「……♪」

 ついつい鼻歌を歌って踊り出してしまいそうな勢いで、私は廊下を歩く。
 既に本日の業務は終了で、私はフリー。火急の用事があればメイドちゃんから連絡が来るようになっているので、なにも問題はない。

 ……お昼から勇者さんに会えますね!

 魔族の女王としての業務は日々忙しく、最近は人界のこともあり、書類仕事や視察も増えてしまっていて、勇者さんの部屋には行けない日も多い。
 夜にお邪魔するということも考えたけど、眠っていたらいけないし、邪魔になりすぎてもいけないと思う。
 なので私は基本的に、お昼か、夕方にお仕事が終わったときにだけ勇者さんの部屋へ行くようにしている。

「……さてと」

 歩き慣れたいつものルートを通り、彼の部屋の前へとたどり着く。
 異空間から出した手鏡で自分の顔を見て、髪を軽くとかし、服を整えて、深呼吸。

「こほん……勇者さーん」

 いつもと同じように扉を開ければ、そこは見慣れた景色。
 私が彼に、できるだけ快適に暮らして貰えるようにと用意した居住スペース。
 けれどいつもとは、違うことがひとつだけ。

「…………」
「……あ、また寝てる」

 私が会いに来た相手は、お昼寝の真っ最中だった。

「もう、テーブルじゃ風邪引くって、前も言ったのに……しょうがないんだから」

 すやすやと気持ちよさそうに寝息を立てる勇者さんの側へと近寄り、私は自らのマントを彼の身体にかけた。
 勇者さんは少しだけ身じろぎをしたけれど、眠りからは覚醒することなく、前と同じように私のマントにくるまってくれる。

「……安心して、くれてるのかな」

 そうだったら、嬉しいな。
 そんなことを考えながら、私は彼の隣に椅子を持ってきて、腰掛けた。
 勇者さんの寝顔は相変わらず可愛くて、ついつい無言で、じぃっと眺めてしまう。

「……今回マントに匂いがついたら、魔法で保存させてもらっちゃお」
「んん……むぅ……ぐぅ」
「……そういえば私、この間……勇者さんに撫でてもらったんですよね」

 勇者さんの手紙がきちんと届けられなかった事件があったとき。
 私はあまりにも申し訳がなくて、彼の前でワンワン泣いてしまって。
 勇者さんはそんな私の背中を、ずぅっと撫でてくれていた。
 大きくて、温かくて、硬くて、だけど、優しい。そんな手に撫でられていたら、少しずつ、心が落ち着いて――

「――はっ」

 気がつくと私は、彼の指に自分の指を絡めていた。

「わっ、わたっ、わたしっ」

 あまりにも無意識に彼の手を取ってしまい、私自身が驚いてしまう。
 悲鳴を上げそうになる自分を、なんとか抑え込んで、私は彼の様子を見た。
 
「……すぴぃ」
「……起きません、よね?」

 勇者さんは未だに、気持ちよさそうに寝息を立てている。
 私は勇者さんが起きないように、そろそろと彼の手を撫でて、

「あ、おっきい手……あったかい……」
「ん……」
「っ!」
「……すかー」
「ほっ……もう、ビックリさせないでくださいよ……」

 反射的に手を引っ込めてしまったけれど、彼が起きることはなかった。
 規則正しい寝息をこぼして、幸せそうに眠る彼の姿を、私はじっと見る。

「……また、撫でてくれないかな、勇者さん」

 ぽつりとこぼれた言葉は、誰に向けたものでもない、独り言だった。
 当然答えが返ってくることもなく、勇者さんはすかすかと気持ちよさそうに夢の中をたゆたっている。

「うー、もやもやする……」

 きゅう、と胸の奥が締め付けられるような、不思議な気持ち。
 寝顔をずっと眺めていたいとも思うし、早く起きて私の方を見て欲しいとも思う。
 こっそりと触れるのではなく、彼の方から私に触れてほしいとさえ、思ってしまう。そんなことは、我が儘だって分かっているのに。

「……勇者さんの、せいなんですからね」
「んぅ……?」
「っ……!?」

 何気なく、言葉をかけた直後。
 勇者さんはうっすらと目を開けた。

「おー……?」
「あ、ゆ、勇者さ……お、おはよう、ございます……?」
「おー……んー……」

 勇者さんは私の顔を見て、何度か瞬きをした。
 少しだけぼんやりとした時間を経て、彼はゆるやかにいつも通りの表情になる。

「わり。寝てたわ……来てたんだな、魔王」
「あ、い、いえ、その、お、お構いなく……」

 どうやらさっきの私の言葉は聞かれていなかったようで、私は安堵した。
 
「前もそうだったが、来てくれたんなら起こしてくれても良いんだぞ。疲れて寝てたってわけでもないしな」
「あ、だ、大丈夫ですよ。今来たところですから!」
「そうか? くあぁ……とりあえず眠気覚ましに茶でも淹れるか。お前も飲むだろ?」
「お、お願いします……」

 ん、と短く返事をして、勇者さんは立ち上がって台所へと向かう。
 彼の言うお茶はもちろん人界のものではなく、魔界のものだけど、淹れるのにはもうすっかり慣れたようで、彼は直ぐにお茶の準備をして戻って来た。

「はい、あったかいので良かったか?」
「丁度良いです、ありがとうございます……」

 出されたお茶に、私はゆっくりと口をつける。
 温度のある液体は、私の気持ちを少しだけ落ち着けてくれた。
 勇者さんの方はお茶を一口飲んだ後、瞼を何度か擦って、

「飯……には少し早いか?」
「あ、そ、そうですね。まだ早いと思います」
「んー……魔界チェスでもするか? 時間つぶしになるし、俺もまだ眠気が覚めてないしな」
「え、ええ、ぜひお願いします」

