「あの、勇者さん……」
「どうした魔王、改まって」
いつもなら元気に腹減った飯食わせろと言い出す相手が妙にしおらしくて、俺は首を傾げた。
魔王は歯切れが悪そうに、何度か言葉を迷うような仕草をしてから、
「私ってもしかして、平均よりよく食べるんでしょうか……?」
「……魔族の平均なんて、俺が知るわけないだろ」
正直、女の割にはよく食うなコイツと思うことは多々あった。
しかしそれは魔族という種族ではふつうなのかもしれないと思っていたので、俺は今まで一度もコイツに「よく食うやつだな」とは言わなかった。
「というか、なんで急にそんなことが気になったんだよ」
「……私の側近に、すごく親しい子がいるんですが」
「側近って、ある程度親しい間柄じゃないのか……?」
「いえ、その子はとっても特別で……ふつうに雑談しても私を必要以上にヨイショとかしない感じなんです」
「ああ、それは確かに、お前の立場からすると貴重か……友達みたいな付き合い方ができるってことだな」
そういえば前にも、料理人のゴマすりがキツくて苦手とか言っていたっけ。
好意を持たれることは悪いことでは無いと思うが、それが打算的なものだと気付いてしまうとツラい、というのは俺も勇者をしていたのでよく分かる。
「はい。メイドちゃんって言うんですけど、その子にその……勇者さんのことを、ちょくちょく話していて……」
「……俺のことを?」
「はい。私がそういうのを気楽に話せるくらい信用しているので」
確かに、魔王が勇者と仲良く飯を食ってるなんて、ふつうは話せないだろう。
そのことを魔王が話している時点で、そのメイドちゃんとやらは信用に値する人物のようだ。
「それで、その……勇者さんとどういうご飯を食べたかとかも、話すんですけど……この間、『魔王様、殿方の前でちょっと食べすぎでは?』と言われてしまって……」
「……ふーん」
やっぱりコイツ、魔族の中でもよく食べる方だったのか。
「その、私、長い間ひとりでもそもそご飯食べてたから、適量ってよくわからなくて……ゆ、勇者さんに『よく喋る豚だな』とか思われてたらどうしようって……急激に心配になっちゃって……」
「いやそんなことは思ってないからな……」
お前の想像の中の俺、Sっ気が強すぎない?
或いはコイツが心配性すぎるのか、どっちだろうか。
「うぅ、本当ですか? お肉付きすぎとか思ってたりしません……?」
まだ不安がぬぐえないのか、魔王は自分の身体をあちこち触ったり眺めたりしている。
そうしていると魔王の格好だとあちこち見えてしまいそうなので、俺は努めて胸や太ももを見ないようにして言葉を作った。
「思ってねえよ。確かにお前、いつも腹減ってるなとは思ってるけど、その分仕事はしているしな」
「……無駄にお肉ついてても、嫌いになりません?」
「ついてねえって。それにもしも見えてない部分についてても、そんなことで嫌いにならねえよ」
「……嫌いに、ならない……それって……えへ、えへへ、そ、そうですかぁ、えへへへ……」
慌てていたかと思えば、今度はニマニマ笑い始めた。忙しいやつだな、コイツ。
「機嫌直ったか? で、今日は魚焼こうと思うけど良いか?」
「あ、はい! お魚は大好きですから、むしろ喜んで!」
「ん、了解」
実は今日も来るかもしれないと思って、ふたり分の魚の下処理を済ませてあるのだ。無駄にならなくて良かった。
献立も決まったので何時もの「お腹すきました」が出るまで、のんびりとしていよう。魔界チェスをまたやるのもいいな。
「……って、まだ気にしてんのか」
「うう、なんかどこも贅肉のような気がしてきました……」
「お前、結構心配症だよな……」
「為政者はそういうものなんですーちょっとしたことがすぐ暗殺とか謀略に繋がっちゃうんですー!」
「まあ肥満も、いろんな不都合にはなるだろうけどよ……」
未だに自分の腹回りをふにふにしながら心配そうに耳を垂らす魔王に、やや呆れながら俺は近付いた。
「よいしょ」
「ふわっ!?」
足元からすくい上げるように持ち上げると、びっくりするほど軽かった。
「あ、あっ、あっ、ゆ、ゆーしゃさん、これっ、これっ……」
「……こんだけ軽かったら、充分痩せてるだろ。気にしなくていいんじゃないか?」
いわゆる、お姫様抱っこ。
口で何度言っても気にしそうなので、実際に重さを量ってみようと、なるべく問題がなさそうな背中と膝裏を選んで手を添えてやってみたのだが、少し踏み込みすぎだろうか。
……いやでも、いつまでもこの話題になるのは嫌だったし。
重いか重くないかで言えば軽いし、なんならそんなことは気にせずに飯を食べていって欲しい。
太りすぎれば健康の被害も出てくるだろうが、そういう風には見えないし、食事中に笑っているコイツを見る方が、気分が良い。
「……ま、これで分かっただろ。ぜんぜん太ってねえから気にすんな、今日も飯食ってけ」
いつまでもやっているのも恥ずかしいので、いい加減降ろしてやろう。
そう考えて少しだけ腕に力を緩めると、魔王が俺の服を握って、
「あ、あうぅ、あ、あのっ、あのう……」
服を捕まれたということは待ってくれということなので、降ろそうとした魔王を一度抱え直す。
魔王はあわあわと何度も口をぱくぱくさせて、暫く言葉を探していたが、やがてこちらを上目遣いで見上げて、言葉を作り始める。
「……ほ、ほんとに重くないなら、も、もーすこしこのままできーぷ、できますよね……?」
「あのなぁ……お前まだ心配してるのかよ」
「いえ、ちがっ……う、くないです。ええ、とても心配してます。はい、凄く心配です、魔界の女王がぶくぶく太ってるなんて思われたら大変です。だから……だから……その、も、もう少し、安心させてください……」
魔王の頬は、茹でられたように染まっている。
驚いたのもあるが、恥ずかしさもかなりあるのは、察しの悪い俺でもよく分かる。
そもそも魔界の女王に気安く触れるようなやつもいないので、慣れていないのだろう。
だというのに、もう少しこのままでいて欲しいなんて、変なやつだな。
「……飯、少し遅れるぞ」
「い、いいです、今は……今は……もうちょっとだけ……」
「……まあ、それでお前が納得するならな。気にせず食べていけよ」
「……はい」
なぜか随分としおらしい魔王を不思議に思いながら、俺はもう少しだけこの体勢でいることになった。
魔族も人間も、痩せた太ったが問題になるのは変わらないようだ。
☆★☆
「めめめめメイドちゃん聞いてください、今日勇者さんにだっこされちゃいました……!」
「え、抱かれた? ついに?」
「秒で誤解です!! あと『ついに』ってなんですか!?」
「え、違った……? もういい加減、そういう時期では……ラブロマンス小説ならラスト一万文字くらいでは……?」
「そ、そんなのまだ早すぎます! まだ序盤三分の一くらいです……じゃなくて! もう、いいから聞いてください、あのですね、勇者さんの抱っこすごくて……力強くて、でもやさしくて……はうぅ、すごかった……」
「魔王様の語彙が今、魔界で一番雑魚になってて可愛い……」
「メイドちゃんはどこに反応してるんですか……!?」
「……♪」
自然と鼻歌がこぼれることを、止めることができない自分がいた。
本当ならさらにスキップもしてしまいたいくらいのご機嫌だけど、さすがにそれは威厳が無さすぎるので我慢しつつ、私の歩調は早い。
……今日はお仕事が早く終わりました!
