彼女が逃げた、ホントの理由 年の差男女短編集


 赤いレンガを積み重ねて出来た、国境近くの街。商いに、荷運びなどの力仕事、働く大人が店の並ぶ通りを行ったり来たり。大人の間を、きゃらきゃら笑って子供達が走り抜けて行く。
 少女は一人、にぎやかなこの日常をぼんやりと眺めていた。通りに面する店の中で、カウンター横のイスに腰掛けて。
 年の頃は14歳程で、空色の大きな瞳と丸みのあるほほに幼さが残っている。長い栗色の髪を三つ編みにして、二本背中に垂らしていた。

 店の中には、焼けた小麦粉と甘いバターの香ばしい匂いが漂っている。少女はゆっくりと首を回すと、通りから店内へと視線を移した。ピーク時を過ぎて、棚に並ぶ品物は少なくなっていた。
 今いる客は一組だけ。年の離れた兄妹だ。兄の腰にしがみついた妹が、真剣な眼差しで黒いマフィンと赤いマフィンをじぃっとにらんでいる。兄の方は急かすこともなく、緩く笑みを浮かべながら妹のつむじを見守っている。
 栗色の少女は、その様子をじっと眺めていた。けれど、彼女に見えているのは二人ではなく、二人に重ねた在りし日の自分達だ。

 まだ、世の中のことが全く見えていなかったあの頃。「家族」という狭い世界のことすら、自分は正確に見えていなかったかも知れない。ただただ、大好きな彼の言葉を全て真実だと信じていた。彼は自分の望みを叶えてくれると、何一つ疑っていなかった。
 あの日の約束は必ず果たされるものなのだと、つい最近まで彼女は信じていた。

 ***

 とても仲の良い姉妹がいた。
 小さくてかわいい妹が大事で、姉はいつも妹の手を引いていた。優しくてかっこいい姉が大好きで、妹はいつも姉の後をついて回った。
 いつも妹を守っていた姉は、街のみんなを守ってくれる憲兵の一人と結婚した。いつも姉に菓子を焼いていた妹は、街一番のパンを焼く青年と結婚した。
 姉夫婦には息子が生まれた。顔立ちは母に似ていたが、父に似て寡黙な少年だった。彼が10歳の時、妹夫婦に娘が生まれた。

 少女、フェリシアは、かつて母がそうだったように、イトコのリチャードの後ろをヒヨコのように追いかけた。
 フェリシアが5歳、リチャードが15歳の頃、その光景はすっかり近所の日常となっていて、リチャードは同年代の少年達に「カルガモ兄」などと呼ばれていた。幼いイトコのことを好ましく思っていたからなのか、リチャードはそれを大して気にした様子もなく、そのまま呼ばせていた。

「おにいちゃんっおにいちゃんっ。」

 フェリシアが8歳になる少し前、家に伯母一家を招いた夜のことだった。夕食後、ダイニングで寛いでいたリチャードにフェリシアが抱きついた。
 ここまではいつも通りのことである。
 リチャードに手伝ってもらって、彼の膝によじ登ると、フェリシアは空色の瞳をきらきらと輝かせて宣言した。

「あのね、わたしね、おおきくなったら、おにいちゃんの およめさんになる!」

 片付けをしていた父の手から、重ねていた皿が滑り落ちた。床すれすれで伯父が受け止めたため、被害は出ずに済む。母と伯母は顔を見合わせてから、けらけらと笑い出した。

「そうね、リック君になら安心してフェルを任せられるわ。」
「良かったわね、リック。フェルちゃん、絶対に料理上手になるわよ。」

 硬直したままの父の手に皿を返しながら、伯父もふむっとうなずいた。

「リック。フェルちゃんを幸せにするんだぞ。」

 幼さ故、家族愛と恋愛感情をごっちゃにしているのだろう。いや、「好きの区別」すらまだないだろう。母二人は、幼子の拙いプロポーズが微笑ましくて、ただただ笑い続けた。
 なぜ笑われているのかが分からず、フェリシアは不思議そうに首をかしげた。そんなイトコを見つめて、リチャードはじっと黙り込んでいた。
 やがて、「そうだな……」とつぶやいた。フェリシアの顔をのぞき込んで、藍色の瞳を緩める。

「10年経っても、フェルが俺を好きだったら、結婚しよう。」
「やったぁっ!」

 空色の瞳が先程の比でないくらい輝く。まあるいほほが喜びで色づく。フェリシアはリチャードの首に抱きつくと、きゃっきゃっと跳ねた。大きな手が応えて、小さな背をぽんぽんとたたく。
 その様子を見て、伯母は急に笑いを引っ込めた。母に耳打ちする。

「い、良いの?」
「大丈夫よ。リック君もフェルに合わせてくれてるだけでしょ? ま、私はリック君なら、全然問題ないけどね。」

 ふふふっと母はうれしそうに笑う。父は皿を投げ出さん勢いで叫んだ。

「問題大ありに決まってんだろ! リックはもう、フェルのことフェルって呼ぶの禁止!」
「あらまあ、横暴ねー。」


「おにいちゃんっだいすきっ!」

 何かにつけてフェリシアがそう告げると、リチャードは優しい藍色の目を細めて微笑み、フェリシアの頭をなでてくれた。リチャードから愛をささやかれたことは一度もない。けれど、フェリシアの「大好き」をリチャードはいつも受け止めてくれた。
 だから、フェリシアはリチャードも自分を好いてくれていると、欠片も疑っていなかった。大人になったら、いつか母のように白いふわふわのドレスを着て、ミカンの花で髪を飾って、リチャードの隣に立つのだ。そう、ずっとずっと信じていた。

 ***

「フェリシア。」

 低く優しい声に、はっと我に返る。
 バターと小麦の香り。フェリシアは、カウンター横のイスに腰掛けて、ぼうっと自分の靴へ視線を落としていた。外を見ると日が傾き始めていた。あの兄妹を見送ってから、もう随分と時が経ってしまっている。
 戸口に、背の高い青年が一人立っていた。黒い髪を短く切りそろえた、20代半ばの青年である。憲兵の制服である紺色のジャケットをきっちりと着ていた。
 彼は心配をその藍色の瞳に乗せて、再度彼女の名を呼んだ。

「フェリシア?」
「あ。……いらっしゃい、お兄ちゃん。」

 フェリシアは慌てて立ち上がると、にこっと笑った。カウンター裏から紙袋を一つ取り出して、トングを持つ。彼、リチャードが気に入ってる、ナッツたっぷりのパンを入れる。それから、ツヤツヤのロールパンも。

「今日も、まだお仕事?」
「いや、夜勤は昨日で終わった。もう帰るところだ。」
「じゃあ、伯母さんと伯父さんの分もいるのかな。」
「ああ、頼む。」

 伯母が好きなふわふわ甘いパンと、伯父の好きなサクサク軽いパンも詰める。棚を行き来するフェリシアを、店の中程に立ってリチャードが眺めていた。
 フェリシアは袋を閉じると、それを渡そうと彼に近づいた。大きな手がさっと降りてきて、フェリシアの額を包む。

「……熱はないみたいだな。」
「……私、もう小さい子じゃないよ。」

 子供扱いされたようで、フェリシアはぷうっとほほを膨らませた。それを気にせず、リチャードはピタピタと桃色のほほに触れる。

「気分が悪くなったら、すぐ叔父さん達に言うんだ。疲れたら無理はするな。」
「さっきは考え事してただけだよ。大丈夫。」

 えいっと、フェリシアはリチャードの胸元に紙袋を押しつけた。リチャードはそれを片手で受け取り、コインをフェリシアの手に握らせる。

「あのね、今日のロールパン、私が焼いたんだ。」
「そうか。楽しみだ。」

 優しく目を細めて、彼は笑った。ぽふぽふとフェリシアの頭をなでて言ってしまう。フェリシアはなでられた頭を押さえたまま、じっと彼を見送った。
 フェリシアはリチャードが大好きだ。それは今も昔も変わらない。けれど、彼との未来を無邪気に信じることはもう出来なかった。

