「さっぱりしたな」
「さっぱりしましたね」
「風呂、狭くなかったか?」
「充分でしたよ」
「そりゃ良かった……服、別のやつ着たんだな」
「あ……はい。さすがに、城を寝間着では歩けませんからね」

 魔王の姿は風呂に入る前とは違っていた。
 明らかに寝間着ではない、黒基調のふりふりした服なのは変わらないが、先ほどとは違う格好。
 フリルが朝よりも大人しめなのは、夜という時間を意識してのことだろうか。
 
「ごすろり、だっけ。気に入ってるのか、それ……」
「出た当時から気に入ってたんですが、今年とうとう流行って……一ファンとして、とても嬉しいです」
「そうか。良かったな」

 俺には服の善し悪しは分からないが、魔王が嬉しそうにしているのならそれは良いことのように思えた。
 魔王は笑みを深くしてこちらに近寄ると、すんすんと鼻を動かして、

「……勇者さんと私で、同じ匂いがしますね」
「言われてみれば……って、そりゃ同じ石鹸を使ったんだから、そうなるだろ」
「えへへ、お揃いがなんだか嬉しくて」
 
 まだ風呂の熱が抜けていないのか、柔らかく微笑む彼女が、いつもよりどこか色気があるように見えて。
 なんとなく気恥ずかしいものを感じながら、俺はお茶を新しく淹れる。少しでも気持ちを落ち着けて、魔王と過ごすために。

「……それじゃ、魔界チェスでもするか」
「ふふ、良いですね。夜はまだこれからですよ!」

 そうして、俺たちはチェス盤を挟んで向かい合う。
 コマの形状以外はほとんどが人界のチェスと変わらないルールの、魔界チェス。

「よーし今日こそ勝ち越しちゃいますよ」
「じゃ、俺はそれを阻止するのが目標ってことで」
 
 ことり、ことり。お互いがコマを動かす音が響く。
 勝率は俺の方が上。だが少しずつクセを読んで、魔王がこちらを追い詰めてくることも少なくはなく、俺が負けることも前より増えてきた。

 実力が拮抗してくれば勝負事というのは違った面白さが見えてくるもので、お互いに手を変え、相手の反応を見ながら勝負を重ねていく。
 他愛のないことを話し、ゆるやかに時間が刻まれ、進む。
 過ぎていく時間を惜しむように、或いは忘れるように、俺たちは何度も対戦を繰り返した。
 
「……もう、今日が終わっちゃいますね」
「……ああ、そうだな」

 意識して時計の方を見ないようにしていたので、正確な時刻は分からない。
 ただ、魔王の方はなんとなく時刻を分かっているらしい。

 コマを動かす手を止めることなく、魔王は言葉を続ける。

「こんなに遅くまでいるの、はじめてですよね」
「ああ、確かにな」

 普段なら、とっくに魔王は帰っている。
 こんなに長く同じ時間を過ごすのも、こんなに遅くまで一緒にいるのも、はじめてのことだ。
 朝から夜までずっと、魔王と話して、遊んで、飯を食って。
 寂しさを感じたり、余計なことを考えることが一度もない日というのは、久しぶりかもしれない。

「…………」
「…………」

 それまでの他愛ない会話が止まり、沈黙が流れる。
 時間は有限。彼女の休みは終わり、またいつも通りの日常が待っている。

「……あ、あの」
「……なんだ?」
「その……もしも私が、今日はお泊まりしたい、って言ったら……どうします?」
「そ、れは……難しいだろ」

 良いのか、なんて言いかけた自分を、俺はギリギリで律した。
 魔王はどこか、少しだけ気落ちしたような様子で、長耳を垂らす。
 
「……分かってます。だって、ベッドはひとつだし、朝までには部屋にいないとさすがに皆に心配かけちゃいますし」
「……ああ」
「でも……」
「……チェックメイト」

 ことん。
 最後の一手が指され、言葉が遮られる。
 でも、の後にどんな言葉が続くのか、なんとなく分かっている。
 それでも、俺は『終わり』を宣言した。

「……良い時間じゃないか?」
「……はい」

 俺の言葉に頷いて、魔王は席を立つ。
 俺も彼女を見送るべく、椅子から立ち上がった。

「…………」
「…………」

 響く足音が、やけに大きく感じられる。

 きっと俺たちは今、お互いに同じ気持ちだと思う。
 今日という日が楽しくて、もう少し続いて欲しいと思っていて、だけどそれが難しいことも分かっていて。

 終わらなければいけないのに、終わって欲しくない。

「あ、あの、勇者、さん……?」
「あ……」

 部屋のドアを開け、出て行こうとした彼女の手を、俺は無意識に掴んでいた。
 昼間に彼女から触れられたときのようなお遊びではなく、俺の方から明確に彼女を繋ぎ止めてしまっている。

「っ……」

 しまった、と思ったときには既に遅い。
 一度触れてしまうと、名残惜しさはより強く、確かなものになる。
 俺は彼女の手を握ったまま、完全に固まってしまう。自分の方から触れたくせに、それ以上何も言えず、動けもしなくなってしまったのだ。
 
「……勇者、さん」

 魔王は少しだけ瞳を揺らして、きゅ、と手を握り返してきた。
 上目遣いで向けられる、紋様が浮いた目を、綺麗だと思う。
 体温は俺よりも少し低くて、小さくて、柔らかな手指。

「…………」
「…………」

 お互いに無言のまま、時間が流れる。
 繋いだこの手を引っ張れたら、どれほど良いだろう。
 帰らないで欲しいと言えたら、どれほど良いだろう。
 一晩中彼女と共にいられたら、どれほど良いだろう。

 ……我が儘だな。

 自分の気持ちが、我が儘だと分かっている。
 だからこそ、俺は最後の最後で踏み切らなかった。

「……今日は、楽しかったぞ」

 我が儘にならないように、しかし、気持ちを隠すことはせず。
 精一杯の言葉を、俺はなんとか口にすることができた。

「あ……」
「その……また、休みがあったら来いよ。俺のとこで、良ければだけど」
「……勇者さんと一緒が、いいです。こんなに楽しいお休み、はじめてでした」
「……そうか」
「……はいっ。また今度、お休みの日に来ます。お休みじゃなくても……時間があったら、ここに来ます」
「ああ。……待ってる。朝でも、夜でも……少しだけでも良いから、来てくれたら、嬉しい」
「あ……はいっ。また……また、今度!」
「ああ、またな」

 するりと、お互いの手が離れた。
 寂しさは消えなくて、まだ一緒にいたいという想いもなくならなくて。
 それでも、また今度を約束して、笑顔で別れられたから。
 次に彼女が来てくれるまで、待っていられると思えた。