。
 そんな日々を、彼に過ごしてほしい。

 ……それだけなら、民に対して想っていることと同じなんですけどね。

 私が魔王になったのは、民に平穏という幸いを謳歌して欲しかったから。
 だけど今、彼に対してだけ想っていることは。  
 
「っ……ああ、もう、本当に……好きだなあ……」

 今、私は、嬉しいと思ってしまっている。
 ずっと気を張って生きていた彼が弱みを見せてくれた相手が私で、すごく嬉しい。
 当たり前に過ごす彼の隣に、私という存在も当たり前にあってほしい。
 純粋に彼のことを心配する気持ちとは別に、そんなことを考えて、期待してしまっている自分がいる。
 今だって、彼の寝顔が目の前にあるというだけで、鼓動がうるさい。

「……もっと見ていたいですけど……あ、あんまり見てると、心臓がおかしくなりそうです……」

 言い訳なんかできないほどに好きなのだと、どうしようもなく自覚してしまう。
 こうして彼の寝顔が目の前にあるだけで、先ほどまでの心配をすっかり忘れて、どきどきしてしまうのだから。

「っ……勇者さん……あの……これくらいは、いい、ですよね……?」

 眠っている相手に聞くのは卑怯だと分かっているけれど、私は自分の欲を止められなかった。
 そっと手に触れると、まだ、風邪の熱が残っている。
 温度といっしょに、気持ちが伝われば良いのに。
 そんなことを考えて、私は彼の指と、自分の指を絡ませた。

「……えへへ」

 メイドちゃんがご飯を持ってきてくれるまで。
 私はずっと、彼の手を握り続けていた。