 ***

 巡回中や買い物中のリチャードが、彼と同じ年頃の女性と共にいる様子を小さい頃からよく見てきた。フェリシアが隣にいるのに、付いてこようとする女性もいた。
 彼女達は頑なにフェリシアを「妹ちゃん」と呼び、フェリシアは不機嫌に膨れてはリチャードを困らせた。それでも、まだフェリシアは自分がリチャードの恋人だと信じていた。
 不安に、ならなかった訳ではない。
 きらきらの金髪や、つやつやの黒髪を見ては、鏡の前、自分の栗色の髪と比べてしょぼくれた。鼻筋の通った美しい人を見ては、自分の丸い顔と低い鼻と比べて肩を落とした。豊満な体つきの女性を見ては、自分の凹凸の少ない体を見下ろして涙目になった。
 頭の中で彼女達に負ける度、自分はあまりリチャードに相応しくないように思えた。

 それでも、リチャードはいつもフェリシアを優先してくれた。フェリシアと一緒にいる時は、連れがいるからと彼女達の同行を断ってくれた。街中でフェリシアを見かければ、傍に誰がいても自分の下に駆け寄ってくれた。
 だから、だからだからだから、リチャードの恋人は自分のはずなのだ。

 ***

 それは一週間前のことだった。
 日が傾き始めたのを見て、フェリシアは持ち手のついた籠を一つ取り出した。やわらかい丸パンと新作の豆入りデニッシュを詰めて、店を出た。
 ふんふんと鼻歌混じりに通りを進む。商店街を抜けて、騒がしさが遠くなる。家路を急ぐ子供が数人、フェリシアの前を横切った。それに足を止めると、横から声がかかった。

「リックの妹って、貴方?」

 女性が一人、立っていた。年は、リチャードと同じくらいに見える。夕日を目映く弾く金髪に、フェリシアより濃い青い瞳で、肌は雪のように白かった。フェリシアはその整った相貌を見つめ、知らない人だな、と思った。
 リチャードを愛称で呼んだということは、彼の知り合いなのだろう。
 何となく視線を下げて眉を八の字にした。フェリシアの気分は沈んでいく。女性が余程の料理下手か、怠け者でもない限り、勝てる要素が一つもない。
 お客さん以外で、知らない人と話すのは苦手だ。でも、話しかけられたからには、無視出来ない。フェリシアはどうにか口を開き、弱々しい声を発した。

「……イトコです。」
「あら。じゃあ、やっぱり貴方でいいのね。」

 女性はうれしそうに笑うと、踊るような足取りで距離を詰めた。フリルで膨らんだスカートが揺れる。かがむようにフェリシアの顔をのぞき込んできた。

「貴方なら知ってるわよね? リックの婚約者がどこの誰か。」
「え?」

 ぱちり。フェリシアは空色の瞳を大きく見開いた。
 婚約者。結婚の約束をしている人。そんなのもちろん、

「私です。」
「はぁ?」

 眉間を中心に顔をゆがめて、ひっくり返った疑問符を吐き出す。美人にあるまじき表情と声だ。自分でもいけないと思ったのか、女性はごほんっとせき払いしてすまし顔を取り戻した。相手が落ち着いたのを見て、フェリシアは答えを繰り返す。

「私、お兄ちゃんと結婚の約束しました。」

 女性が唇を引き結ぶ。じっとフェリシアを見下ろす目が鋭い。やがて、はぁーっと大きく息を吐き出した。両目を片手で覆って、大げさな動作で空を仰ぐ。

「アホらしい。時間の無駄ね。」

 フェリシアはむっと眉を寄せた。ちゃんと答えたのに、なんと失礼な態度だろう。

「私、ちゃんとお兄ちゃんと……っ」
「アンタみたいなちんちくりんと婚約だなんて、そんなはずないでしょう?」

 女性がフェリシアの鼻先へビシッと指先を突きつけた。磨かれた爪がきらりと光る。

「いい? 婚約よ、婚約。大人の話をしてるの。ままごとになんて付き合ってらんないわ。」
「ままごと?」
「だってそうでしょう? 愛も恋も分からないようなお子様の空想に付き合ってあげるのは、ごっこ遊びと一緒よ。」
「ごっこ遊びなんかじゃ……」

 ない。と、そう訴えようとした。
 空想なんかじゃない。自分は本当にリチャードが好きだ。
 でも、あれ? そういえば、母はいつもリチャードになんて言っていたっけ?
 リチャードに飛びついてはしゃいでいる自分の後ろで、「フェルに付き合ってくれてありがとう。」と、そう言ってなかったっけ?
 あれは、この人が言ったのと同じ意味?

 女性が背を向ける。

「全くもう。どこにいるのよその女はっ。」

 もうフェリシアへの興味を失ったようで、低い声でブツブツつぶやきながら女性は行ってしまう。
 フェリシアはぎゅうっと籠を抱きしめた。

 ***

 夕日に照らされる坂をとぼとぼと下って行く。住宅街の端の端までやって来た。並ぶ家々の中で、少し小ぶりな家の前で立ち止まった。緩く握った右手を上げて、ちょっと迷ってから胸元へ引き寄せた。すぅーっと息を吸い、胸が空っぽになるほど吐く。今度こそ、扉をたたく。

「まあまあ、フェルちゃん。いつもありがとうねぇ。」

 ノックに応えて、扉が開く。開ききる前に、緩やかな年月でしわがれた優しい声がフェリシアを出迎えた。少々不用心だが、この時間の来客が自分だと決まっていることが何だかくすぐったい。
 もう、いつも通りの自分に戻れたと思ったのに。
 クルミの殻を思わせる白茶色の髪の老女は、フェリシアの顔を認めると、細いフレームの奥の目を丸くした。

「フェルちゃん? どうしたんだい?」

 戸口の外へと進み出る。声と同じ、時の中で硬くなった手が、フェリシアの手を包んだ。

「顔色が悪いよ?」
「えっと……。」

 思わず、フェリシアは唇を引き結んだ。首を横に振る。

「何でもないの。ちょっと、考え事があって。」
「考え事? 何か悩みがあるのかい? ばあちゃんで良かったら聞くよ?」

 最愛の夫との間に子供がいないからだろうか、彼女は街の子供達に親身だ。ちなみに、彼女にとっての「子供」とは、フェリシアの両親の代も含まれる。フェリシアは微笑んで、彼女へ籠を差し出した。

「ありがと、でも、大丈夫。」
「そうかい? ……そういえば、リック君、結婚するんだってね。フェルちゃん、寂しくなるねぇ。」

 彼女としては、明るい方向に話題を振ったつもりだったのだろう。イトコに懐いて回っていたフェリシアをからかって、元気づけたかったのかも知れない。けれど、フェリシアの笑みは凍り付いた。老女が差し出す、先日の籠を受け取ることも出来ない。

「……その話、どこで?」
「え? うちの人が聞いたのよ。屋台で、憲兵さんが話していたんですって。先輩は、口を開くと婚約者さんの話しかしないって。フェルちゃん?」

 より青くなったフェリシアの顔色に、老女は自分が話題選びを間違えたことを悟った。どうしたのかと寄ってきた夫に、パンの籠と空っぽの籠を押しつける。先程より強くフェリシアの手を握った。

「大丈夫。大丈夫よ。他に大切な人が出来たって、リック君にとってフェルちゃんが大切な子なことに変わりないんだから。」

 ね? と同意を求められた夫は、不思議そうな顔で取りあえずうなずいている。
 フェリシアは笑った。二人に心配をかけたくなくて。でも、二人とも変な顔をしているから、上手くいかなかったようだ。老女に至っては泣きそうになっている。
 的外れな慰めは、フェリシア以外の人間にとって、きっと真っ当なものだ。フェリシアだけが、間違っているのだ。

 フェリシアがリチャードに求婚したのは、もう6年以上も前のことだ。今頃人の口の端に上るなんて、今更過ぎる。うわさの元が、フェリシアであるなら。

 もし、7歳のあの時、リチャードにフラれていたら、自分はどうしただろう。ギャンギャン泣いて、床に転がって暴れたかも。
 だって、今も目の前がよく見えないのだ。拭っても拭っても、ぼろぼろ涙があふれてくるのだ。
 リチャードは、いつもフェリシアに優しい。フェリシアが泣いた時、真っ先に目元を拭ってくれるのは、母でも父でもなく、いつもリチャードだった。
 だから、そんなリチャードが、フェリシアが悲しむようなことを言えるはずがない。
 だから。だから、もうこれ以上、リチャードを困らせちゃいけないんだ。

