「勇者さーん」
「……ふっ!」
「あら……」

 いつも通りに扉を開けると、あまり聞いたことのない声がした。
 勇者さんは私が入ってきたことにも気付かないようで、何度も同じ動きを反復していた。

「……ふっ!」

 手に持った刃を構え、振る。
 シンプルな動作を、勇者さんは一回一回を大切にするように、ゆっくりと繰り返す。

「へぇ……」
 
 構えては、振る。
 構えては、振る。
 何度も行われるその動作は明らかに洗練されたもので、今までに何度もそういうことをしてきたと、充分に分かるものだった。
 邪魔をしてはいけないと思い、しばらくの間、私は静かに勇者さんを見守っていた。
 やがて一段落が付いたのか、彼はふと構えを解いて、

「……ん? 魔王? 来てたのか?」
「あ、はい。今来たところです」
「そうか。声かけてくれても良かったのに」
「いえいえ、のんびり眺めていましたので。……素振りですか」
「一応な。つっても、包丁じゃ格好つかねぇけど」

 見られていたことが少し気恥ずかしいのか、勇者さんは笑って刃を置いた。
 
「木剣くらいなら支給してあげられますよ。明日にでも、書類作ります。五日以内には届くと思いますので」
「あ、ああ……悪いな」
「良いんですよ。出来ることはします。出来ないことは謝ります。それだけですから」

 勇者さんが少しでも快適に暮らせるように取り計らう責任が、私にはある。彼を手元に置いているのは、私の我が儘だからだ。
 はじめは人類の国王に押しつけられて仕方なく受け入れて、失礼があってはいけないと思っていろいろと暮らしやすいようにした。
 けれど今は、それだけではない。私にとって勇者さんの存在は、日に日に大きくなりつつある。
 もちろん、してあげられることには限界がある。それでも、私は彼の為になにかしたいのだ。

「私の方こそ、気付いてあげられなくてすいません。そうですよね、ここが生活のすべてでは、運動不足になりますよね……」
「いや、別に運動不足になっても良いんだけどな。もう戦うこと無いだろうし」
「そんな。せっかく勇者さんいい筋肉ついてるんですから、維持しないと勿体無いですよ」
「……そうか?」
「はい。格好いい身体です。さっきの素振りも、すごく格好良かったですよ」
「……そうか」
「そうですよ」
「……なんか恥ずかしいな」
「……そ、そう言われたら、私も恥ずかしいこと言ったような気がします」

 男の人の身体を見て、良い、だなんて。
 過去に自分の身体を気安く評価しないで欲しいと言っただけに、ばつが悪くなってしまう。

「…………」
「…………」

 お互いに無言で、少しだけ見つめ合ってしまった。
 頬に熱を感じるけれど、今更逸らせない。かといって、なにを言って良いのかも分からない。
 困っていると、勇者さんは表情を柔らかくして、

「……今日は飯、食べていくか?」
「あ、は、はい、ぜひお願いします!」
「そっか。じゃあ今日は肉にするか。実は来るような気がして、仕込みだけはしてあるんだよ」
「あ……ありがとうございます」

 ……なんか勇者さん、機嫌良いですね。

 理由は不明だけど、話が逸れたことは確かだ。
 少しだけほっとして、私は頭の中のやることリストに『木剣』と書き込んだ。
 既に包丁を支給している以上、それくらいなら簡単だろう。なんならメイドちゃんに頼んで、こっそり仕入れて貰っても良いのだから。

「あ、そういえば勇者さん」
「ん。どうした、魔王」
「実は今日はお土産があるんです」
「土産ね……何を持ってきてくれたんだ?」
「いえ、私もなにか分からないんですが……人間界のお菓子らしくて」
「菓子? 人間界の?」
「はい。私にとって、勇者さんが言うところの、『なんだかよく分からないもの』、ですね」

 なんだかよく分からない人界のものだからこそ、ここに持ってきたのだ。
 勇者さんなら知っているだろうと思ったし、彼だって故郷の食べ物は喜ぶだろうし、なにより一緒に食べたいと思ったから。