やるべきことが予想より早く終わったということは、その分だけ勇者さんと一緒にいる時間が長くなるということだ。
「ふふふ……♪」
時間がある分、ご飯を食べるだけではなく、いろんなことが出来る。
雑談もできるし、魔界チェスだって遊べるだろう。近々、新しいゲームも持ってこようと思うので、勇者さんの好みをそれとなく聞き出したりもしておきたい。
るんるん気分で、私は勇者さんの部屋の前へと立つ。
さあ今日はどんな話をしよう。どんなものを食べられるだろう。彼がどんな顔を見せてくれるのだろう。
これからを想像するだけで、胸が優しく、けれど温かく脈打つ。
「勇者さん、こんにちわー」
声色が緊張していないだろうかと、そんなことを思いながら私は部屋の扉を開けた。
「あれ……勇者さん?」
いつものような返事がなく、私は少しだけ首を傾げて――
「――あ、寝てる……」
「ん……すぅ……」
勇者さんが、テーブルに突っ伏した状態で寝ていた。
彼は背中を丸め、自分の腕を枕にして、規則正しい寝息をこぼしている。
魔王城があるこの中央区は魔界でも比較的過ごしやすい気候をしていて、特に今日の城内は結構暖かかった。
私も公務中に少しウトウトしてしまったくらいだし、部屋から出られずに暇を持て余している勇者さんが寝落ちしてしまうのも納得だ。
「……もう、勇者さん。テーブルなんかで寝たら風邪引いちゃいますよ。起き……」
「くかー……」
「起き……」
「ん……むにゃ……」
「っ……かわいいっ……」
寝顔、めちゃかわ。
いつもはどこかクールな勇者さんの無防備な姿なんて、そうそうお目にかかれるものでは無い。
起こさないといけないと思うのに、ずっと見ていたい気持ちもあって、私は困った。
「え、なに、勇者さん寝てる時に、むにゃ、とか言うんですか……え、かわいい……」
自分でもなにを言ってるか分からないけれど、なぜか鼓動が高鳴ってしまう。
普段は決して見られない勇者さんの寝姿に、私はすっかり夢中だった。
「ん、んん……くぅ……」
「……も、もう。しょうがないんですから」
結局私は勇者さんを起こすことができず、むしろ自分がつけているマントを毛布替わりに彼に羽織らせた。
勇者さんは少しだけ身動ぎをしたものの、やがて再び落ち着いた寝息をこぼし始める。
「ん……すぴ……」
「ふふ……魔王のマントを『そうび』した勇者なんて、貴方がはじめてですよう?」
自分がしたことに少しだけおかしさを覚えて、私は彼の隣に座って微笑む。
「……勇者さん、寝てますよね?」
「……すぅ……すぅ」
「っ、ちょ、ちょっとだけ……」
勇者さんが眠っていることを確かめて、私はおそるおそる、彼の頬に手を伸ばす。
触れた場所は柔らかくてあたたかく、彼が生きていることを指先で直接感じる。
自分から殿方に触れるなんてという背徳感が私の背中を撫でるけど、今、彼は寝ている。
「む、無防備な勇者さんがいけないんですからね……」
枕にしている腕に触れてみると、感触は硬く、男性的な力強さがあった。
「……あ、ぅ」
ついこの間、彼に抱き上げられたことを思い出してしまう。
いきなりのことでびっくりして、気恥ずかしくて、でも、全然嫌じゃなくて。
怖さや驚きよりも、逃げ出したいような、ずっとこのままでいたいようなくすぐったさは、思い出すだけで心臓が跳ねてしまう。
「なん、でしょう、この、気持ち……う、はうぅ……」
「ん……」
「ひゃわっ」
触りすぎたのか、勇者さんが身動ぎをした。
慌てて手を離すと、勇者さんは眠ったままで私が羽織らせたマントを手繰り寄せるような動きをした。
「あ、くるまった……かわいい……」
「すやぁ……」
「……暖かそうにしちゃって」
「くー……くぅぅ……」
「……早く起きてご飯作ってくださいよ?」
頬をつつくと、寝息だけが返ってきた。
「……でも、どうせなら……匂いがつくまで、寝ててもいいんですよ? そうしたら……お仕事のときでも、ずっと勇者さんと一緒みたいで、うれしいから……」
「ん……すや……」
「えへ、えへへ……」
勇者さんの傍で、私は彼が起きるまで、飽きることなく寝顔を眺め続けていた。
「勇者さん、ご飯!」
「おう」
もはやいつも通りの挨拶なので、俺も軽い調子で手をあげて応える。
魔王は銀色の髪を上機嫌に揺らしてステップを踏むと、行儀良くテーブルに腰掛ける。ちょっと餌を待つ犬っぽいな、耳を尻尾みたいに振ってるし。
さすがに口に出すと不機嫌になりそうなので、俺は心の中だけで納得してから料理を再開する。
「今日は何が出てきますかね。最近は勇者さんの料理スキル上がってきてますからねー」
耳をぴこぴこ、態度をウキウキさせて、魔王は鼻歌でもこぼしそうなほど上機嫌だ。食後は魔界チェスもしていく気なのか、チェス盤を机の隅に用意している。
「よく分からないものを調理してるのは変わらないけどな……今日はなんだかよく分からない野菜で、なんだかよく分からない調味料炒めだ」
「ちゃんとその調味料にも名前があるんですよ? 一応この間、書類には人間の言葉でそれっぽく書いたはずなんですが……伝わりませんでした?」
「あの書類、『名状し難きふしぎ味の素』とか『生きている炎の如くパンチがあるパウダー』とか『召喚魔法にも使える黄金蜜酒』とか妙に怖い名前ついてて、正直引いたわ」
枕詞にパワーがありすぎて、使うのがやや怖いものがちらほらあったのは記憶に新しい。
魔王、人類語は得意らしいが、語彙の選択はちょっとアレだった。
「あちゃー、ウケが悪かったみたいですね……好奇心を刺激するかと思ったんですが」
「刺激されたのは恐怖心の方だっての……まぁ、一応一通り使って、全部安全っぽいから使ってるけどよ」
あの書類でも、甘いのか辛いのか酸っぱいのか、というだいたいの方向性は分かる。
まだいろいろと試している段階だが、そのうち凝った料理にも挑戦してみたい。
「それはそうですよ。口に入るものなんですから、変なもの支給しませんって」
「その辺り信用してるから、妙にコズミックな名前でもとりあえず使ってみたんだけどな……ところで、魔王」
「なんですか?」
「今更だが、お前は料理できないのか?」
今まで一度も手を出したり口を出してこなかったので、なんとなく返答は想像できてはいたが、一応聞いてみた。
魔王は俺の言葉に一瞬だけきょとんとした顔をしたが、すぐになぜかドヤ顔で胸を張って、
「なに言ってるんですか。料理どころか、およそ生活に必要なことはなにも出来ませんよう!」
「ドヤ顔でいばれることじゃないぞ」
「洗濯物さえたたんだことありません! メイドちゃんがぜんぶしてくれるので!」
「だからいばるなって」
「というか、させて貰ったことがないですね。『魔王様はそんなことしちゃいけません』とか言われて」
「箱入りかよ」
「自分の部屋の管理くらいしてみたいんですけどねー……毎日掃除されてて、変なもの置いておくと、ゴミと間違えられてその日の内に撤去されちゃうんですよね」
子供部屋かよ。
「変なものって……例えばどんなもんなんだ?」
「最近だとハニワですね」
「ハニワって……あのハニワ? 土でできてて、こう、丸っこい目と口をした……」
「はい。人界の歴史的な、あのハニワ」
「なんでそんなもん置いてたんだよ……」
「知り合いが人界土産でくれたんですよ。結構ラブリーで、気に入ってたんですけどねー……残念です」
「ラブリー……アレが……?」
魔族特有の価値観なのか、それとも魔王個人の美意識なのかは分からないが、ちょっとよく分からなかった。
「最近は撤去されそうなものは、魔法で作った異空間に保存してるんですが、ハニワはうっかり出しっぱなしにしちゃってて……」
「便利だな、魔王」
「便利ですけど、うっかりするとそんな有り様です」
「まあ、うっかりが多そうだもんな、お前……」
「む、なんですか勇者さん、私のことそんな風に見てたんですか」
魔王がやや不機嫌そうに頬を膨らませるが、今までの所業からの評価なので、俺は悪くないと思う。
雑談しているうちに料理が出来上がったので皿にのせて運ぶと、魔王はぱっと表情を笑顔に変えた。
「あ、ご飯できたんですね。わ、良い匂い……これはアレですね、私が人類語で『風に乗りて良い感じの香りを運んでくれる粉』って書いたヤツ……!」