 その日、フェリシアは自分の部屋でもう少しだけ泣いて、もう馬鹿な夢は見まいと心に誓った。

 ***

 あれからずっと、フェリシアはぼんやりしてしまう。
 思い出すのは、全てが自分の思い通りだと信じていた幼い頃と、その幻想にひびを入れた女性の言葉だ。ずっとぐるぐる、フェリシアの頭の中を巡り続けている。昼も夜もなく、フェリシアはそれらをじっと見つめていた。
 父母や客が話しかければ、はたと現実に引き戻されたが、一人きりになるとまたすぐ気分が沈んで、思考から抜け出せなくなる。
 両親に心配をかけていることは分かっていたし、自分でもしっかりしなくてはいけないと思った。しかし、ぬかるみにはまった足は泥に吸い付いて重くて、持ち上がらなかった。

 ***

 ある日の昼過ぎ、フェリシアは二階の自室で窓際のイスに座っていた。友人から借りた小説でも読もうと思ったが、乗り気になれなくて、膝の上に広げたまま1ページも進んでいない。

 窓の下の通りを、フェリシアとそう年の変わらない少女達が、きゃいきゃいと声をあげて過ぎて行く。おそらく定期市に行くのだろう。4ヶ月に一度、遠くの街の商人達が、街の中心部にある大きな広場で店を開くのだ。今日は、その日だ。
 他所の街のものはもちろん、異国のものも並ぶので、男性も女性も、大人も子供も毎回楽しみにしている。フェリシアもその一人だった。
 両親に連れて行ってもらうこともあったが、リチャードと一緒に行くことの方が圧倒的に多かった。冬の市は彼の誕生日が近いから、一人でプレゼントを買いに行くこともあった。

 今行ったら、そんな思い出に押し潰されて泣いてしまいそうだ。
 カーテンを閉めると、本を抱きしめるように膝を立てる。閉じた本の固い表紙に額を押しつけて、目をつぶった。

「フェリシア。」

 低く優しい声に、空色の瞳がぱちっと開く。フェリシアは恐る恐る顔を上げて、閉じられたままの戸を見つめた。その先で、とんとんとん、と軽い音が鳴る。

「フェリシア、いないのか?」
「お兄ちゃん……?」

 思わず彼女がそう口にすると、ほっとしたように扉の向こうの気配が和らいだ。

「入るぞ。」
「……うん。」

 フェリシアは足を床に下ろすと、まくれたスカートをささっと手で戻した。また沈んでいたことを気取られぬよう、本の適当なページを開く。しかし、

「こんな暗い部屋で読んでいたのか? 目が悪くなる。」
「あ。」

 扉を開けたリチャードが不思議そうな顔をする。今日は仕事ではないのか、紺のジャケットは着ておらず、シャツとズボンのラフな格好をしている。
 彼の言葉に、フェリシアは閉めてしまったカーテンに気がついた。気をつけるんだぞ、と付け足してから、リチャードは薄く笑みを浮かべた。

「天気も良いし、定期市に行かないか?」

 カーテンを開けるか開けまいか、悩みながらその端を握りしめていたフェリシアは、えっと軽く口を開けたまま動きを止めた。
 今回も、一緒に行って良いのだろうか。自分が、一緒に。
 いつもなら元気良くうなずくイトコが、口を閉ざしたままだからだろう、リチャードが僅かに眉を寄せた。

「もしかして、他に約束があるのか?」
「ち、違うよっ。」

 フェリシアは慌てて首を横に振った。結わえた髪が左右に揺れる。

「そうか。なら行こう。」

 大きな手が、フェリシアの手からさっと本を引き抜いた。机の上に置いて、改めてフェリシアの手をつかむ。ぐいと引いて、部屋から連れ出した。

 ***

 いくつもの露店が並んで道を作る。広場はまるで一つの街のように、迷路のようになっている。人も店すらも広場からあふれている。
 息苦しくなる程の人混みの中、はぐれないようにと、リチャードの手はフェリシアの手を捕まえたままだ。

 カラフルな織物で出来た露店の屋根。鈴生りに飾られたアクセサリー。宝石のような飴細工。カーテンのように店を囲う華やかな衣服。ごちそう。お菓子。知らない果物。読めない題字の本。怪物を模した奇妙な置物。鮮やかな色彩の小鳥。
 定期市の広場は、いつもとは違う世界だ。まるで夢の世界が広がっているようで、外の世界が詰まっているようで、小さい頃から来る度にわくわくした。どきどきした。いつもいつもリチャードの手を引っぱって、あれは何、これが欲しい、きゃいきゃい騒いで連れ回した。
 けれど、今のフェリシアはただリチャードについて歩くだけで、世界は視界からも意識からも流れていく。

 すれ違った女性が、リチャードに声をかけた。ただの挨拶だけれど。
 いつもなら焼き餅を焼いて、ぷくりぷくりとほほが膨れる所だが、今日のフェリシアの心はしおしおと萎んでいった。このまま、手まで細く萎んで、するりとリチャードの手から抜けてしまえば良いのに。そんなことまで考える。反対に、不安は悲しい言葉でぱんぱんに膨らんでいた。
 リチャードが足を止めた。ぶつかりそうになって、フェリシアも止まる。顔を上げると、振り返った藍色がじっと自分を見下ろしていた。

「疲れたか?」
「ううん。平気。」

 立ち止まったのはリチャードの方なのに、急にどうしたのだろう。こちらからも、じっと彼を見上げていると、リチャードがそっと眉を下げた。

「気晴らしになるかと思ったんだが、余計顔色が悪くなったみたいだ。ごめんな。体調が良くないなら、こんな人の多い所に連れて来るべきじゃなかった。」

 フェリシアの手が強張る。
 そうだ。ここ最近、リチャードは自分の体調を気にかけてくれていた。このお出掛けも、その一つだったんだ。
 心配をかけてしまったことが、心苦しかった。リチャードは悪くないのに、謝らせてしまったことが申し訳なくて、フェリシアはうつむく。握られた手に視線が落ちる。
 もういっそ、ここで終わらせてしまおうか。この手を放してしまおうか。

「あのね……」
「あれっ? 何してんすか先輩。」

 意を決して口を開いたフェリシアの声を、知らない男性の声が遮った。
 駆け寄ってきたのは、茶髪の青年だ。リチャードより一つ二つ年下なのか、明るい笑顔と弾んだ口調がどこか幼い。後ろからもさらに青年が二人やって来た。彼らが着ている紺のジャケットは、いつもリチャードが着ているものと同じだ。後から来た片方が、フェリシアに向けてひらひらと手を振る。よくパン屋にも来てくれる、リチャードの友人だ。
 フェリシアは、イトコの陰に隠れながら小さく頭を下げた。

「お前、何で私服なの? さっきまでパトロールしてたよな?」

 一般人に紛れてしまうリチャードの格好に、青年達が首をかしげる。リチャードがうなずいた。

「ああ。今日の午後は休みを取った。」
「そうなんだ。俺は明日休みー。」
「えー。いいなぁ。」

 フェリシアごとリチャードを囲んで、青年達がわいわい話し始める。最初に声をかけた一人が、リチャードにしがみついて隠れていたフェリシアに目を留めた。

「先輩、妹さんっすか?」

 かわいいっすね、と笑った彼の言葉に、フェリシアはビクリと肩を跳ねさせた。シャツを摘む指先に力がこもる。
 やっぱり。自分は妹分でしかないのだ。妹にしか見えないのだ。
 彼に、相応しくないのだ。

「いや、」

 緩くリチャードが首を横に振る。腕をフェリシアの背に回して、肩を抱いた。

「婚約者だ。」

 きっぱりと、彼は確かにそう言った。にじんでいた涙が引っ込む。
 最初の青年が目を丸くしてフェリシアを見下ろす。もう一人の青年の目がぱっとこちらに向く。その後ろで、リチャードの友人が口を一文字に引き結んでいる。
 妙に間が開いた後、突如青年二人が声をあげた。

