「……ん、こんなもんか」
今日のノルマを終えて、俺は軽く伸びをする。
室内とはいえ、できるトレーニングは多い。
今の俺に必要があるかどうかは分からないが、幼少からやっていたことを今更止めるのも落ち着かないので、鍛錬は今でも続けている。
「あちー……今日は掃除も飯の用意も終わってるとはいえ、ちょっとやりすぎたか」
最低限のノルマは決めてあるが、どれだけやるかはその日次第だ。
集中しているときは自覚しなかった汗を拭うために、俺は衣服を緩めてタオルを手に取る。
「ま、時間ならあるし、風呂でももらうか……あいつが来た時に汗臭いのもあれだしな」
いつでも湯が使えるという捕虜としては破格の待遇。
最初は戸惑ったものだけど、慣れてみれば有り難さだけが残る。
魔王の心遣いに感謝しつつ、俺は汗を流す。
「はー、すっきりした……いや本当に、いつでもお湯が使えんだからすげえな魔界の技術力……」
感心しながら身体を拭き、俺は新しい服を着る。
頭についた湯を拭きながら、テーブルのある部屋に戻ったところで、ドアが開いて、
「勇者さーん!」
「うおっ」
突然扉が空いて、驚いてしまった。
やってきた魔王は、扉を開けた姿勢のままで俺を見て、首を傾げた。
「……もしかして、お風呂あがりですか?」
「ああ、ちょっと運動しててな。茶ぁいれてやるから、そこ座ってろ」
「いえいえお構いなく。それよりちゃんと拭きませんと、身体を冷やしちゃいますよ?」
「問題ねえよ、この部屋あったかいしな」
軽く手を振って応えて、俺はお湯を準備する。
茶を入れて戻ると、魔王は既に席に着いていた。
「ほれ、あったかものどうぞ」
「あ、あったかいものどうもー」
受け取ったお茶を、魔王は笑顔で受け取る。
いつも通りに綺麗な所作で、彼女は俺が淹れた茶を飲む。
「ぷは……はあ、落ち着きますね。労働の疲れが良い感じに抜けていきます」
「そりゃ良かった。お疲れさん、魔王」
「えへへ……ありがとうございます。勇者さんは、今日は運動ですか?」
「ああ、戦わなくても良いっていっても、あんまり身体がなまるのもいいことじゃないからな」
俺の方も席について、茶を飲む。うん、うまい。
こちらの言葉に、魔王派はうんうんと頷いて、
「勇者さんは努力家ですねえ……私はあんまり運動は得意じゃないですし、意欲的な方でもないので、凄いと思います」
「レベル十五万超えてるのに、か?」
「私の能力、魔力に振り切れてますからね……実は体力とか筋力はそれほどでもないんですよ」
「……ピーキーな能力値で総評が十五万超えてるって、相当だな」
感心していると、魔王はドヤ顔で頷いて、
「有り余る膨大な魔力で防御力や攻撃力をすべてカバーしていますからね。魔力を乗せて『撫で』れば周辺は更地になるし、たとえ眠っていても自動で物理攻撃も魔法攻撃も、呪いや毒さえも反射、あるいは無効化しますよ」
「それは……まず倒せないな」
「ええ。冗談でもなんでもなく、魔界で最強ですから」
改めて聞くと、でたらめ過ぎるくらいの能力だ。
かつて魔王のところまでたどり着いた勇者の話は何人かいると聞いたことがあるが、これでは倒せなかったのも頷ける。
もしも未だに戦争が続いていて、俺が彼女のことをなにも知らずに対峙したとしても、おそらく勝ち目は無かっただろう。
「……とはいえ、自動反射は私が操作するよりだいぶ精度や効果が落ちますからね。勇者さんくらいの速さの人が不意打ちすれば、充分に私の命を脅かすことはできますよ」
「……やらねえよ」
「ふふ、分かってますよ。だから、こうしているんですから」
柔らかく微笑んで、魔王はくつろいだ様子だ。
完全に安心しきっている、こちらを信頼した視線に、俺は気恥ずかしいものを感じるが、実際今の俺に魔王を害する気は一切無い。
「ったく……なんか調子狂うな、そういうところ」
「ええ、なんでですかぁ」
「魔王のくせに正論多いし、俺より警戒心ないし」
「えー、だって勇者さんはいい人ですから、心配なんていりませんし。……だってはじめてあったときに、自分の命を賭けてみんなのことを想える人ですから」
「ぐっ……お、お前、そのネタずっと引っ張る気か……?」
初対面でやらかして怒られた実績があるので、この話題については弱い。
なんとか話題を変えようと思うが、魔王はくすくすと楽しそうに笑って、
「まあ、今度同じこと言ったらもっと怒っちゃいますけどね」
「わ、分かった、悪かったよ。次は言わない、それで良いだろ」
「ふふ、はい。……約束ですよ?」
「っ……」
差し出された小指に、どきりとしてしまった。
ほっそりとして、真っ白な指の向こうで、魔王は可愛らしく小首を傾げている。
紋様が刻まれた瞳に吸い込まれてしまいそうな感覚に、俺はつい目を逸らしてしまう。
「……魔界にもあったのか、その、小指で約束する文化」
「いえ、この間勇者さんのお母さんに教えてもらいました。……勇者さんは約束させたらぜったい守るから、困ったらそうしなさいって」
「母さん、いつの間に俺の敵になったんだよ……」
理不尽なものを感じるが、小指を差し出してくる魔王は真剣な顔をしている。
先ほどまでのこちらを茶化しているような雰囲気はなく、まっすぐな視線。
「……ああ、もう、分かったよ」
その目に、どうも俺は弱いようだ。
絡めた小指は、少しだけ冷たくて、けれどしっかりと結ばれてくる。
「えへへ、ゆーびきーりげーんまん、です♪」
「……それも母さんから聞いたのか。妙な人類の文化ばっかり覚えてるな、お前」
「良いじゃないですか。……人間のこと、もっと知りたいんです。知るからこそ、こうやって仲良くできるんですから」
「……そうだな」
相変わらず、俺よりもずっと正しいことを言う相手に苦笑しつつ。
俺は魔王と、指切りをしたのだった。
☆★☆
「ところでどれくらい運動苦手なんだ?」
「えーと……魔力のブーストなしの状態だと、人類の距離感で言う百メートルくらい走ったら息が切れますね」
「思ったより運動音痴だな!?」
「城ができてからはほとんど外にも出なくなりましたからねえ……」
「うーん……簡単な運動から始めるか?」
「……考えておきます」
「その間はあんまりやる気ないやつだろ……」