「カレー粉っぽいなって思ってな」
「かれ……?」
「いや、気にするな。人界に似たような物があって同じ使い方ができそうだなって思っただけだから」
他にもそういうのがいくつか見つかったので、少しずつでも人界の料理に近い物を作ってみたいと思う。
魔界の食材の味には慣れたが、たまには故郷の味が恋しいと思ってしまうのだった。
「勇者さん、こんばんわー」
「ん、魔王か」
「はい、魔王です。遊びに来ましたよーう」
勝手知ったるとばかりに、魔王が自然な動きで部屋へと入ってくる。
「最近『ご飯食べに』、から『遊びに』、になってるよな」
「ちゃ、ちゃんとお仕事はぜんぶ終わらせてますよ?」
「それなら良いんだが……というか、あまり無理するなよ」
最近の魔王にはワーカーホリックの疑いがあるので、俺のところに来るために無理して時間を作ろうとしていないか少し心配だった。
「大丈夫ですよ、ちゃんと休憩もしてますし、寝る時間もきちんと確保していますから」
「それならいいんだけどな……今から片付けるから、少し待ってくれるか?」
「あら、なにかしていたんですか?」
「母さんに手紙をな」
本来ならありえない待遇だが、俺は人間界に手紙を出すことが許されている。
捕虜の扱いとしてはかなりどうかと思うのだが、せっかく魔王が与えてくれた権利なので、たまにこうして母親に手紙を書いてるのだった。
「あ……もしかして、お邪魔しちゃいました?」
「いや、別に。書くこともそんなにねぇし」
「お手紙に、『魔界よいとこ、一度はおいで』って書いてくれました?」
「一応捕虜って扱いになってるわけだから、それ書いたら無理矢理書かされてるって疑われないか?」
「……確かにそうですね。でもほら、折角手紙のやり取りは自由ってことにしてるんですから、好きなこと書いてくれて良いんですよ?」
「さっきも言ったが、そんなネタないしな……」
普段やっていることと言えば、飯を作って筋トレして風呂に入って寝るという感じだ。
まさか魔王とチェスしたり一緒に飯を食ってるとは教えづらいのでその辺も書けないため、ほとんど近況報告というか、似たような文面になってしまう。
「……やっぱりこの独房にずっといると、生活の変化がありませんよね。ホントはもっと自由にさせてあげたいんですど……ごめんなさい」
「別にその辺りのことは色々難しいの解ってるから、気にしてないぞ。申し訳なさそうにするなよ」
むしろ手紙を出すことを許されている時点で相当な厚遇だ。感謝しこそすれ、文句なんてあるはずもない。
こちらの言葉に安心したのか、魔王は模様の刻まれた瞳を少しだけ安心で弛めて、
「……ありがとうございます」
「こちらこそ、ありがとな。しかし、本当に書くことがなくて困るんだよな……せめて返事が来たり、向こうから手紙が来れば『返事』ってネタがあるんだけどな」
「えっ」
「え?」
魔王が妙な声をあげたので、つい同じ言葉を返してしまった。
「き、来てないんですか、お返事……」
「返事どころか、向こうからの手紙も来てないぞ」
「そ、そんな、まさか……ゆ、勇者さんですよ!? 人類の希望の! お母さん以外にも、こう、ファンの方とかいるでしょう!?」
「今は魔王の人質だしな」
「あ……」
「立派に戦死したわけでもなく、魔王に囚われてる……ってことになってるわけだからな。実際は国王が俺を売ったわけだが」
戦いは終わった。それも、人類にとっては喜ばしくない形で。
見るものから見れば、俺は勇者でありながら人類を勝利に導けなかった大罪人だろう。
「その辺りが情けなくて、母さんも俺のこと見限ったのかも――」
「――そんなはずありません!!」
強い、部屋中に響くほどの否定の言葉に、面食らった。
「ま、魔王?」
「自分の息子さんなんですよ!? そんなこと……そんなことあるわけないじゃないですか!」
「いや、でも……分からないだろ?」
便りはなく、返事もない。
もしかすると、大罪人の親としてひどい扱いを受けているかもしれないと思ってすらいる。
息子のことを誇りどころか、恥のように思ってしまっても、仕方ないのではないだろうか。
こちらの言葉を、魔王は首を振ることで再び否定した。
「分からないなら、どうして信じてあげないんですか! 自分のお母さんなのに!」
「あ……」
「悪く考えちゃダメです。そんな風に考えてたら、どんどん沈んでいっちゃいます。きっとなにか理由が……そうだ! もしかしたら他の郵便物に紛れてるかもしれません! 私、ちょっと調べてみますね!」
「お、おい、魔王!?」
「この辺りのルートとか手順が結構未整理だったりして混乱してますし、人間語がわからない人もいますから、きっと何処かで止まってたりすると思うんです! じゃ、また来ますんで!」
早口で言いたいことを言って、魔王は慌ただしく部屋から出て行ってしまう。
銀色の髪が扉の向こうに消えて、部屋は先ほどまでと同じ静けさが戻った。
「……悪く考えたら、どんどん沈んでいく、か」
取り残された俺は、魔王に言われた言葉を口の中で転がす。
「『魔王(おまえ)』が『勇者(おれ)』より正論言うなよ……」
ぐうの音も出ないほどの正論だった。
まるでこちらの不安を、本当は信じたいという気持ちを汲んで、正しいと認めてくれたかのような。
強いけれど、あたたかい言葉。それはきっと本来であれば、古いお伽噺の主人公が使うような台詞で。
「……飯くらい食ってけばいいのに」
救われたという照れを隠すように、そうつぶやくくらいしかできない自分が、少しだけ恥ずかしかった。
◇◆◇
「メイドちゃんちょっと手伝ってください!」
「魔王様、どうしたんですか。今頃勇者様と仲良くよろしくしてる頃では?」
「仲良くする前にしなきゃいけないことがあったんですよう! いいから手伝ってください!」
「うわ、茶化しが通じないとは本気ですね……それでは、なんなりと」
魔王が急にやる気を出して部屋を出て行って、数日の時間が過ぎた。
その間、少し気になることはあったものの、魔王が部屋に来ることは無かった。
「……むう」
部屋でひとり、魔界チェス盤に向かいながら、俺は唸っていた。
「魔王のやつ、無理してないだろうな……?」
仕事をしすぎるあいつのことだ。寝食を削ってということも、もしかしたらあるかもしれない。
まして今回の件は俺、つまり勇者がらみ。部下だってあまり喜んで協力はしてくれないだろう。
「この間のアレも、もしかして今回のことが絡んでるのかもしれないしな……」
もどかしいが、俺にできることはない。むしろ俺がなにかをしようとしても、話がこじれてしまうだけだ。
かつての俺ならとっくに走り出していたであろう状況でも、動くことができないというのは、ひどく落ち着かない。
今の俺は勇者などではなく、ただの捕虜なのだと、強く実感させられる。
「…………」
もう一度深く溜め息を吐こうとしたとき、扉が開いた。
「魔王……!?」
「……はい、魔王です」
部屋に入ってきたのは、この数日間ずっと気にしていた相手だった。
「なんか久しぶりだな。五日ぶり、くらいか?」
「…………」
「……どうした?」
魔王の顔は、いつになく真剣だった。
いつものような緩さはなく、どこか外向けのような、緊張しているともとれる表情。
魔王はこちらを見上げたままで、静かに座った。それも椅子ではなく、床にだ。
「お、おい、なにを……?」
「この度は、誠に申し訳ございませんでした!」
疑問に対して返ってきたのは、深々と下げた頭。
銀色の髪が床につき、汚れることも厭わず、魔王は俺に土下座した。
「な、なんの話だよ……というか、頭上げろよ。急にそんなふうに頭下げられると、戸惑うだろ」
「……先日のお手紙の件です」
「……手紙がどうしたって?」
予想はある程度ついていたことなので、驚かずに続きを促す。
魔王は頭を上げ、こちらを真剣な顔で見つめて、言葉を作る。
「はい……調べてみたんです。そしたら、その……郵便整理担当のものが、勝手に捨てていました」
「っ……!」
「話を聞いたら、『人間が書いた手紙なんて届ける必要ない』とか言ってて……勇者さんのお母さん以外にも、たくさんの人が勇者さん宛の手紙出してくれてたのに……ぜんぶ、ぜんぶ捨てたって……」