「じゃあ、この子がフェリシアちゃんっ!?」
「えぇっ? 先輩、年下っつっても、限度があるっしょっ?」
「叔母さんに許可はもらっている。」

 ぎゃいぎゃい騒ぎ声が大きくなる。リチャードは少し眉を寄せて、フェリシアの頭をぽふぽふなでた。
 急に活性化した青年らと、そのきっかけとなった彼の言葉を上手く処理出来ない。フェリシアはきょとんとほうけたまま、頭に与えられる軽い衝撃を受け止めていた。
 リチャードの友人が、耐えかねたようにぶふぅっと息を吹いた。

「二人とも驚きすぎっ。俺、かなり年下だっつったじゃん。」
「いやぁ、聞いたっすけど……。」

 フェリシアは、まだ笑っている青年を見上げた。口元を押さえて、肩を揺らしている。

「あの……?」

 ようやく声が出せたが、フェリシアは続ける言葉が思いつけなかった。青年が目尻にたまった涙を指で拭う。

「フェルちゃん、フェルちゃん。良いこと教えてあげようか。リックはさ、毎日毎日俺らに君の話をするんだよ。」

 愛されてるね。相変わらず。


 パトロールの途中だからと、青年達は去って行った。騒ぐだけ騒いで、はいさようならとあっさりいなくなるなんて、まるで嵐のようだ。解放された二人は、彼らが消えた人の壁を眺めたまま、しばらく立ち尽くしていた。
 とんとんっと、フェリシアの肩がたたかれる。

「フェリシア、そろそろ行こう。この先に、いつもの菓子がある。」
「あ、うん。」

 リチャードの大きな手が差し出される。フェリシアがその手を取ると、確かに握り返された。すいっと手を引かれる。

「あ、あのね、お兄ちゃん。」
「うん?」
「あの、あのね……。」

 勇気を出そうと思った。けれど怖くて、フェリシアの視線は足下の敷きレンガへと落ちる。ぎゅうっと握る手に力を込めた。

「私、お兄ちゃんのお嫁さんになって、良いの……?」

 ぴたり。再びリチャードの足が止まる。

「……俺のこと、嫌いになったのか?」
「好きだよっ!」

 ほほがかっと熱くなって、考えるより先に言葉が飛び出した。

「私、お兄ちゃんのこと大好きだよ! でも、でもね、お兄ちゃんは……、私、お兄ちゃんが私のこと、どう思ってるのか……知らないよ……。」

 話しているうちに段々気分が沈んできて、声も弱々しく消えていった。
 リチャードが不思議そうに首をかしげる。

「好きだから、結婚するんだろう?」

 あっさりとした彼の言葉に、フェリシアの中でぐるぐる回っていたものがぷしゅりと抜けた。
 風船に穴が開いたように、膨らんでいた不安が、悲しみが、みるみる萎んでいく。フェリシアはほっとして、そのあまり泣きそうになった。それを耐えた変な顔で笑う。
 リチャードはフェリシアの頭をなでて、苦笑をこぼした。

「ただ、叔父さんは二十歳になるまでダメだって。だから、10年経ったらって約束は守れないかも知れない。ごめんな。」
「う、ううんっ! それは、お兄ちゃんのせいじゃないよ!」

 フェリシアはブンブンと勢いよく首を横に振った。
 良かった。
 ただただ、その言葉だけがフェリシアの頭を埋め尽くしていた。
 良かった。この人を諦めないでいられる。
 良かった。これからもこの人の隣にいられる。
 リチャードの胸に額を押しつけて抱きつく。甘えるようにぐりぐりと擦り付けた。

 大好きな人は、ちゃんと自分を選んでくれていた。


 END

「兄様ぁっ! 助けてっ!」

 冬期休暇に帰ってきた、妹の第一声がそれだった。
 十も離れたこの妹ももう16歳。次の夏には学園を卒業する。入学当初から、10歳を過ぎればレディの自覚を持てと説かれ、貴族の娘、もしくは妻として相応しい行儀と知識を身につけたはずの妹。
 その妹は、馬車を門前で飛び降り、侍女達を振り切り、コートも脱がずに玄関ホールを突っ切って、領主代理の執務室に駆け込んできた。扉が弾けるように強い音を立てる。
 アスールは、無作法をとがめようと口を開いたが、声になる前に妹が執務机に突進してきた。バンッとたたきつけられる両手から、とっさに書類を逃がす。

「兄様お願い! プリームを雇ってあげて!」
「は?」

 一体何のことか分からず、アスールはぽかんとほうけた。ふっと視界に赤を捕らえ、そちらに目をやる。妹の背の向こうに、見慣れた赤毛の少女が立っていた。16歳にしては小さな体をさらに縮めるようにして、胸の前で組んだ両手をぎゅっと固く握っている。紅茶色の大きな瞳が、不安そうに揺れていた。
 彼女はプリームといって、妹の学友だ。夏期休暇を毎年この家で過ごしている。しかし、年始を挟む冬期休暇にやって来たのは、これが初めてだった。今年は連れて来る、などとは聞いていない。先日届いた妹からの手紙も、いつも通りのものだったはずだ。
 兄の驚きをまるっと無視して、妹は続けた。

「このままじゃ、プリーム結婚させられちゃうの!!」
「……は?」

 妹よ、頼むから分かるように話してくれ。

 ***

 アスールの父は、いくつもの農村を任されている領主だ。
 四人兄弟の長男として生まれたアスールは、父の仕事を継ぐことを早くに決め、王都の学園を卒業してすぐ家に戻った。それから、父の補佐をしながら領主の仕事を本格的に学び始めた。
 上の弟はまだ学生、下の弟は入れ替わりに入学したので、屋敷に兄弟はアスールと末の妹だけになった。
 その頃、アスールは年に二回の長期休暇が待ち遠しかった。弟達が帰ってくれば、妹のお転婆の被害を分散出来るからだ。

 妹のネクロは、熱しやすく冷めやすい気質だった。
 作曲家になる! と言い出して、朝から晩までピアノを弾き続け、自室の床を譜面で埋めたかと思うと、一、二ヶ月後には発明家になる! と言って、ボコボコと謎の液体が暴れているフラスコを片手に、兄を追いかけ回したりする。
 一番性に合っているのは絵描きのようで、年に四回は筆と絵の具を持ち出してくる。安眠妨害にもならないし、誰かのほほが青緑に変色する心配もないので、このままずっと絵を描いていてくれたら、とその度に兄達は願う。しかし、その願いが叶ったためしはない。

 10歳になったネクロが、兄達に倣って学園に入学すると、その気まぐれに供が出来た。学友の一人を日中ずっと連れ回し、三男の下に突撃する時も一緒だという。
 初めての冬期休暇の間、ネクロはずっと絵を描いていた。困った気まぐれさえ起こさなければ、かわいい末っ子である。領主修行の合間に、アスールはアトリエと化している部屋に顔を出した。

 まあるいほほ。胸の前で組まれた小さな手。
 目が描き込まれた。クリクリとした、丸くて大きな目。お茶の時間に母が手ずから入れてくれる、甘い香りの紅茶に色がよく似ている。
 パレットで絵の具を少しずつ混ぜていく。出来た赤は、夏に花壇で咲いている花と同じ色だった。その色で描き込まれた髪は、肩に掛かり風を含んだように広がっている。
 小さな唇が、ゆるく口角を上げている。じっと優しい眼差しをこちらに注いでいる。
 ほほに桃色を差すと、妹はその少女を友人だと紹介してくれた。三男がよく似ていると褒めた。

 初めての夏期休暇に、ネクロはその友人、プリームを連れて帰ってきた。妹の話から想像していたよりずっと、彼女は小さかった。父に似て大柄なアスールに驚いたのか、あいさつの後、彼女はずっとネクロの後ろに隠れていた。
 幼い頃は、プレゼントとごちそうにあふれる年末年始を何よりも楽しみにしていたのに、友人が出来たネクロは、冬より夏の方がはしゃぐようになった。埋もれてしまうほどの花をプリームに抱えさせ、屋敷中に生けて回ったり、プリームにも網を渡し、虫を追って庭を走り回ったりした。

 ***

 ある年は、ネクロが屋敷の中を走り回っていた。客間のカーテンをはぎ取っては部屋に運び、次男がもらったプレゼントからリボンを強奪しては部屋に運んだ。小鳥かリスでも乗り移ったのかと言ったのは、母だったか父だったか。

