魔王が急にやる気を出して部屋を出て行って、数日の時間が過ぎた。
 その間、少し気になることはあったものの、魔王が部屋に来ることは無かった。

「……むう」

 部屋でひとり、魔界チェス盤に向かいながら、俺は唸っていた。

「魔王のやつ、無理してないだろうな……?」

 仕事をしすぎるあいつのことだ。寝食を削ってということも、もしかしたらあるかもしれない。
 まして今回の件は俺、つまり勇者がらみ。部下だってあまり喜んで協力はしてくれないだろう。

「この間のアレも、もしかして今回のことが絡んでるのかもしれないしな……」

 もどかしいが、俺にできることはない。むしろ俺がなにかをしようとしても、話がこじれてしまうだけだ。
 かつての俺ならとっくに走り出していたであろう状況でも、動くことができないというのは、ひどく落ち着かない。
 今の俺は勇者などではなく、ただの捕虜なのだと、強く実感させられる。

「…………」

 もう一度深く溜め息を吐こうとしたとき、扉が開いた。

「魔王……!?」
「……はい、魔王です」

 部屋に入ってきたのは、この数日間ずっと気にしていた相手だった。

「なんか久しぶりだな。五日ぶり、くらいか?」
「…………」
「……どうした?」

 魔王の顔は、いつになく真剣だった。
 いつものような緩さはなく、どこか外向けのような、緊張しているともとれる表情。
 魔王はこちらを見上げたままで、静かに座った。それも椅子ではなく、床にだ。
 
「お、おい、なにを……?」
「この度は、誠に申し訳ございませんでした!」

 疑問に対して返ってきたのは、深々と下げた頭。
 銀色の髪が床につき、汚れることも厭わず、魔王は俺に土下座した。

「な、なんの話だよ……というか、頭上げろよ。急にそんなふうに頭下げられると、戸惑うだろ」
「……先日のお手紙の件です」
「……手紙がどうしたって?」

 予想はある程度ついていたことなので、驚かずに続きを促す。
 魔王は頭を上げ、こちらを真剣な顔で見つめて、言葉を作る。

「はい……調べてみたんです。そしたら、その……郵便整理担当のものが、勝手に捨てていました」
「っ……!」
「話を聞いたら、『人間が書いた手紙なんて届ける必要ない』とか言ってて……勇者さんのお母さん以外にも、たくさんの人が勇者さん宛の手紙出してくれてたのに……ぜんぶ、ぜんぶ捨てたって……」
「……そうか」

 予想はしていた。というよりも、その方が可能性が高いことは分かっていた。
 本来であれば、捕虜に手紙など届けられるはずもない。それが許されていたのは魔王の許可があったからで、それだって手放して受け入れられているわけじゃないことも、分かっていた。
 それでも、こうして現実を突きつけられると落ち込んでしまうのだから、ままならないなと思う。

「だから……だから、ごめんなさい!」
「いや……お前のせいじゃない」

 落胆する気持ちも、少しの怒りもあるが、魔王を責めるのは違う。
 彼女はむしろ、俺のために動いてくれていたのだから。
 それでも、彼女はもう一度深く頭を下げてきた。

「いいえ、これは私の監督責任です。部下たちに勝手を許した、私の責任です」
「そんなことねぇよ。魔族と人間が解りあうのが、まだまだ難しいってだけの話だろ」

 魔族と人類は、戦争をしていたのだ。
 俺に殺された魔族は、百や二百じゃない。数えるのも馬鹿らしいと思って斬って捨ててきた無数の相手には、当たり前だが家族が、友人が、恋人がいたのだ。
 積み重なった恨みが完全に消えることは、きっとない。あるとしても、それは何百年も時間がかかることだろう。少なくとも、今生きている世代はきっと恨みを、怒りを、悲しみを忘れない。忘れられない、

 ……俺は、魔族の仇敵だからな。

 この独房に来てから魔王とばかり話をしていたので、忘れそうになっていた。いや、忘れてはいないが、気が緩んでいた。
 この世界に、俺のことを快く思っているものは、ほとんどいないのだ。

「…………」
「……魔王?」
「ふぇ……ぐすっ……」
「なっ……!?」

 予想外のものがこぼれ落ちて、俺は目を見開いた。
 魔王の瞳から、透明なしずくが溢れてくる。

「でもっ、でもっ! わたし、勇者さんにお手紙出していいって……他の人のお手紙も届けるって……言ったのに! やくそくっ、したのにぃっ……」
「な、泣くなよ……」
「みんなが、ゆーしゃさんのことっ、ひっ、考えてっ、書いた……おてがみもっ、ゆーしゃさんが……いっしょーけんめっ、書いた、おてが、み、もぉ……ぜんぶ、ぜんぶっ……ふ、ふぇ……」
「だからお前のせいじゃないって……」
「私のせいなんですっ! ゆーしゃさんと約束、したのにっ、ひくっ……お客さんとして、扱うとかぁ! 言ったのにぃ! ごめんなさい、ごめんなさいぃ……」
「泣くなって! 怒ってないから!」
「ゆーしゃさんが怒んなくても、私が情けなくて、腹が立つんですよぉ! ゆーしゃさんのお手紙が、びりびりに破かれてる間に……うっ、ゆーしゃさんに、ご飯作ってくださいとか……言ってたっ、私がっ! 私のばかぁ! う、ぐ……ふえええん!」