「……そうか」
予想はしていた。というよりも、その方が可能性が高いことは分かっていた。
本来であれば、捕虜に手紙など届けられるはずもない。それが許されていたのは魔王の許可があったからで、それだって手放して受け入れられているわけじゃないことも、分かっていた。
それでも、こうして現実を突きつけられると落ち込んでしまうのだから、ままならないなと思う。
「だから……だから、ごめんなさい!」
「いや……お前のせいじゃない」
落胆する気持ちも、少しの怒りもあるが、魔王を責めるのは違う。
彼女はむしろ、俺のために動いてくれていたのだから。
それでも、彼女はもう一度深く頭を下げてきた。
「いいえ、これは私の監督責任です。部下たちに勝手を許した、私の責任です」
「そんなことねぇよ。魔族と人間が解りあうのが、まだまだ難しいってだけの話だろ」
魔族と人類は、戦争をしていたのだ。
俺に殺された魔族は、百や二百じゃない。数えるのも馬鹿らしいと思って斬って捨ててきた無数の相手には、当たり前だが家族が、友人が、恋人がいたのだ。
積み重なった恨みが完全に消えることは、きっとない。あるとしても、それは何百年も時間がかかることだろう。少なくとも、今生きている世代はきっと恨みを、怒りを、悲しみを忘れない。忘れられない、
……俺は、魔族の仇敵だからな。
この独房に来てから魔王とばかり話をしていたので、忘れそうになっていた。いや、忘れてはいないが、気が緩んでいた。
この世界に、俺のことを快く思っているものは、ほとんどいないのだ。
「…………」
「……魔王?」
「ふぇ……ぐすっ……」
「なっ……!?」
予想外のものがこぼれ落ちて、俺は目を見開いた。
魔王の瞳から、透明なしずくが溢れてくる。
「でもっ、でもっ! わたし、勇者さんにお手紙出していいって……他の人のお手紙も届けるって……言ったのに! やくそくっ、したのにぃっ……」
「な、泣くなよ……」
「みんなが、ゆーしゃさんのことっ、ひっ、考えてっ、書いた……おてがみもっ、ゆーしゃさんが……いっしょーけんめっ、書いた、おてが、み、もぉ……ぜんぶ、ぜんぶっ……ふ、ふぇ……」
「だからお前のせいじゃないって……」
「私のせいなんですっ! ゆーしゃさんと約束、したのにっ、ひくっ……お客さんとして、扱うとかぁ! 言ったのにぃ! ごめんなさい、ごめんなさいぃ……」
「泣くなって! 怒ってないから!」
「ゆーしゃさんが怒んなくても、私が情けなくて、腹が立つんですよぉ! ゆーしゃさんのお手紙が、びりびりに破かれてる間に……うっ、ゆーしゃさんに、ご飯作ってくださいとか……言ってたっ、私がっ! 私のばかぁ! う、ぐ……ふえええん!」
叫ばれる言葉は、あまりにも真っ直ぐで。
籠もっている感情が、あまりにも真摯で。
「……ああ、もう。なんでお前は……」
なんでお前は、憎んだり恨んだりするなんて考えられないほど、綺麗なんだ。
言葉を飲み込んで、俺は魔王の背中をさする。
こんなにも真剣に俺のことを考えてくれる人は、きっとこの世界ではこいつだけだろうから。
「ふぇ、くっ……私が、ちゃんと見て、なかったからぁ……」
「そんなのもう良いって……ほら、落ち着け」
「うぇ、ごほっ……くっ、ひ……あ、うぅぅ……」
涙を流し続ける魔王が落ち着くまで、俺は彼女を宥め続けた。
「……うぅ」
暫くの時間が流れて、嗚咽は徐々に小さくなり、こぼれる涙は大粒から小粒に、鼻水もやがて垂れなくなった。
「……ずびっ」
「落ち着いたか?」
「はい、少し……ごめんなさい、勇者さん……」
「だから謝らなくていいって……途中から魔界語入ってよく分からなくなってたし。ほら、タオル。顔、ボロボロだぞ」
「うぅ……ありがとうございます……」
美人が台無しなのでタオルを渡すと、魔王は素直に受け取ってくれる。
本来であれば、人間と魔族はこういう気軽な関係になれない。そうしてくれているのは、魔王が俺を客人として扱ってくれるからだ。
少し前は、『客人として扱いたい』という魔王の言葉を信じ切れなかった。
けれど、今は信じられる。彼女が今までしてくれたことは、間違いなく俺のためだったからだ。
「……なぁ、魔王」
「なんですか……?」
「三日くらい前かな。上の階の方で、すげぇ音がしたんだよ。なんか爆発したみたいな音がさ」
「う……」
目を赤くしたままで、魔王はばつが悪そうな顔をした。
その反応でなんとなく答えを察しつつも、俺は質問をする。
「……あれ、もしかしてお前がやったのか?」
「……はい。手紙を捨てた部下たちが、勇者さんのことすごくバカにして……それがものすごく許せなくて……それでつい、ちょっと、大きめの魔法をぶっぱなしてしまって……今、上階は修理中です……」
長耳をくったりと垂らし、魔王はうなだれる。
「……やっぱそうか」
「はい……」
「じゃあ、それでいいよ」
「え?」
「捨てられた手紙は返ってこねぇし、それは辛いけどさ。……お前が俺のために、俺の代わりに、怒ってくれた。それだけで充分だ」
やられたことが許せるわけじゃない。
それでも、この世界でたったひとりの人間で、敵の最大戦力だった勇者の俺のために奔走して、涙まで流してくれる相手がいる。
その事実は、俺にとって充分に救いになることだった。
「勇者さん……」
「だから、もう気にしなくていい。泣かなくてもいい。また……その、遠慮なんかしないで飯食いにこいよ」
「……ぐすっ」
「だから泣くなってば」
「これは、これは嬉し泣きですからっ……」
「どっちにしろ目の前で女に泣かれたら、男は困るっての……」
またこぼれ始めた涙を、俺は魔王の手からタオルを取って拭う。
「ぐす……すいませんっ……」
「そう思うんなら、泣き止んでくれ。そういう顔をされると、なんというか……その、どうして良いか分からん」
「はい……ん、んっ……」
言葉をかけると、魔王はまたいくらか落ち着いたようだった。
呼吸を整える時間を置いて、彼女は再びこちらに向き直る。
「……あのですね、勇者さん」
「ん、なんだ?」
「お詫びと言ってはなんなのですが……これから定期的に、お母さんと面会の席を設けさせていただきます」
「……良い、のか?」
「こちら側が礼を欠いたんです。ちゃんとお詫びをしなければ、いけませんから」
「……正直、それはすげぇ嬉しいけど」
家族に会えると言われて、嬉しくないと言えば嘘になる。
だが、それがとても簡単なことではないことくらいは承知している。
また無理をしたのではないだろうかと心配になるこちらを安心させるように、魔王は微笑んだ。
「じゃあ、遠慮なく受け取ってください。それと、今後はちゃんとお手紙を届けるように厳命しておきました。ですから、これからはお手紙がきちんと届くし、届けられるはずです」
「そうか……わかった」
「……本当に、申し訳ありませんでした」
「だからもう良いって。謝るのも、頭を下げるのもやめてくれ」
「……はい」
頷きつつも、納得はできていないのだろう。魔王の表情は暗く、耳はしんなりと垂れ下がったままだ。
もう少しだけ踏み込んで言葉をかけようかとも思ったが、俺はそれ以上この件についてなにかを言うのを辞めた。
「……飯、食べてけよ。いつも通りに、な」
「……はいっ」
きっと今一番大切なことは、いつも通りの俺たちでいることだろうと、そう思ったから。
今日も俺は、こいつに飯を作ってやることにする。
「勇者さん」
「魔王か」
部屋に入ってきた相手は、先日のように硬い雰囲気を纏っていなかった。
そのことに少しだけ安心しつつ、俺は魔王を迎え入れる。
「どうでしたか。お母さんとの面会」
「……嬉しかったよ。ちょっと泣きそうになった」
「そうですか……良かった……」
「ありがとうな、魔王」
「…………」
「どうした?」
ぱちくり、と目を瞬かせ、魔王はこちらを見上げる。
相手の反応に疑問をこぼすと、相手は慌てて首を振って、
「あ、いいえ。……その、勇者さん、はじめて『ありがとう』って言ってくれたなって……えへ、えへへ……」
にへら、と魔王はだらしなく頬を緩ませる。なんだかよく分からないが、随分と上機嫌な様子だ。