 アスールが休息のために自室へ向かっていると、丁度通りがかったところで、ネクロの部屋の扉がバンッと勢いよく開いた。飛び出してきたネクロは、兄に目もくれず廊下を駆け抜けた。本当に巣でも作っているのかと、アスールは中をのぞいてみた。
 部屋の中には、妹が集めただろう布やら花やら飾りやらが規則なく散らばっていた。いつもの気まぐれと大差ないようだ。窓際にイスが一つ寄せられていて、そこにちょこんと赤毛の少女が座っていた。
 プリームの姿は妙だった。体にカーテンがグルグルと巻き付けられていて、やわらかい髪に白いリボンが絡んでいた。窓の外を眺めていたプリームは、アスールに気がつくとぴんっと背筋を伸ばした。前髪に引っかけていた黄色い花が、ぽとりと膝の上に落ちる。

「アスールさん……。」
「……今回は何だ。」

 遠くから見ても、近くに寄ってもよく分からない。プリームがカーテン地を両手でぎゅっと握る。小首をかしげた。

「ドレスのデザイナーになるそうです。私は、マネキン役でしょうか。」
「ドレス……。」

 このカーテンを切ったり縫い付けたりするつもりなのか。それはちょっと困る。
 思わず眉間にしわが寄る。ちらっとそれを見上げて、プリームがつぶやいた。

「すみません……。」
「いや、こちらこそすまない。君も、いつもいつもあれに付き合うのはつらいだろう。私達はあれを甘やかし過ぎてしまったな。」

 ふるふると小さな頭が揺れて、赤い髪がふわふわと広がった。

「追いかけるのは、大変だけど、つらいと思ったことはありません。私は、自分がどこにいたいのか、どっちに行きたいのか、すぐ分からなくなっちゃうから。ネクロちゃんが手を引いてくれると、安心します。」

 膝の上、ゆるく握った自身の手へ視線を落として、プリームがほほ笑む。
 優しい眼差しに、キャンバスの中の彼女を思い出した。夢中で絵筆を踊らせるネクロの横顔と、出来あがった絵を見せびらかす得意気な笑顔も。

 書き散らかした譜面は、どこに行ってしまったのだろう。ちり紙回収に持たせてしまったのだろうか。謎の緑の液体は、流しに捨てようとしているのを料理番が必死に止めていた。
 屋敷中を花まみれにした後、二階の角の一瓶が一番の力作だと、絵に残していた。花が枯れると、同じ場所に勝手に額を掛けた。
 捕まえた虫の中で、水面のようにきらりきらりと光を弾くチョウを気に入って、標本にした。今は領主の執務室に飾られている。
 妹のネクロは熱しやすく、冷めやすい。
 何か標的を見つけては、ただただひた走り、ある日突然立ち止まる。拾ったものを全部足下に投げ出して、次の標的を見つけるまで考え込んでいる。
 たが今は、成果を鼻高々で家族の下に持ち帰って来る。そして、上がったままのテンションで次へ駆けて行くのだ。以前よりさらに騒々しくなった。

 アスールの唇からふっと笑みがもれる。

「ネクロはずっと楽しそうだ。あれも、君が手をつないでくれるから、安心してどこまでも走っていけるんだろう。」

 赤毛が揺れて、そろりと顔が上げられる。紅茶色の瞳が、ぱちぱちと瞬く。カップを回したようにその色が揺れた。
 言葉に出来ない気持ちを胸に納めるように、プリームはぎゅっと両手を重ねた。丸いほほに、じんわりと赤が広がる。ふくっと持ち上がる。上がる口角とは反対に、眉尻がへにゃりと下がった。
 今年も庭に咲いたあの花は、何というのだったろう。いつか母が口にしたはずなのに、アスールは思い出せない。ただふわふわと風に揺れる情景が胸にひらめいた。

「プリーム!」

 妹の声が背後で弾けた。プリームの目が扉へ向く。アスールもぎこちなく振り返った。
 ネクロは白い布を腕に抱えていた。端の金刺繍に見覚えがある。食堂のテーブルクロスだ。ぱっちりしたつり目が、不思議そうにアスールを見上げた。

「兄様? どうしたの?」
「いや……。」

 かぶりを振ったのは、否定のためではなく、幻を振り払うためだった。すれ違いに、黒い頭をぽんぽんとたたく。

「夕食までには区切りをつけなさい。あの格好のままじゃ、食事が出来ないだろう。」
「はぁーい。」

 ネクロがぱたぱたとプリームに駆け寄る。クロスをぽいと机に放り、プリームへ両手を差し出す。彼女を立ち上がらせるとカーテンを解きにかかった。片付けに入ったのではなく、次を試すためだ。アスールは廊下へ出ると扉を閉めた。
 執務室に戻ると、父が目を見開いた。

「休憩はもう良いのか?」

 ……忘れていた。

 ***

 ある年は、ネクロもプリームもずっと部屋の中に引きこもっていた。せっかくの良い天気なのだから庭で遊べば良いのにと、様子を見に行くと、二人は一つの机を挟んで向かい合わせに座っていた。
 ネクロがせっせっと羽ペンを走らせている。プリームが思案するように視線を斜めに上げて、ぽつりぽつりと何やらつぶやいていた。それを書き取っているようだ。

「それでね、家族想いの頑張り屋なんだよ。責任感が強くってね、みんなの幸せのために、出来ることからこつこつ頑張ってるの。」
「なるほど!」

 がばりとネクロが顔を上げる。書き上がったものを見て、ふふんっと鼻を鳴らした。

「この人ってさ、体格以外はほぼ私じゃない!?」

 プリームがぱちぱちと目を瞬かせた。しばらく置いてからうなずいた。

「そうかも。ネクロちゃんと似てるね。」
「でしょー! ふっふっふっ、私ってばプリームの理想のヒーローだったのねっ!」

 きゃーきゃーとうれしそうに声を上げて、ネクロがバンバンと机をたたく。ふっと濃紺の目がこちらを捕らえた。ぱっと顔を輝かせる。

「兄様!」
「! アスールさん。」

 プリームはぴょっと跳ね上がると顔を伏せた。驚かせるつもりのなかった小動物に、逃げられてしまったような切なさがある。
 アスールはため息で感傷を逃がした。

「今度は何をしているんだ?」
「ふっふっふーっ。戯曲だよ戯曲! 私、舞台作家になるの!」
「はあ。」

 そういえば、今年の春に母が王都に出掛けたのだった。二人を連れて観劇へ行ったとか。その影響か。

「キャラクターはね、プリームに考えてもらってるんだー。」
「そうか。出来あがったら母上に見せるといい。きっとお喜びになる。」
「本当!? よーし、頑張ろうね、プリーム!」
「……うん。」

 プリームがこくりとうなずく。なぜかほほがうっすらと赤くなっていた。

 つたない言葉がちりばめられた冒険活劇は、朗読という形でお茶の席で公演された。ネクロはヒーロー役を譲らず、プリームが恥ずかしがって辞退したので、ヒロインは三男が務めた。

 ***

 冬のある日、父が病に倒れた。アスールが補佐について、9年目のことだった。幸い一命は取り留めたものの、本復は難しいという。
 アスールは25歳、結婚もしておらず、領主になるには少し早い。しばらくは領主代理として領地を守り、しかるべき時が来たら正式に家督を継ぐということで、話がまとまった。
 ネクロは例年より一週間も早く帰ってきた。涙目で突撃してきた末娘に、大げさだと父は苦笑したが、やはりうれしそうだった。

 年が明けてネクロは学園に帰り、少し前とは違う日常が重なり始める。父の助言はある。母と三男の協力もある。それでも、忙しさと気疲れに目を回しているうちに、春はあっという間に過ぎて行った。
 庭に赤い花が咲くと、母の話は二人の少女のことばかりになった。侍女達は言われずとも、妹の部屋に二人分の寝具を準備した。父は手紙を読むと、今は焼き物に興味があるそうだ、と苦笑した。

 帰ってきてすぐ、ネクロは玄関ホールでカバンを開け放った。プリームに手伝ってもらいながら、衣服の中から頭ほどの大きな瓶を発掘した。日の光を煮詰めたような、黄金色のアメ玉が瓶いっぱいに詰まっている。ネクロはえへんと反り返って、それを父に渡した。
 これは蜂蜜のアメで、滋養がどうだ、疲労回復がどうだ、とおそらく品書きに書いてあったのだろうことをつらつらと並べた。