「そうか。とりあえず見せてみろよ」
「あ、はい。えーと……」
「やっぱりマントの中なのか……しかし人間の菓子か。俺も久々だな」
「でしょう? せっかく頂いたので、勇者さんもどうかなって」
「そうか……悪いな。気ぃ遣ってもらって」

 こちらが言いたいことが分かったらしく、勇者さんは眉尻を下げた。
 どちらかというと申し訳ない顔じゃなくて、嬉しい顔がみたいんだけどな。そんなことを思いながら、私は首を振って、

「いいんです。勇者さんとお茶したくて持ってきたんですから……あ、ありましたよ」

 テーブルに置いて、包みを開いてみせると、真っ黒くて四角いものが現われた。
 既に一度確認のために見ているけれど、個人的にはなんらかの暗黒物質みたいに見える。お菓子とは聞いているけれど、本当に食べられるのか、という疑問の方が強い。
 
「…………」
「……どうです? なんなのか、分かります?」
「これは、羊羹だな」
「ヨーカンって言うんですか?」

 当然のように、聞いたことがない単語だ。
 一般的な人類の言葉は習得している私だけれど、ピンポイントなものを指し示す単語などは、さすがに覚えていない。
 
「東の方にある小さな島に伝わってる菓子だな。製法が独自のもので、かなり貴重でな……まぁ、言ってしまえば高級な菓子だな。贈り物としては良いものだぞ」
「……真っ黒でほんとに食べられるのかと思ってましたけど、そんなに良いものだったんですね」
「ああ。俺もあんまり食べたことがない。かなり甘いけど、美味いぞ」

 良かった。貴重なものなら、尚のこと持ってきた甲斐があったというものだ。

「それなら、身体を動かした後には最適ですね。持ってきて良かったです」
「ああ、ありがとうな。少し待ってろ。その羊羮切って、緑茶……っぽい何か淹れるから」
「りょくちゃ……?」
「さっき言った東の島でよく飲まれてる茶だ。昔飲んだことがあってな……まあ、魔界の茶葉をブレンドして、それっぽいのを作るってだけだが」
「ブレンドして再現したんですか……勇者さん、いろんなスキルを習得してきましたね」
「まあ暇つぶしの一環でな……最近は結構楽しくなってきたぞ」

 ここが生活のすべてなので、窮屈していないだろうかというのは常に心配していることだけど、彼は彼なりにいろんなことをして、楽しんで暮らしているらしい。
 少しだけ安堵していると、勇者さんはテーブルの上のヨーカンを眺めて、

「しかし羊羮とは、またいいものもらったな……前にハニワくれた知り合いか?」
「いえ、これは勇者さんのお母さんからですね」

 出所を言った瞬間、勇者さんが体勢を崩した。
 勇者さんがずっこけるというのは、ちょっとレアな光景だった。
 
「母さん、魔王を餌付けすんなよ……」
「む。餌付けだなんて失礼ですね。いつも息子がお世話になってますって言われて渡されましたよ。私も何か、良いものをお返ししないとですね……」
「……母さん、甘いもの好きだぞ」
「そうですか。じゃ、私も甘いものを贈りましょうか……魔界銘菓って感じの物を」

 人類が食べても大丈夫なものかどうかを選別する必要はあるけれど、やはりなにかをいただいたらお返しはしたい。
 その相手が勇者さんのお母さんなら、尚のことだ。大切な息子さんをお預かりしている以上、失礼はできない。

「俺の知らないところで、魔王と俺の母親がすごい仲良くなってるのはなんでだ……」
「お母さんの茶飲み話、いつも面白いんですよ?」
「お、おう……そうか……」
「勇者さんの子供の時の話とか、すっごく面白くって」
「待て、今のは聞き捨てならねぇぞ」
「……可愛かったですよ、いつまでおねしょしてたとか」
「ええいやめろやめろ、お茶淹れてやるから静かに羊羹食え」
「ふふ、はーい」

 珍しく慌てる勇者さんが見られたことに満足して、私は席に腰掛ける。
 今日も、楽しい時間になりそうだった。