「なんだよ、そんなに笑うことか?」
「だって、なんかすごく嬉しくて……あ、でも、元々私の不手際ですから、そんなお礼とか……すごく嬉しいけど、良いんですよ!?」
「どっちだよ。……ありがたいって思ったのは本当なんだから、フツーに受け取ってくれ」
「えへへー。じゃあ遠慮なく!」
長耳をピコピコと犬の尻尾のように揺らして、魔王は満面の笑み。
久しぶりに見る屈託のない笑顔に、ついついこちらの顔までほころんでしまう。
「おう。にしても……お前、俺の母さんにも土下座したんだな。聞いたぞ」
「当たり前じゃないですか。心がこもった大切なお手紙が捨てられるのを見落としてた、なんて……すごく失礼なことなんですから」
「いや、でも……魔王だぞ?」
「魔王だろうが神様だろうが、悪いことして謝らない人はいけない人です!」
完全に正論だった。
「……なんか、お前の方が勇者っぽいときあるよな」
「なに言ってるんですか。当たり前のことなのに。そんなことよりご飯でも食べながら、お母さんとの話を聞かせてください」
「わかったよ、飯のときにな。まだちょっと早いだろ」
準備だけはしてあるので、料理の準備自体はすぐに終わるだろうが、時刻的にはまだ夕食には少し早いはずだ。
「じゃあ勇者さん! 魔界人生ゲームしましょう!」
「人生ゲームまであるのかよ、魔界……」
人生ゲームというのは、人間界では結構一般的なボードゲームの類いだ。
ダイスを振って出た目の数だけ進む双六を下地にして、そこに職業や結婚などの要素を取り込んでいる。あがりに辿りつく頃には、ひとつの人生が疑似体験できるというような感じだ。
「似たようなやつですけどね。はい、これが『魔界人生ゲーム~凍土編デラックス~』です」
「またどこから……つーか、売り文句も人間のと似たような感じなんだな……」
「凍土編はウェンディゴに就職して結婚するとすっごい子供ポンポン産めて、ゴールマスで人身売買すると大体持ち金一位になれるので、『ウェンディゴゲー』とか言われてますけどね」
「そしてゲームバランスは魔界っぽいな……」
「魔界の人生ゲームは結構職業ごとにインフレしてて、勝ち負けよりも他の種族になりきってロールプレイして楽しむことを重視してますからね。それでも勝ち負けに拘る人はいるので、ウェンディゴゲーとか呼ばれちゃうんですけど」
「そうか……魔族にも色々いるもんだな」
戦中にも感じていたことだが、魔族は人間よりも多種多様だ。
人類のように肌の色や基本的な体格が違うどころか、そもそも完全に別物としか思えない姿をしている。
それこそ、魔王のようにほぼ人間にしか見えないやつもいれば、ウェンディゴのようにクマの化け物みたいな姿をしたものもいるのだ。
「魔族はその種別によってかなり文化も違いますし、その上で同じ種の中でも、個体ごとに性格違ってますからね……」
「人間と比べて種族毎の違いが顕著だよな……まとめるの大変じゃないのか?」
「昔は大変でしたね。今みたいにいろんな魔族を分け隔てなく不自由なく、平等に国民として扱えるようになるには、五千年はかかりましたし」
「……長い時間、だな」
魔族と人間の間に流れる時間は違う。人間よりも魔族の方が遙かに長命だ。
それでも五千年という数字は、きっといくつもの世代交代を重ねた末なのだろうことは想像に難くない。
「これから人間と魔族の関係を良くするのも、それくらいはかかるかもしれませんねぇ……ま、気長にやりますから、良いんですけど」
「そうか……頑張ってくれ」
「ええ。これも私の責務ですから」
あっさりとそう言って笑う魔王に、悲壮感はない。
ただ真剣に取り組むという、真摯さがあった。
……任せても良いんだろうな。
どれだけの時間がかかっても、こいつはきっと諦めないのだろうと、根拠なく信じてしまえる。
それは俺よりも、よっぽど勇者っぽいとさえ思えてしまうような目で。
「……五千年は無理だけど、俺が生きてる間は飯くらいなら作ってやるよ」
「ふふふ。ありがとうございます」
なんとなく照れくささを覚えながらも、俺は魔界産の人生ゲームのルールを教えて貰うために席に着いた。
「ゆーしゃさーん!」
「おう」
いつもの声に、短く応じる。
いつも通りに俺の部屋にやってきた魔王は、いつも通りの人なつっこい笑みを浮かべて、
「また遊びに来ましたよ!」
「最近、二、三日に一回は来るよな」
「お仕事は終わらせてますよ?」
「それなら良いんだけどな」
「当たり前でしょう。私が仕事しないと、国が回らないんですから」
むふー、と魔王は胸を張ってみせた。
ややワーカーホリックなのではないかと心配になるときはあるが、魔王が仕事ができるやつなのは間違いないだろう。
本来なら戦争に負けた相手種族など滅ぼす方が楽だろうに、わざわざ融和という道を選んでいるのだ。その負担は想像するしかできないが、どう考えても大変な道のりなのは間違いない。普段はただの腹ペコ女だけど、魔王は凄いやつなのだ。
「しかし今日は早いな、飯にはまだだいぶ時間あるんだが」
「今日は早めにいろいろ片付きましたからね……あ、それじゃ魔界人生ゲームしましょうよ」
「ああ、良いぞ。もう掃除終わるしな」
少し前からやっていた流し台の掃除が、丁度終わるところだった。
掃除用具を片付けて席に戻れば、既にテーブルの上には遊びの準備が整っている。
「えへへ、それじゃ遊びましょうか」
「ああ」
先日ルールを教えて貰った、魔界人生ゲーム。
魔界の様々な種族になりきって人生を終えるまでをロールプレイする、テーブルゲームだ。
人界にも同じような物があるので、遊びの発想というのは人間と魔族であまり変わらないのかも知れない。
しばらくの間、俺たちは時間を忘れて、ゲームに興じた。
「……はい、あっがりー」
「今回も魔王の勝ちだな」
コマの配置をスタート地点に戻して、魔王が再びルーレットを回し始める。
無言のもう一戦に文句を言うことはない。俺の方もまだ遊びたいし、食事の時間まではまだ少し余裕があるからだ。
「勇者さん、人生ゲームはあんまり強くないですね」
「なーんか、出目が毎回あんまりよくないんだよな……運が悪いのかもしれん。たまたま俺の代で人類降伏するくらいだし」
「自虐が結構重いですが……そうですね。勇者さんは『こううん』ステータスがすこし低いです」
「『こううん』ステータス?」
耳慣れない言葉に首を傾げると、魔王は長い耳をぴこぴこと揺らして頷いて、
「はい。私が使える魔法のひとつに、対象の『ちから』、『かしこさ』、『すばやさ』、『まりょく』、『こううん』の五つの能力を数値化して、さらにそれらの総評として『レベル』を算出することができる魔法があるんですよ」
「……相手の能力を数字として出して、大体の強さを見る魔法ってことか?」
達人の領域にあるものたちが、見ただけで相手の力量を把握することができるというのは有名な話だが、そういう効果のある魔法ということか。
「そうですそうです。それで見たところ、勇者さんは『こううん』がちょっと低めで……他のステータス、特に『まりょく』と『ちから』、『すばやさ』は人類の限界近く……あるいは、それ以上まで来てるんですけどね」
「つまり……運が悪くて、頭も悪いと」
「いえ、『かしこさ』は優秀な部類ですよ。運は……すっごく悪いってほどでもないのですが……くじ引きでは絶対参加賞しか当たらない程度ですね」
妙に所帯じみた例えだった。
しかも当たっているからなんとも突っ込みづらかった。
「……まあ、実際、今まで参加賞しか当たったことないが」
「ちなみに、レベルは二千七百五十七ですよ」
「……それは、高いのか?」
「高いです。『こううん』と『かしこさ』以外は人類の限界に到達、あるいは突破しているだけはありますね。私の側近のレベルが大体、千八百から二千くらいなので、勇者さんは魔界という土俵に当てはめても、かなり強いことになりますね」
「……お前のレベルは?」
ふと気になったことを聞いてみると、相手は軽い調子で、
「私ですか? 今は十五万八千九百九十七です」
「……は?」
「十五万八千九百九十七です」
「……じゅうごまん?」
「はっせんきゅーひゃくきゅーじゅーなな」
……ケタが違うんだが?
