「あー、うっさ」
 隣から聞こえてきた低い声に、思わずびくっと肩が震えた。
 直後、がたん、と椅子が派手な音を立てる。
 隣の席の佐々原くんが、荒々しく立ち上がった音。その音に一瞬、辺りの会話がやむ。何事かという視線が集まる。

 私も驚いて手を止め、佐々原くんのほうを見た。
 不快そうに眉をひそめた佐々原くんが見ていたのは、後ろの席にいるふたりの女子だった。その席の主である片瀬さんと、彼女のもとへ遊びにきていた滝本さん。
 さっきまでそこでおしゃべりに花を咲かせていた彼女たちは、突然向けられた怒りにびっくりした様子で、ぽかんと佐々原くんのほうを見上げている。
 そんな彼女たちを思い切り不機嫌な顔で一瞥してから、佐々原くんは踵を返した。手にしていたスマホだけ持って、あとは振り返りもせずに教室を出ていく。

「……は? なにあれ」
 あとに残されたのは、あっけにとられる片瀬さんたちと、どこか戸惑った空気のクラスメイトたちで。
 少ししてから、片瀬さんがようやく我に返ったように口を開いた。
「感じわる」低く吐き捨てた彼女の頬が、じわじわと紅潮する。怒りと、たぶんいくらかの羞恥に。
「自分だって勉強もしないで、スマホいじってただけじゃん。なにえらそうに」
「ね、なんなの急に」
 それに合わせるように、滝本さんもやたら大きな声で相槌を打つ。そうして「むかつくー」と今度は佐々原くんの悪口を言いはじめたふたりがいつもの調子だったからか、教室内の空気もしだいにもとに戻っていくのを感じた。

 だけど私の心臓は波立ったまま、戻らなかった。
 ……え、なんだろう、今の。
 瞼の裏に、さっき見た佐々原くんの姿が浮かぶ。立ち上がる直前、一瞬だけ私のほうを見た、佐々原くんの目が。
 頭の裏で高い鼓動が鳴る。知らず知らず握りしめていた両手に、力がこもった。
 まさか、まさか今のって。
 ……私を、助けてくれた?

 五月のやわらかな風が、教室の白いカーテンを揺らしている。高校生活が始まって一ヶ月が経ち、だいたいクラス内でのグループも完成して、それぞれの立ち位置が定まってきた頃だった。

 黒板に大きく『自習』と書かれた、先生のいない数学の授業中。
 開始早々、待ってましたとばかりに滝本さんが片瀬さんのもとへやってきて、空いていた隣の席に座り、おしゃべりを始めたのが三十分ほど前。
 いくら自習とはいえ、仮にも授業中にそんな大胆なことができる人たちは限られている。クラス内のカースト上位に位置している、派手なグループの人たちだけ。
 その中でも美人で垢抜けていて性格も強めの片瀬さんたちは、最上位ともいえる位置にいた。授業中に堂々とおしゃべりしていようが、誰も咎めないぐらいの。
 それでも最初は、いくらか周りのクラスメイトたちに配慮したような、控えめな声量だった。
 それがだんだんとヒートアップしてきて、声量に気を遣う余裕もなくなったらしいのが、片瀬さんが他校の男子に言い寄られているという話を始めた頃。

「ほんと、毎日毎日、送ってくんなってのー」
 最初は何事もなく聞き流せていた彼女たちの会話が、いやにくっきりと耳に響きはじめたのも、その辺りからだった。
「返信すると全然会話終わらせてくんないし。返信しないと追撃くるし」
 片瀬さんのこぼす愚痴に、嫌になるほど、聞き覚えがあったから。
 ――ほんとうざい。ラインはお前の日記帳じゃないっつーの。もう最悪。
 シャーペンを握る指先から熱が引いて、うまく文字が書けなくなって。心臓がぎりぎりと締め上げられ、目の奥まで痛くなってきた。聞かないようにしようと努めても、斜め後ろの席で盛り上がるふたりの高い声は、否応なく耳を覆って。

 ついには片瀬さんが、
「もう、死ねばいいのに。あいつ」
 ぼそっと、そう漏らしたとき。
 耐えきれなくなって、私はぎゅっと両手を握りしめた。
 ああだめだ。もう無理だ。これ以上ここにいたら泣いてしまう。そう思って、逃げだそうとしたときだった。
 何気なくずらした視線の先、佐々原くんがこちらを見ているのに気づいた。
 一瞬、目が合う。え、と思ったけれど、なにも訊ねることはできなかった。次の瞬間には、佐々原くんが、「うるさい」と呟いて、私より先に立ち上がっていたから。

「あれじゃない? 身に覚えがあったとかじゃないの。ミカのさっきの話に」
「あー、ライン送りすぎっていう?」
「だって佐々原くんて、いっつもスマホ触ってるじゃん。あれ、誰かにラインでも送ってるんじゃないの」
「言われてみればー。ちょっと異常なぐらいいつもスマホいじってるよね、あの人」
 佐々原くんのいなくなった教室では、怒りが冷めないらしい片瀬さんと滝本さんが、今度は佐々原くんの悪口で盛り上がっている。
 佐々原くんのほうを『異常』と決めて、自分たちが言いがかりをつけられた理由を作りはじめたふたりに、もやもやとした不快感が喉元まで込み上げたけれど、

「――ねえ? 依田さん」
「えっ?」
 ふいに片瀬さんがこちらを向いて私の名前を呼んだとき、漏れたのはそんな間の抜けた声で。
「感じ悪いよね、佐々原くんてさ」
 問いかけではない。私が同調することなんてわかりきっている、低い声。
 ここで否定すればどうなるのかなんて知っている。佐々原くんへ向けられている矛先が、私のほうへ向くのだ。異常な彼を庇う、異常なクラスメイトとして。
 手のひらに汗がにじむ。片瀬さんの、長い睫毛にふち取られた大きな目が、まっすぐに私を見据える。その強い視線は、ひとつの答えしか許していない。

 ――本当は、うれしかった。佐々原くんが「うるさい」と言ってくれたこと。耳をふさぎたくなる彼女たちの言葉を、止めてくれたこと。
 だけど引きつった口元は、気づけば、曖昧な笑みを作っていた。息苦しい喉から、声が押し出される。
「……そう、だね」
 耳に届いた自分の声は、いつだって泣きたくなるほど情けなくて、みっともなかった。