 了承を返すと、勇者さんは部屋の隅から魔界チェスのボードを持ってくる。
 手早くコマを並べて準備をする彼の手を、私はつい、じっと見つめてしまった。

「……どうした、魔王? 俺の手になんかついてるか?」
「あ、いえ、その、なんていうか……き、綺麗な手をしてるなって!」
「んー、まあしばらく剣なんて握ってないしなぁ……トレーニングは欠かしてないんだけどな」
「そうですね、触ったら、意外と硬かったですし……」
「ん? なんか言ったか?」
「なんでもありませんっ! ほら、早く始めましょ、私が先攻取っちゃいますよ!」
「お、おう」

 口が滑ったのを慌てて誤魔化すと、勇者さんは微妙な顔をしつつも一手目を差した。
 しばらくの間、無言の時間が続き、室内にはコマを動かすぱちりぱちりという小気味のいい音だけが響く。
 対戦時間とコマの音は、私から雑念を少しずつ削って行き――

「――んぁぁ、負けました」
「おう、前半ちょっと頭が回ってなかったけど、どうにかなったな」
「ええ……ちょっと勇者さん強すぎませんか……? 私、いつもぼろ負けなんですけど……」

 教え始めた時こそ私が勝っていた魔界チェスだけど、今では勇者さんにほとんど勝つことができない。
 私は完全に『詰み』となった盤面を、やや理不尽な気持ちで眺めて、

「こんなに勝てないものですかね……なんかちょっとルールに問題がある気がしてきました」
「いや、チェスは魔界のも人界のも公平だぞ……実際の戦争と違って、ちゃんと一手ごとで交代するし」
「まあ確かに、盤の外で王様を暗殺されて敗北とか、毒を撒かれて全滅とかもないですけどー……」
「言っとくけど俺の負け方、それに似た感じだからな?」

 確かに私が取った、『勇者さんを最前線に釘付けにして、私自らが王国の首都を強襲しちゃおう』という作戦は、チェス的にはないルールだ。
 実際の戦争では一手ごとに交代して殴るなんてこともないし、勇者さんの言い分は正しい。ただちょっと、負けがこんできて悔しいだけで。

「むぅー……」
「まあ、こういうゲームはルールは公平だよ、基本的に。……公平じゃないのはプレイヤーの方だ」
「……どういうことですか?」
「当たり前だけど、俺とお前じゃ、見えてるものが違う。考えていることも、まあ、思考のクセみたいなものもな」

 王手が済んだ盤面を元に戻しつつ、勇者さんは言葉を続ける。

「ルールをどれだけ把握してるのかも違うし……まあつまり、同じ剣を持っても同じように振れるとは限らないだろ? そういう差が出てくるから、勝ち負けが決まるわけだ」
「つまり私も、もっと魔界チェスの勉強したり、勇者さんのクセ読みをすれば……?」
「ま、勝率は良くなるだろうな。俺も負けるのは悔しいから、そう簡単にはいかせないが」

 なるほど。つまり私にも、頑張れば勝ち目があるということか。

「まあ負けるのも嫌ではないんですが、たまには勝ちたいですよね」
「それなら練習でもしといてくれ……と言っても、俺と違ってお前は忙しいから、それほど時間は取れないんだろうけどな」
「……なんか、ちょっとやる気が欲しいです」
「やる気……?」
「ええ、なんと言うか、こう……やる気が出るような……その、勇者さんに勝ったらなにかご褒美が出るとかあると、ちょっとやる気でるかもしれません……」
「ご褒美……?」
「はっ……な、なに言ってるんでしょうね、私ったら……す、すみません」

 自分でも口走っておいて、おかしなことだと思った。
 勝手に悔しがっておいて勝手にご褒美をほしがるなんて、ちょっと我が儘過ぎではないだろうか。

 ……うう、勇者さん、呆れてないでしょうか。

 ちらりと相手の方を見ると、勇者さんは少しだけ困惑したような顔をしている。やっぱり困らせてしまったようだ。
 口を滑らせてしまった自分のことを呪いながら、どう取り下げたものかと思っていると、相手は困惑した表情をフラットに戻して、軽く頷いた。

「別にいいぞ、俺にできることなら」
「えっ」
「といっても、俺にできることなんて大したことないけどな。部屋からは出られないわけだし。それで良いなら、負けてお願いを聞くくらいは遊びの範疇として――」
「――良いんですか!?」
「お、おう。別にいいぞ。何度も言うが、今の俺にできることにしてくれよ」
「は、はい! それで良いです、むしろ勇者さんに聞いて欲しいので……!!」
「わ、分かった、分かったから、近い」
「はっ……す、すみません、つい」

 承諾されたことがあまりにも意外で、つい、身を乗り出してしまっていた。
 頭を下げて距離を取ると、勇者さんは不思議そうな顔をして、お茶のおかわりをカップに注ぎながら、 

「ま、ご褒美があった方がやる気が出るって気持ちはわかるからな、頑張ってくれ」
「……はいっ」

 自分でも思った以上に良い返事をして、私はおかわりをいただくのだった。
 頼みたいことは、もう決まっていた。

 ……あの手で、もう一度。

 ご褒美のことを想うと、まだ勝っても居ないのにウキウキしてしまっている自分がいて。
 私はうるさく鳴っている胸の音を、お茶の温度でむりやり抑えつけるのだった。