「プリームが見つけたの。それで、二人で一番大きいの買ったのよ。いっぱいあった方がみんなも食べられるし、みんなも元気になるでしょう?」

 ねー? とネクロが顔を合わせると、プリームもへにゃりと笑ってうなずいた。
 父も笑って、ネクロの黒い頭をわしわしとかきなぜた。それから、その大きな手をスライドさせて、隣の赤い頭も遠慮なくなぜた。
 きょとんと、紅茶色が瞬く。自分もボサボサなのに、跳ねた赤毛をネクロがからかってまた笑った。

 ***

 妹同然に思っていると言えば、彼女は驚くだろうか。
 たとえ共に過ごすのが夏の間だけだったとしても、6年近くも見守ってきたことには違いない。そんな彼女の危機とあれば、アスールだけでなく、父も母も手を貸すことにやぶさかでないだろう。
 だがしかし。

「お願い兄様! プリームを雇ってあげて! 今すぐ雇用契約書書いて! どうせ、プリームの家はうちに逆らえっこないもの、決まってしまえばこっちのものよ!」

 ネクロの言葉は要求と願望ばかりで、何が起きているのかさっぱり分からない。雇えと言われているが、プリームは就職が決まっていたはずだ。その話はどこに行ったのだ。
 全力疾走中の妹は、声をかけても止まるものではないので、アスールはじっと待った。入り口に立ったまま動かないプリームを、指先で呼ぶ。
 彼女は恐る恐る部屋に入ってきて、ネクロの隣に並んだ。執務室に入るのは初めてなので、ミナモチョウとは数年ぶりの再会だが、そんなことに気がつく余裕はなさそうだ。

「もうね、ひどいでしょ! あんまりでしょ!」

 最終的には文句ばかり詰め込まれていた叫びがようやく途切れる。ネクロは息が切れていた。プリームが心配そうに顔をうかがっている。アスールは、はぁ、と息をついた。

「何やら緊急事態であることは分かった。だが結果も原因もさっぱり分からん。順序立てて話してもらえないか。」
「……っ!」

 ネクロが大きく息を吸ってむせた。まだ興奮状態にあるようなので正直助かった。プリームがネクロの背をさする。さすりながら、顔はアスールに向けた。眉が八の字に寄っている。

「その、ネクロちゃんに甘えてしまってすみません。ちゃんと自分で話します。アスールさんは、父の跡継ぎが従弟のサーレスであることは御存じでしょうか?」
「ああ。」

 最近は実力主義で長女や次男に継がせる家も多いが、プリームの家は違った。彼女の家で受け継がれるものは名字の他は屋敷とわずかな財産だけだが、それら全ては一人娘のプリームではなく、2歳下の従弟が継ぐことになっている。年の近い子女がいればどこの家にも自然と耳に入る情報だ。

「ですので、私は卒業後は就職して家を出るつもりだったんです。」
「ああ。」

 アスールはうなずいた。父や母に話しているのを聞いたことがある。教師の口利きで、街の学園に司書として雇ってもらえそうだと、そう報告していたのは今年の夏のことだった。

「それで、先生のおかげで無事決まるはずだったんですが、両親が断ってしまったんです。すぐ結婚するのだから必要ない、と。」
「ひどくない!? ひどいよね!?」

 ネクロが割って入る。ガルルルっとうなるその背をプリームがさする。今度はなだめるためだ。自分自身の心も落ち着けようとしているようだった。

「それは、もう相手が決まっているのか? 婚約話が進んでいると?」
「……はい。」

 相手が嫌なのか、描いていた道を断たれたからか、プリームの表情は暗い。

「就職出来なければ家に残るしかありません。そうなれば、両親や祖父母の望む方へ進むしかなくなります。私は……」

 唇がきゅっと結ばれる。白くなるほど握りしめられた手が震えていた。その手を、横からネクロがすくう。両手で包むように握った。強張っていた細い肩から力が抜けた。指先が緩む。

「私は、そんなの嫌です。私が選んだ先に、私の望む結果がなくたって構いません。我がまま言ってるっていうのも、ちゃんと分かってます。でも、結婚するのだけは嫌なんです。」

 紅茶色がゆらゆら揺れる。隣でうんうんとネクロがうなずいている。プリームは片手の甲でぐしぐしと目元を拭った。

「お願いします、アスールさん。私にどうかお仕事を。」
「ねぇ、良いでしょう? 兄様。プリーム、うちにいて良いよね?」

 赤茶と濃紺。二対の瞳がすがりついてくる。
 アスールの眉間にぐぐっとしわが寄る。
 彼女の家の決定に逆らうということはつまり、彼女の今後を背負うということだ。長期休暇に預かるのとは訳が違う。
 アスールは額を押さえて長く息を吐いた。

「分かった。ただ、私はまだ領主ではない。事後報告で納得させるなら、署名は私より父の方が効果があるだろう。私から頼んでおく。」

 ネクロがぱぁっと顔を輝かせる。ぐるりと机を回って飛びついてきた。

「ありがとうっ兄様!」

 赤い頭が深く下げられる。

「ありがとうございます。ありがとうございます。」
「良かったぁ、良かったねプリーム!」

 ネクロは兄から離れると、旋回して今度はプリームに飛びついた。ぎゅうぎゅうと抱きしめられながら、プリームは両手でぎゅうっとネクロの腕にしがみついた。

 ***

 アスールの父が手紙を送ると、すぐに返信が来た。
 へりくだった文で、娘同士が懇意にしていること、今年は冬も世話になっていること、そして今後も娘を任せることなどの礼がつづられていた。
 執務室に呼んで、アスールがこのことを告げると、プリームは何度も頭を下げた。それから、父にも礼を言うために領主夫妻の部屋に向かった。母は手紙を見て狂喜していたので、今頃もみくちゃにされているだろう。
 プリームについてきたネクロと、別件で呼んでいた三男が部屋に残る。ネクロが読みたがったので手紙を渡してやると、横から三男ものぞき込んだ。ネクロが顔をしかめる。

「もぉーっと渋るかと思ったのにぃ、逆に喜んでる?」
「つーか、この文。もしかしてプリームちゃんが俺の嫁さんになると思ってる?」

 三男が眉を寄せてうなった。ネクロがぱちりと目を瞬かせて三男を見上げた。

「え? それってヴァイス兄様的にどうなの?」
「んー。プリームちゃんなぁ。かわいいとは思ってるけど、女の子として見たことはねぇなぁ。」
「だよねぇ。びっくりしたー。」

 ネクロがぺいっと手紙を机に放る。アスールがとがめたが、返されたのは気のない謝罪だった。ネクロはほほを染めて何やら興奮している。

「でも、うちにお嫁に来たら、プリームと姉妹になるのかぁ。それは良いかも!」
「えー。既にうちの子じゃね? もう良くね?」

 ネクロがキラキラと目を輝かせる横で、三男が肩を落とす。

「そういえば、プリームのお部屋はどうしようか。私の隣が良いなぁ。」
「お前の隣は俺なんですが。」
「一個横ずれてよ。」
「そこロート兄の部屋。」

 きゃいきゃいと部屋の内装に話を移すネクロは、誰よりもはしゃいでいる。これからも、彼女の手を引いてどこまでも暴走していくつもりだろう。

――私は、自分がどこにいたいのか、どっちに行きたいのか、すぐ分からなくなっちゃうから。

 大きな瞳が伏せられる様も、静かな声も未だ鮮明だ。
 ここが彼女の居場所になれば良い。夏と言わず、冬と言わず、ずっと。
 アスールのまぶたの裏で、赤い花が揺れた。

 ***

 客間の一つが、プリームの部屋になった。冬の間にネクロが勝手に模様替えを行った。卒業の式の後、プリームはネクロと母が直接連れて帰ってきた。数日後、彼女の家から小さな荷物が届いた。中身は数冊の本と、去年ネクロが作ったいびつな花瓶だった。
 プリームの仕事は秘書見習いだ。書類を作成、整理し、必要に応じてアスールや三男に渡してくれる。
 忙しい時期には、三男の報告書作りを手伝ったり、先輩秘書の使いで走り回ったりする。手が空く時期には、ネクロの相手をしたり、出掛ける母の供についたりした。
 プリームが屋敷の一員になって、もうすぐ一年経つ。