「マジか……」
「一応、魔界で最強ですからね」
「そりゃ勝てねぇわ、人類。なんだその魔王ゲー、魔界人生ゲーム凍土編のウェンディゴよりひどくね?」
「実際のところ、対外的なこともあって城から出ることが殆んど無いですから、戦力として見た場合は防衛戦力にしかなりませんけどね……あ、そんなこと言ってたらウェンディゴに就職しましたよ。がおー」
「これは今回も負けたな。俺の就職先、ゴーレムだぜ。しかもいきなり主人にカツアゲされてるし」
「ゴーレムは凍土編ではドM職ですからね。……あ、これ終わったらご飯にしません?」
「ああ、良いぞ。これが終われば、ちょうど良い時間だろう」
今日は掃除をしていて、食事の仕込みができていない。
手軽なものを作ろうと心に決めて、俺は再びルーレットを回した。
「しかし、こううん、ね……」
「あ、もしかして低いの気にしてます? 大丈夫ですよ、悪いというほどではないですから」
「ああいや、そうじゃなくて……いや、なんでもない。ゲームしようぜ」
こううんとやらが本当に低いなら、どうして俺は今、こんなにも平穏に暮らせているんだろうな。しかも、美人が暇つぶしに付き合ってくれるなんてオマケつきで。
うっかり口を滑らせそうになった自分を誤魔化して、俺はゲームを進めることにした。
……まあ、魔王が絡んでるなら、コイツのこううんも込みの状況って事かも知れないしな。
言及はされてないが、コイツのこううんとやらは結構高いのだろう。実際、魔界人生ゲームで俺は毎回土をつけられている。
そうなると、魔王にとって俺と居ることは運が良いということになるのだが、その辺は魔王から実際に聞いたわけでもないし、聞くのもなんとなく憚られたので、俺は話題を変えることにした。
「ところで……大分前から疑問だったんだが、お前って何時から魔王してるんだ?」
「何時からも何も……私が歯向かう魔族を全員ぶっとばして建国してからずっと、ですよ?」
「えっ」
返ってきた言葉があまりにも予想外で、つい声が出てしまった。
コマが手から滑り落ちて、俺は慌ててコマを置き直す。
「え、なんですか? 私、変なこと言いました?」
「いや……お前って、初代魔王だったんだな……?」
魔王はこちらの言葉を咀嚼するように、手のひらでコマを弄び、考える仕草をしてから、
「……あ、なるほど。私のことを、何代目かの魔王だと思ってたんですね」
「おう……。だってお前、その……あんまり魔王っぽくねぇし」
「ゆーしゃさん、何回私のことを魔王っぽくない言う気ですか……」
だって魔王っぽくないじゃん。
少なくとも今、そうやってゲームに興じている姿から魔王という役職が連想できるやつはいないと思う。
「いや、実際そうだろ。なんていうか、まともだし……」
「いえ、昔はヤンチャでしたよ。長いこと政治したり、人間と戦争したりしてるうちに、考え方が変わってきただけですって」
「ヤンチャな魔王……全然想像つかねぇ」
今の彼女しか知らない俺にとって、昔はヤンチャでしたとか言われてもあまりピンとこない。
俺が知っている魔王は、頑張り屋で、素直で、ちょっとドジで、だけど有能で、捕虜である俺のことを大事にしてくれる、腹ペコ魔王だ。
「私だけじゃなく、国ができる前はみんなそういう感じでしたけどね。あの頃の魔界は暴力が支配し、誰もが水と食料を求めて殺し合う日々でしたから……あ、写真見ます?」
「写真あるのかよ」
「人間が写真と呼ぶものと似たような感じのが、ですけどね。人類語的には、念写と言った方がいいのかもしれません。えーと、たしか私の魔法で作った異空間のこの辺りに……」
言いながら、魔王は自分のマントに手を突っ込んでごそごそとやり始める。
「マントから繋がってるのかよ……もしかして、魔界チェスも魔界人生ゲームもそこから出てきたのか?」
「そうですよ。その名も『魔王四次元マント』……あ、ありました」
笑顔と共に差し出された写真は、なんというか、ツッコミどころしかないようなものだった。
「……なんで写ってる全員が、一様に肩にトゲ付いたパッドつけててモヒカンヘアなんだよ」
「昔はそれが流行りだったんですよ。可愛くないから、私はしてませんでしたけどね」
「モヒカンと肩パッドに目が行きすぎて、お前がどこに写ってるのか分からないんだが」
「もー。ほら、左下にいるでしょう?」
「……あ、こいつか。何て言うか……まだ幼い、な」
やや色あせた、写真の景色。
その中に居る魔王は、今と比べると少し幼く、どこか照れたようにピースサインをしている。というか、魔界にもピースサインはあるんだな。
「二百七十八歳でしたからね、この頃。まだまだ成長途中でした」
「…………」
「あ、今何歳なんだよ、とか思ってますね? 少なくとも五千歳よりは上ですけど?」
「少しな……いや、良い。 とりあえず話進めてくれ」
年齢よりも大きな疑問があるので先を促すと、魔王ははいはい、と頷いて、
「えーと……昔は私も、他の魔界の住人たちと同じように、水と食料の為に毎日を血にまみれて、炎の臭いにむせつつ、明日をも知れない生活をしていたんですけどね」
「それがどうして、魔界の女王になんてなったんだ?」
「昔の魔界には、国ほど大きくはないんですが、派閥みたいなものがいくつかあったんですよ。その内の一つのリーダー格を倒したら、みんな私に付いてきちゃって……この写真は、その頃のものです」
「……懐かれたというか、もっと強いやつに自然と付いたって感じか」
「ええ……その人たち、やたら私をボス、ボスって頼ってきて……それに略奪したものの一部を私に献上してくれたりもするから、私も仕方ないなーって感じで」
当時のことを思い出しているのだろう。
魔王はどこか照れくさそうに笑いながら、言葉を続ける。
「だからその人たちのことも守ってたら、別の派閥と衝突して……その派閥を潰したら、また別の派閥と……重ねるごとに部下も多くなっていって、最後には魔界の全部が私の配下になっちゃってました」
「マジか……ふつうに武力で統一したのか。そりゃ、レベルも十万越えるわな」
少なくとも五千年以上、魔王はいろいろなものと戦い、統治し続けてきたということになる。
それだけの積み重ねがあれば、今のレベルは充分に納得できるものだった。
「武力だけではありませんよ。派閥が大きくなるにつれて種族同士の対立とか、派閥内部でのいざこざが目立ってきたんで……政治というか、管理せざるをえなくなってましたから」
「……大変だったんだな」
「法律とかも、一つ一つ決めていきましたからね……どういう法を作れば喧嘩が減るのか、とか試行錯誤の日々でした」
「それで、五千年、か……」
「ええ。統一国家としての体を為すまでに、それだけの時間がかかってしまいました……私が未熟だったせいですね。あの当時は、私なりには必死でしたけど……後から後から、もっとこうすれば良かったなぁって、思うことばかりです」
自嘲気味に笑って、魔王はルーレットを回した。
過去に起こったことを誰のせいでもなく、自分の未熟だというその姿は立派だが、ひどく寂しいように思えて。
「……そんなもん、人間だって同じだろ」
「え……?」
俺はいつの間にか、言葉を紡いでいた。
「どんな問題が起きるかなんて、それこそルーレットと同じでコントロールできないだろ。なのにお前は五千年以上も投げ出さずに立派に魔王をやってて、大したもんだと思うぞ」
他人のことをすべて把握して、問題が起きないようにするなんて、できるわけがない。
そんなことができるなら、魔族と人間の戦争だって起きなかったはずだ。
人が集まる以上、なにか問題は起きて当たり前で。例えそのすべてにもっと良い解決方法があったのだとしても、俺は彼女を褒めてやりたいと思った。
「……勇者、さん」
魔王はこちらの言葉に暫くの間、目を丸くしていた。
やがて、ふ、と表情から力を抜いて、
「……えへへ。なんか嬉しいですね。ありがとうございます」
「そ、そうか。ええと、だからな、あんまり自分を責めるなよ。お前はその、頑張ってるぞ」
ふにゃりと耳を垂らした笑顔で礼を言われて、急激に気恥ずかしくなってしまう。
思わず目を逸らしてしまった俺に、魔王は緩んだ笑顔を向ける。
「ふふ……それじゃあ、今日もご飯作って、労ってくれます?」
「……俺の飯で、簡単なので良ければな」
「勇者さんのが良いんですよ」
「……そうか、分かった。美味いかどうかは、保証できないけどな」
「えへへ……あ、因みにこの写真の当時から、家事は人任せですよ!」
「家事できない歴なげぇなぁ……」
自然と笑みをこぼして、俺は自分のコマの行き先を決めるために、ルーレットを回す。
こんな他愛の無い時間は、魔王の生きてきた時間の中ではほんの一瞬なのだろう。だからこそ、美味い飯くらいは作ってやりたいと思うのだった。
「……♪」
ついつい鼻歌を歌って踊り出してしまいそうな勢いで、私は廊下を歩く。
既に本日の業務は終了で、私はフリー。火急の用事があればメイドちゃんから連絡が来るようになっているので、なにも問題はない。
……お昼から勇者さんに会えますね!