 叫ばれる言葉は、あまりにも真っ直ぐで。
 籠もっている感情が、あまりにも真摯で。

「……ああ、もう。なんでお前は……」

 なんでお前は、憎んだり恨んだりするなんて考えられないほど、綺麗なんだ。
 言葉を飲み込んで、俺は魔王の背中をさする。
 こんなにも真剣に俺のことを考えてくれる人は、きっとこの世界ではこいつだけだろうから。

「ふぇ、くっ……私が、ちゃんと見て、なかったからぁ……」
「そんなのもう良いって……ほら、落ち着け」
「うぇ、ごほっ……くっ、ひ……あ、うぅぅ……」

 涙を流し続ける魔王が落ち着くまで、俺は彼女を宥め続けた。

「……うぅ」
 
 暫くの時間が流れて、嗚咽は徐々に小さくなり、こぼれる涙は大粒から小粒に、鼻水もやがて垂れなくなった。

「……ずびっ」
「落ち着いたか?」
「はい、少し……ごめんなさい、勇者さん……」
「だから謝らなくていいって……途中から魔界語入ってよく分からなくなってたし。ほら、タオル。顔、ボロボロだぞ」
「うぅ……ありがとうございます……」

 美人が台無しなのでタオルを渡すと、魔王は素直に受け取ってくれる。
 本来であれば、人間と魔族はこういう気軽な関係になれない。そうしてくれているのは、魔王が俺を客人として扱ってくれるからだ。

 少し前は、『客人として扱いたい』という魔王の言葉を信じ切れなかった。
 けれど、今は信じられる。彼女が今までしてくれたことは、間違いなく俺のためだったからだ。

「……なぁ、魔王」
「なんですか……?」
「三日くらい前かな。上の階の方で、すげぇ音がしたんだよ。なんか爆発したみたいな音がさ」
「う……」

 目を赤くしたままで、魔王はばつが悪そうな顔をした。
 その反応でなんとなく答えを察しつつも、俺は質問をする。

「……あれ、もしかしてお前がやったのか?」
「……はい。手紙を捨てた部下たちが、勇者さんのことすごくバカにして……それがものすごく許せなくて……それでつい、ちょっと、大きめの魔法をぶっぱなしてしまって……今、上階は修理中です……」
 長耳をくったりと垂らし、魔王はうなだれる。
 
「……やっぱそうか」
「はい……」
「じゃあ、それでいいよ」
「え?」
「捨てられた手紙は返ってこねぇし、それは辛いけどさ。……お前が俺のために、俺の代わりに、怒ってくれた。それだけで充分だ」

 やられたことが許せるわけじゃない。
 それでも、この世界でたったひとりの人間で、敵の最大戦力だった勇者の俺のために奔走して、涙まで流してくれる相手がいる。
 その事実は、俺にとって充分に救いになることだった。
 
「勇者さん……」
「だから、もう気にしなくていい。泣かなくてもいい。また……その、遠慮なんかしないで飯食いにこいよ」
「……ぐすっ」
「だから泣くなってば」
「これは、これは嬉し泣きですからっ……」
「どっちにしろ目の前で女に泣かれたら、男は困るっての……」

 またこぼれ始めた涙を、俺は魔王の手からタオルを取って拭う。

「ぐす……すいませんっ……」
「そう思うんなら、泣き止んでくれ。そういう顔をされると、なんというか……その、どうして良いか分からん」
「はい……ん、んっ……」

 言葉をかけると、魔王はまたいくらか落ち着いたようだった。
 呼吸を整える時間を置いて、彼女は再びこちらに向き直る。

「……あのですね、勇者さん」
「ん、なんだ?」
「お詫びと言ってはなんなのですが……これから定期的に、お母さんと面会の席を設けさせていただきます」
「……良い、のか?」
「こちら側が礼を欠いたんです。ちゃんとお詫びをしなければ、いけませんから」
「……正直、それはすげぇ嬉しいけど」

 家族に会えると言われて、嬉しくないと言えば嘘になる。
 だが、それがとても簡単なことではないことくらいは承知している。
 また無理をしたのではないだろうかと心配になるこちらを安心させるように、魔王は微笑んだ。

「じゃあ、遠慮なく受け取ってください。それと、今後はちゃんとお手紙を届けるように厳命しておきました。ですから、これからはお手紙がきちんと届くし、届けられるはずです」
「そうか……わかった」
「……本当に、申し訳ありませんでした」
「だからもう良いって。謝るのも、頭を下げるのもやめてくれ」
「……はい」

 頷きつつも、納得はできていないのだろう。魔王の表情は暗く、耳はしんなりと垂れ下がったままだ。
 もう少しだけ踏み込んで言葉をかけようかとも思ったが、俺はそれ以上この件についてなにかを言うのを辞めた。

「……飯、食べてけよ。いつも通りに、な」
「……はいっ」

 きっと今一番大切なことは、いつも通りの俺たちでいることだろうと、そう思ったから。
 今日も俺は、こいつに飯を作ってやることにする。