 執務室には応接用のローテーブルの他に机が二つある。一つは代々の領主が使っているどっしりとした古い机。もう一つは、ちょっとした書類の確認や直しにアスールや秘書が使っていた小さな机。
 父の代から働いてくれている中年の秘書は、扉でつながった隣の仕事部屋にいることが多い。そのため、アスールが領主を継いでから、小さな机はすっかり書類置き場になっていた。今は、プリームが使っている。
 アスールには少し窮屈だったイスにちょこんと腰掛けて、プリームは各農村からの作付け報告をまとめていた。
 ペンが止まり、ペン立てに戻された。大きな目が紙面に落ちて、つらつらと文字を追う。数字や地名を念入りに確認しているのか、時折、ちらちらと原本との間を行き来した。顎を引くようにして一番下まで目を通す。ぱちりと瞬いて、彼女はふっと息をついた。肩からも力が抜けるのが分かる。

「プリーム。」

 アスールが声をかけると、びくっと体が跳ねて、ぷわっとやわらかな赤毛が広がった。振り返る紅茶色の瞳が、まん丸に見開かれている。思わず、アスールの眉がくっと寄った。

「それが終わったなら、ネクロの所に顔を出してやってくれ。」
「でも……。」
「そのペースなら、明日には終わるのだろう? 根を詰め過ぎると、思わぬところでミスをするぞ。休んできなさい。」

 紅茶色が揺れる。ためらうように視線が机を滑る。やがて顔を上げると、眉尻をへにゃりと下げてほほ笑んだ。

「分かりました。お先に失礼しますね。」
「うむ。」

 プリームは書類をしまうと、筆記具は整頓するだけでイスから立ち上がった。秘書部屋の扉を開けて中へ声をかける。こくりとうなずくと、机の端に積んであった書類の束を相手に渡した。とことこと廊下へ向かい、扉の前でアスールへ向き直る。

「若旦那様も、無理をなさらないでくださいね。」
「ああ。」

 ぺこりと頭を下げて、プリームは出て行った。
 ぱたりと扉が閉じて数秒、アスールは深く息を吐き出す。机の上に肘をつくと、その手に額を押しつけた。

 緊張した人間が傍にいることが、こんなにも疲れることだとは、知らなかった。刺激したら飛び上がって逃げて行ってしまうのではないかと思うと、一挙手一投足にも気を遣う。
 淑女に使うにはあまりに失礼な表現だとは思うが、プリームはちっともアスールに馴れない。声をかければ跳ね上がり、目が合えば身を固くする。ネクロと遊んでいるのを見守っていた時とは違い、日中ずっと一緒にいるようになると少々堪えてくる。
 嫌われている、ということはないと思う。プリームは時々、笑顔を見せてくれる。しかし、この巨体かしかめ面か、何らかの原因で自分のことが苦手ではあるようだ。
 プリームが元々デスクワークの仕事を希望していたから、自分の補佐についてもらったが、失敗だったのかもしれない。いっそネクロの友添いとして雇うか。今でもネクロや母が茶会に呼ばれる時に供をしている。今更だ。

 アスールのため息がさらに深くなる。
 保護したつもりでいたが、果たして我が家は彼女にとって良い環境なのだろうか。

 ***

 夕食に向かう途中で、ネクロと廊下で鉢合わせた。庭で何をしていたのか、黒い髪に木の葉が絡んでいる。アスールはそれを手ぐしで払ってやりながら、妹が入ってきたガラス戸の向こうを見た。庭の奥は廊下からの明かりが届かず、紺色に沈んでいる。

「プリームは母様に捕まっちゃったのよ。」

 ネクロが悔しそうに唇をとがらせた。母に着せ替え人形にされるのを嫌って、植え込みにでも隠れていたのだろう。
 アスールは、妹の子供っぽさを叱ることもからかうことも出来なかった。ネクロの言葉に、ドキリと手が止まる。庭に視線を投げたのは、正確に言えば、妹の背後に少女を探したのは無意識でのことだった。自分すら分からない行動の意味を見透かした妹に、動揺して思考が鈍る。
 反射的に飛び出しそうになった否定の言葉を、慌てて飲み込む。ごまかすようにもう一度妹の頭をなでた。

「そうか。」

 味気ない返事を、ネクロが気にする様子はない。ただじっと、濃紺の瞳で兄のそろいの瞳を見つめている。その視線から逃れるように、アスールは体の向きを進行方向に戻した。ツカツカと大股で歩き出すが、ネクロが小走りに追いついてきて、隣に並ぶ。

「兄様さー、最近、眉間のしわがすごいよね。」

 体をかしぐようにして顔をのぞき込んでくる。立てた人差し指で、つるんとした己の額をちょんちょんと突いた。

「プリームも心配してたよ。」
「……もしかして、これのせいなのか。」
「? 何が?」
「いや。」

 ネクロが最近と言うのなら、ここ数ヶ月のことなのだろう。その間にプリームの態度が変わった実感はない。しかし、自分がしかめっ面なのは今に始まったことではないし、やはり原因なのだろうか。

「あの、兄様、今まさにさらに深くなってますけど。」

 ……既に悪循環にはまっている気がする。

「兄様? 大丈夫? 具合悪い? おなか痛い?」
「……大丈夫だ。」
「そんなうめくような声で言われましても。」

 ネクロの顔が曇る。アスールは気持ちを立て直そうと、胸にたまっていた息を吐き出した。鉛のように重くて、ゴトリと足下に転がり落ちたような感覚がする。

「……プリームは、私を怖がっているだろう。」

 口に出すには勇気が要った。それでも向き合わなくてはいけないし、相談する相手は彼女と親しいネクロが適任だ。
 ネクロが足を止めたのだろう、視界の端にふっと消える。アスールも立ち止まって妹を振り返った。
 青い目が、見開かれている。ぽかんと唇が開いていた。この妹には珍しい表情だ。ネクロはどちらかというと人を驚かせたり困惑させたりする方が得意である。
 ざわっという木々の揺れる音で、ネクロははっと我に返った。

「え!? 何それ、どこ情報!?」
「どこって、私から見たままだが。」
「何で? どの辺が?」

 ひどく動揺しているネクロに、アスールも戸惑う。てっきり、ネクロは把握しているものだと思っていた。

「……私が声をかけると飛び跳ねる。」
「ああ。私が抱きつく時もよくビクーってなるよ。」

 妹の抱きつきは体当たりと同義だ。背後からタックルをかまされれば誰だって驚くだろう。

「私といると、緊張するようだ。」
「それって仕事中でしょ。ヴァイス兄様みたいにだるーんってしてるより、良いと思うけど。」
「それはそうだが……。」
「要するにさ、」

 ネクロがずいっと指先を突きつけた。つり目で下からアスールをにらむ。

「プリームの反応が気になって気になって、兄様の方が緊張しちゃってるってことでしょう?」
「ぐ……。」

 どうしてこうも、気がついて欲しくないことは見透かされているのだろう。10歳上の兄としては、何だか情けない気持ちになる。
 ネクロがわざとらしくため息をついた。

「確かに、プリームは緊張しいだよ。ダンスの授業とか、前でやれって言われた途端にガチガチのロボットみたいな動きになるし。ぼんやりさんだから、横から声かけただけでスゴクびっくりするし。でもね、あの子はリスでもネコでもないの。びっくりしたからって、すぐ逃げてっちゃったりしないの。びっくりさせといて大丈夫なの。」
「驚かせて良い訳はないだろう。」
「気にしまくってギクシャクするより断然マシ!」

 ギクシャク、はしていないはずだ。

「眉間のしわをー、プリームも気にしてますー。」

 続く言で反論を封じられる。つまるところ、アスールに変化があれば、それはプリームにも伝わるということだ。妹曰く緊張しいの少女が、上司の眉間にしわが増えていくのを平然と見守っていられるだろうか。

「私は……何も気にするなということか?」
「そうよ。緊張しっぱなしじゃ、兄様だって疲れちゃうでしょう?」
「むぅ……。」

 とにかく、眉間のしわを解消するところから始めるべきか。
 アスールは歩き出しながら、ぐっぐっと親指で自身の眉間を押してみた。横に並ぶネクロがまだこちらをのぞき込んでいる。