魔族の女王としての業務は日々忙しく、最近は人界のこともあり、書類仕事や視察も増えてしまっていて、勇者さんの部屋には行けない日も多い。
夜にお邪魔するということも考えたけど、眠っていたらいけないし、邪魔になりすぎてもいけないと思う。
なので私は基本的に、お昼か、夕方にお仕事が終わったときにだけ勇者さんの部屋へ行くようにしている。
「……さてと」
歩き慣れたいつものルートを通り、彼の部屋の前へとたどり着く。
異空間から出した手鏡で自分の顔を見て、髪を軽くとかし、服を整えて、深呼吸。
「こほん……勇者さーん」
いつもと同じように扉を開ければ、そこは見慣れた景色。
私が彼に、できるだけ快適に暮らして貰えるようにと用意した居住スペース。
けれどいつもとは、違うことがひとつだけ。
「…………」
「……あ、また寝てる」
私が会いに来た相手は、お昼寝の真っ最中だった。
「もう、テーブルじゃ風邪引くって、前も言ったのに……しょうがないんだから」
すやすやと気持ちよさそうに寝息を立てる勇者さんの側へと近寄り、私は自らのマントを彼の身体にかけた。
勇者さんは少しだけ身じろぎをしたけれど、眠りからは覚醒することなく、前と同じように私のマントにくるまってくれる。
「……安心して、くれてるのかな」
そうだったら、嬉しいな。
そんなことを考えながら、私は彼の隣に椅子を持ってきて、腰掛けた。
勇者さんの寝顔は相変わらず可愛くて、ついつい無言で、じぃっと眺めてしまう。
「……今回マントに匂いがついたら、魔法で保存させてもらっちゃお」
「んん……むぅ……ぐぅ」
「……そういえば私、この間……勇者さんに撫でてもらったんですよね」
勇者さんの手紙がきちんと届けられなかった事件があったとき。
私はあまりにも申し訳がなくて、彼の前でワンワン泣いてしまって。
勇者さんはそんな私の背中を、ずぅっと撫でてくれていた。
大きくて、温かくて、硬くて、だけど、優しい。そんな手に撫でられていたら、少しずつ、心が落ち着いて――
「――はっ」
気がつくと私は、彼の指に自分の指を絡めていた。
「わっ、わたっ、わたしっ」
あまりにも無意識に彼の手を取ってしまい、私自身が驚いてしまう。
悲鳴を上げそうになる自分を、なんとか抑え込んで、私は彼の様子を見た。
「……すぴぃ」
「……起きません、よね?」
勇者さんは未だに、気持ちよさそうに寝息を立てている。
私は勇者さんが起きないように、そろそろと彼の手を撫でて、
「あ、おっきい手……あったかい……」
「ん……」
「っ!」
「……すかー」
「ほっ……もう、ビックリさせないでくださいよ……」
反射的に手を引っ込めてしまったけれど、彼が起きることはなかった。
規則正しい寝息をこぼして、幸せそうに眠る彼の姿を、私はじっと見る。
「……また、撫でてくれないかな、勇者さん」
ぽつりとこぼれた言葉は、誰に向けたものでもない、独り言だった。
当然答えが返ってくることもなく、勇者さんはすかすかと気持ちよさそうに夢の中をたゆたっている。
「うー、もやもやする……」
きゅう、と胸の奥が締め付けられるような、不思議な気持ち。
寝顔をずっと眺めていたいとも思うし、早く起きて私の方を見て欲しいとも思う。
こっそりと触れるのではなく、彼の方から私に触れてほしいとさえ、思ってしまう。そんなことは、我が儘だって分かっているのに。
「……勇者さんの、せいなんですからね」
「んぅ……?」
「っ……!?」
何気なく、言葉をかけた直後。
勇者さんはうっすらと目を開けた。
「おー……?」
「あ、ゆ、勇者さ……お、おはよう、ございます……?」
「おー……んー……」
勇者さんは私の顔を見て、何度か瞬きをした。
少しだけぼんやりとした時間を経て、彼はゆるやかにいつも通りの表情になる。
「わり。寝てたわ……来てたんだな、魔王」
「あ、い、いえ、その、お、お構いなく……」
どうやらさっきの私の言葉は聞かれていなかったようで、私は安堵した。
「前もそうだったが、来てくれたんなら起こしてくれても良いんだぞ。疲れて寝てたってわけでもないしな」
「あ、だ、大丈夫ですよ。今来たところですから!」
「そうか? くあぁ……とりあえず眠気覚ましに茶でも淹れるか。お前も飲むだろ?」
「お、お願いします……」
ん、と短く返事をして、勇者さんは立ち上がって台所へと向かう。
彼の言うお茶はもちろん人界のものではなく、魔界のものだけど、淹れるのにはもうすっかり慣れたようで、彼は直ぐにお茶の準備をして戻って来た。
「はい、あったかいので良かったか?」
「丁度良いです、ありがとうございます……」
出されたお茶に、私はゆっくりと口をつける。
温度のある液体は、私の気持ちを少しだけ落ち着けてくれた。
勇者さんの方はお茶を一口飲んだ後、瞼を何度か擦って、
「飯……には少し早いか?」
「あ、そ、そうですね。まだ早いと思います」
「んー……魔界チェスでもするか? 時間つぶしになるし、俺もまだ眠気が覚めてないしな」
「え、ええ、ぜひお願いします」
了承を返すと、勇者さんは部屋の隅から魔界チェスのボードを持ってくる。
手早くコマを並べて準備をする彼の手を、私はつい、じっと見つめてしまった。
「……どうした、魔王? 俺の手になんかついてるか?」
「あ、いえ、その、なんていうか……き、綺麗な手をしてるなって!」
「んー、まあしばらく剣なんて握ってないしなぁ……トレーニングは欠かしてないんだけどな」
「そうですね、触ったら、意外と硬かったですし……」
「ん? なんか言ったか?」
「なんでもありませんっ! ほら、早く始めましょ、私が先攻取っちゃいますよ!」
「お、おう」
口が滑ったのを慌てて誤魔化すと、勇者さんは微妙な顔をしつつも一手目を差した。
しばらくの間、無言の時間が続き、室内にはコマを動かすぱちりぱちりという小気味のいい音だけが響く。
対戦時間とコマの音は、私から雑念を少しずつ削って行き――
「――んぁぁ、負けました」
「おう、前半ちょっと頭が回ってなかったけど、どうにかなったな」
「ええ……ちょっと勇者さん強すぎませんか……? 私、いつもぼろ負けなんですけど……」
教え始めた時こそ私が勝っていた魔界チェスだけど、今では勇者さんにほとんど勝つことができない。
私は完全に『詰み』となった盤面を、やや理不尽な気持ちで眺めて、
「こんなに勝てないものですかね……なんかちょっとルールに問題がある気がしてきました」
「いや、チェスは魔界のも人界のも公平だぞ……実際の戦争と違って、ちゃんと一手ごとで交代するし」
「まあ確かに、盤の外で王様を暗殺されて敗北とか、毒を撒かれて全滅とかもないですけどー……」
「言っとくけど俺の負け方、それに似た感じだからな?」
確かに私が取った、『勇者さんを最前線に釘付けにして、私自らが王国の首都を強襲しちゃおう』という作戦は、チェス的にはないルールだ。
実際の戦争では一手ごとに交代して殴るなんてこともないし、勇者さんの言い分は正しい。ただちょっと、負けがこんできて悔しいだけで。
「むぅー……」
「まあ、こういうゲームはルールは公平だよ、基本的に。……公平じゃないのはプレイヤーの方だ」
「……どういうことですか?」
「当たり前だけど、俺とお前じゃ、見えてるものが違う。考えていることも、まあ、思考のクセみたいなものもな」
王手が済んだ盤面を元に戻しつつ、勇者さんは言葉を続ける。
「ルールをどれだけ把握してるのかも違うし……まあつまり、同じ剣を持っても同じように振れるとは限らないだろ? そういう差が出てくるから、勝ち負けが決まるわけだ」
「つまり私も、もっと魔界チェスの勉強したり、勇者さんのクセ読みをすれば……?」
「ま、勝率は良くなるだろうな。俺も負けるのは悔しいから、そう簡単にはいかせないが」
なるほど。つまり私にも、頑張れば勝ち目があるということか。
「まあ負けるのも嫌ではないんですが、たまには勝ちたいですよね」
「それなら練習でもしといてくれ……と言っても、俺と違ってお前は忙しいから、それほど時間は取れないんだろうけどな」
「……なんか、ちょっとやる気が欲しいです」
「やる気……?」
「ええ、なんと言うか、こう……やる気が出るような……その、勇者さんに勝ったらなにかご褒美が出るとかあると、ちょっとやる気でるかもしれません……」
「ご褒美……?」
「はっ……な、なに言ってるんでしょうね、私ったら……す、すみません」
自分でも口走っておいて、おかしなことだと思った。
勝手に悔しがっておいて勝手にご褒美をほしがるなんて、ちょっと我が儘過ぎではないだろうか。
……うう、勇者さん、呆れてないでしょうか。
ちらりと相手の方を見ると、勇者さんは少しだけ困惑したような顔をしている。やっぱり困らせてしまったようだ。
口を滑らせてしまった自分のことを呪いながら、どう取り下げたものかと思っていると、相手は困惑した表情をフラットに戻して、軽く頷いた。
「別にいいぞ、俺にできることなら」
「えっ」
「といっても、俺にできることなんて大したことないけどな。部屋からは出られないわけだし。それで良いなら、負けてお願いを聞くくらいは遊びの範疇として――」
「――良いんですか!?」
「お、おう。別にいいぞ。何度も言うが、今の俺にできることにしてくれよ」
「は、はい! それで良いです、むしろ勇者さんに聞いて欲しいので……!!」
「わ、分かった、分かったから、近い」
「はっ……す、すみません、つい」
承諾されたことがあまりにも意外で、つい、身を乗り出してしまっていた。
頭を下げて距離を取ると、勇者さんは不思議そうな顔をして、お茶のおかわりをカップに注ぎながら、
「ま、ご褒美があった方がやる気が出るって気持ちはわかるからな、頑張ってくれ」
「……はいっ」
自分でも思った以上に良い返事をして、私はおかわりをいただくのだった。
頼みたいことは、もう決まっていた。
……あの手で、もう一度。
ご褒美のことを想うと、まだ勝っても居ないのにウキウキしてしまっている自分がいて。
私はうるさく鳴っている胸の音を、お茶の温度でむりやり抑えつけるのだった。
「おはようございます、魔王様……魔王様?」
いつもの時刻。
身支度を調え、今日のスケジュールのチェックを終えた私は、魔王様の寝室へと足を運ぶ。
いつも通りにノックをしてお声かけすると、いつも通りの元気な声が返ってこなかった。
ノックしても返事がないときは入っても良いと言われているので、私は一呼吸置いてから、部屋のドアを開けた。
「……寝ていらっしゃる」
普段からは考えられない状況に、私は目を丸くする。
ベッドの上で、魔王様はすやすやと眠りについていた。
銀色の髪を枕に預け、シーツに巻かれて眠る姿はまるでお伽噺の妖精のようで。
「控え目に言って可愛すぎでは……?」
眠る魔王様、超可愛い。
この無防備な姿、永遠に残しておかなければ。いつか勇者様にお渡しするために。
私は持っている紙に、魔王様の姿を念写した。人界ではこれと似た技術が、半分魔法、半分機械の力でできるらしいが、私は魔力に長けた夜魔という種族なので、それくらいは朝飯前だ。
手のひらサイズで永久保存版になった魔王様の寝姿を、私は満足してポケットにしまってから、改めて首を傾げた。
「それにしても……珍しいですね」
覚えている限り、魔王様を起こしに行っても起きていなかったことは、今までに二十五回。私が魔王様に仕えてからの四千五百年間で、たった二十五回だ。
そしてそのどれもが、前日にひどく忙しかったときで、つまり魔王様がお疲れの証拠。
「二十六回目の寝坊……ですが昨日はむしろ、仕事自体は早く終わったはず……魔王様は、その後、勇者様のお部屋へ……はっ」
つまり、これはそういうことなのでは?
勇者様のお部屋で、なにかとっても疲れるようなことをしたのでは?
「……魔王様!」
「ふにぃ!? ひゃぇ、め、めいどちゃん!? な、なんです、て、てきしゅー!? あんさつ!?」
「式はいつにしますか!?」
「し、しき……え、なにかの、まほーこうげき……?」
「勇者様との挙式ですよ、決まっているでしょう!」
「勇者さんとの……きょ、しき……って、ええええぇ!? な、何の話をしているんですか!? え、なに、夢!?」
「……あら、良く見たらまだ清いまま。すみません魔王様、私の勘違いでした」
「勝手に慌てて勝手に納得された!? なんの話ですか!?」
「いえ、夜魔の能力で『確認』ができるのを忘れていた私の落ち度です。……喜んで損しました」
「え、えぇ……朝から従者がすごい理不尽なんですが……?」
「あ、そういえば魔王様、おはようございます」
「勝手に納得して勝手に怒られた挙げ句、勝手に話が終わりました……。お、おはようございます、メイドちゃん……寝坊してたみたいですね、すみません」
不服そうな顔をしつつも、魔王様は寝坊したことを謝罪して着替え始める。
お召し替えをお手伝いしながら、私は魔王様に言葉をかけた。
「珍しいですね、通算二十六回目の寝坊です」
「数えてるんですか、メイドちゃん……いえ、昨日はちょっと夜更かしが過ぎまして……ふあ……ん……あ、ありがとうございます、袖……」
「夜更かし……なにか心配事でしたら、片付けて参りますが」
「ああ、いえ、そういうんじゃなくて……ええと、魔界チェスの本を読んでまして……」
「ああ……最近勇者様にあまり勝てないと仰っていましたね。特訓ですか」
「はい。なんていうか……えっと、勝ったら勇者さんがご褒美くれるっていうので、がんばっちゃおっかなって――」
「――式ですか!?」
「どうして話を元に戻すんですか!?」
しまった、式の前に既成事実だったか。
話を聞く限り、おふたりの関係は健全でピュアピュア。
しかし魔王様は押しに弱いし、勇者様も恐らくそう。ちょっとやらしい雰囲気になってなし崩しでも関係を結んでしまえば、あとは自動的に挙式です。
「……すみません。ちょっと順序を焦りました。ではぜひ勇者様に勝って、そういう流れに持ち込みましょう」
「どういう流れですか!?」
「えっちな流れに持ち込みましょう!」
「えーえ、そう言われるってうすうす分かってましたのでハッキリ言いますね、ちーがーいーまーすー!!」
やだ、怒っている魔王様も魔界一可愛い。
とはいえ、魔王様的にはまだ勇者様とそういう関係になるのは時期尚早、ということか。
確かに私としても、魔王様にさっさと既成事実作って欲しいという気持ちはあるけれど、立場を気にせずに普通の恋愛を楽しんで欲しいという思いもある。
そして私はできる従者なので、魔王様の意思を尊重する。ステイステイ、乳母の役目はまだ先ですよ、私。
「分かりました。まずは勝ってキスのおねだりくらいから行きましょう」
「きっ……なななな、何言ってるんですか、そんなこと頼む予定はありません!」
「え、じゃあなにを頼むんですか……?」
「え、あ、う、うー……それは……えっと……」
魔王様は目をぐるぐると回して、なにか言い訳めいたことを考えているような仕草をした。
この部屋の外にひとたび出れば、強く、優しく、しかし冷たさも持ち合わせる立派な魔王様。しかしこの部屋に居る間の彼女は、五千年以上もの間、恋のひとつもしてこなかったただの女の子でもあることを、私は知っている。
「ご心配なさらなくても、秘密に致しますよ」
「うぅ……笑い、ません?」
「笑いませんよ、魔王様のお望みなのですから」
「……勇者さんに、その……あの、おっきな手で、ですね……な、なでなで、してほしいなぁって……」
「ぶっふぉ」
「笑わないっていったのに!? なんだったんですか数秒前のいい顔! メイドちゃんの嘘つき!!」
「すみません、微笑ましすぎて無理でした」
主人がピュアすぎてつらい。
「ですが、そういうことなら協力致しましょう。このメイド、大抵のことはできますので、もちろんこういった遊戯も得意です」
「……良いんですか?」
「はい。というか勝って貰わないと、私としても困りますので」
「……メイドちゃんが、困る?」
「ええ、魔王様の睡眠時間があまり削られると、心配になってしまいますから」
というのは、半分の理由だ。
残りの半分の理由はもちろん、少しでもふたりの距離を縮めるため。
「ありがとうございます、メイドちゃん……じゃあその、練習相手、宜しくお願いしますね」
「ええ、空き時間にお相手致します。それでは本日の予定ですが……」
元々優秀な方なので、集中して勉強をすれば直ぐにでも私よりも強い打ち手になるだろう。
こうして、魔王様を勝たせるべく、私は特訓にお付き合いすることになるのだった。