「何だ。」
「兄様、良いこと教えてあげようか。」
「……何だ。」

 ふふんっとネクロが笑う。

「昔ね、プリームに褒められたの。」

 くるりと身を翻してアスールの前に回り込む。向かい合ったまま、器用に後ろ歩きを始めた。妹に合わせて、アスールの歩行速度も下がる。

「ネクロちゃんが怖いもの知らずなのは、頼りになるお兄さんがいるからだねって。」

 ネクロの笑みは得意気だ。プリームの肖像を見せびらかしていた時のように。
 アスールはため息をついた。

「怖いもの知らずって……褒め言葉か?」

 ネクロがほほを膨らませた。

「ちがーう! 私はいつも褒められてるから良いの。そうじゃなくて兄様、ちゃんと聞いてた? 頼りになるお兄さんって、兄様のことよ。」
「私?」
「そーよ! 忘れちゃったの? あの日、私もプリームも、兄様を頼って帰ってきたのよ。それで、まあ、いろいろ整えてくれたのは父様だけど、兄様は助けてくれたでしょ。」

 と、ネクロの目がゆらりと潤んだ。その青がこぼれるのを耐えるように、ぐっと眉が寄る。

「私が最初、うちに行こうって言った時、プリームはうなずいてくれなかった。でもね、兄様がいるって、兄様が絶対助けてくれるって言ったら、ようやく手を取ってくれたの。」

 ネクロがぷるぷるっと首を横に振った。何かを振り落としたように、濃紺の瞳はいつもの強さを取り戻している。

「兄様は、私の自慢の兄様よ。かっこよくて頼りになるの。それはプリームにとっても絶対同じ。だから、もっと自信持ってくれなきゃ。」

――ここが彼女の居場所になれば良い。夏と言わず、冬と言わず、ずっと。

 プリームを屋敷に迎える時に降りた祈りがよみがえる。
 5度訪れた夏の中、彼女と交わした言葉は多くない。妹に向けられる笑みだとか、その手元をのぞき込む瞳だとか、走り回ってぱたぱた揺れる赤毛だとか、いつも横顔ばかり見ていた。たまに正面に立つ時、ほとんどは間に妹がいて、彼女はうつむいていた。
 それでも、彼女をここに導いたのが、自分の存在だというのなら。地に着きそうだった彼女の膝を支えたのが、自分だというのなら。

「……そうか。分かった。」

 アスールの口から、またため息がこぼれた。それは、何かを吐き出すためのものではなかった。詰めていた呼吸が楽になる。すとんっと胸の内に何かが落ちた。そのままどこかのくぼみに収まったような、そんな心地。
 ネクロがふふっと笑みをこぼす。

「兄様、元気になった? ね、良いこと教えたでしょ?」
「ああ。すまなかったな、情けないところを見せた。忘れろ。」
「えー? それはどうしよっかな。」
「おい。」

 くるくるっとステップを踏んで、ネクロが背を向ける。

「みんなには内緒にしてあげる。」

 そのまま踊るように駆けて行き、食堂に入った。あと少しの距離を、アスールも早足で詰める。妹を振り切ろうとしていた時よりずっと、足が軽くなっていた。

 ***

 街で働いている次男が帰ってくると、兄弟が執務室にそろう。まず次男が兄に帰郷のあいさつをし、次に三男が土産の催促にやって来て、最後に末っ子が秘書見習いに休憩を促しに来るためだ。
 今日も、街の様子を話す次男の向こうで、応接セットのソファに陣取った三男が、もりもりと飴がけのナッツをほお張り、分けてもらったそれを、向かいのソファでネクロとプリームがさらに分けている。
 街で流行った風邪の話が一区切りし、次男がネクロを振り返った。

「ネクロ、この間借りた戯曲なんだけど、あれって続きあったよな?」
「あるよー。読む?」
「というか、全部持って行っても良いか? 友達が気に入ったみたいなんだ。」
「何と! 芸術の分かる人ね!」

 ぱぁっと顔を輝かせたネクロが、菓子の鉢をプリームに押しつけて部屋を飛び出した。一度遠ざかった足音が戻ってきて、扉が閉まった。また駆けて行く。

「こないだ言ってた花屋の子?」
「ううん。お菓子屋の子。」
「ああ。どうりで。」

 三男が飴がけの袋、それに貼られているシールに視線を落とす。いつも次男が買ってきてくれる菓子は、ウサギのシルエットが描かれたシールが貼られている。しかし、今回はハトが麦の穂をくわえているマークだ。店が違う。

「お前はいつまでフラフラしているつもりだ……。」
「いやぁ、兄さんより先に身を固めると、ほら、叔父様がうるさいし?」

 次男はニコニコと笑みを貼り付けている。何を言われても聞き流すつもりのその態度に、アスールはため息をついた。叔父の言うことだってまともに聞いていないだろうに、言い訳には使うのだから、悪い甥っ子だ。
 アスールがイスに背を預けると、たかたかと軽い足音が廊下を迫ってきた。立ち上がってプリームが扉を開ける。ぴょんっとネクロが飛び込んできた。両手で紙の束を抱いている。

「はい、ロート兄様。シリーズ全部持ってきたよ。」
「ありがとう。お前は仕事が速いね。」

 受け取って、次男が三男の隣に腰掛ける。少女二人は向かいのソファに戻った。三男がテーブルに載った菓子鉢にざらっと飴がけを足してやる。
 弟妹はここでくつろぐ気満々だが、兄にはまだ仕事が残っている。アスールが羽ペンを持つと、プリームがちらっと顔を上げた。机に戻ろうとする彼女を手で制す。困ったように眉を八の字にして、ネクロの隣に座り直した。
 パラパラと紙をめくりながら、次男が口を開く。

「ネクロの書くヒーローって、何かいつも似たような感じだよな。」

 他の作家ならギクリとしそうな発言に、ネクロがひるむ様子はない。むしろ、ふふんっと誇らしげに笑った。

「仕方ないでしょ。何せプリームの理想のヒーローは、この私なんだから!」

 ねー? と横からプリームに抱きつく。受け止めながらプリームはへにゃりと笑みを浮かべた。

「あれ、そうなのか?」

 次男がページを戻して、まじまじと文字を見つめる。

「へぇ、てっきり兄さんがモデルかと思ってた。」
「あー。前に書いてたやつの、ブラオだっけ、あいつもろ兄貴だったよな。」

 ポリポリと菓子を砕く合間に三男がうなずく。ネクロが唇をとがらせた。

「えー? そうかなぁ。ねー、プリーム……、」

 軽く身を離して、ネクロは友人の顔を見た。名を呼んだ形で唇が固まり、濃紺の目がぱちりと瞬く。
 書類に視線を落としていたアスールは、長年培った長男の習性で”兄さん”という語に顔を上げた。弟へ向けようとした視線は、まず四人を捕らえてから赤毛の少女に吸い付いた。だから、全部見てしまった。その瞬間、次男は手元を、三男と末っ子は次男の方を見ていたから、ただ一人だけ。

 紅茶色の大きな瞳が、驚きにまあるく見開くのを。小さな唇が、言葉を失って戦慄くのを。まるで染料を吸い上げるように、白い首筋からほほの丸みを伝って赤が登っていくのを。
 震えた唇は、向かい合った友人に何を答えようとしたのか。発せられなかったそれは誰にも分からなかった。おそらく本人にも。

 硬直した少女の緊張が伝わって、彼女を見つめたまま兄弟は動けずにいた。
 古いカラクリ人形のようなぎこちない動きで、プリームがアスールを振り返った。目が合う。紅茶色が、今にもこぼれそうにゆらゆら波打っている。ほほが熱せられたように真っ赤になっている。
 唇が引き結ばれて、きゅうっと眉根が寄った。
 プリームは突如立ち上がった。ネクロの手を振り払い、顔を両手で覆って部屋を飛び出した。

「プリームっ? プリームっ!?」

 慌ててネクロが追いかける。開け放たれた扉から、ドタバタと騒がしい足音が二人分遠ざかって行く。

「えー……。マジで……?」

 ぼう然とつぶやいたのは三男坊だ。飴がけをかむ音が止まっている。ふいっと風が動いて、誰かが机越しに自分の前に立った。

「兄さん、大丈夫?」

 次男の声が降ってきた。アスールは応えない。
 片手で顔を覆ってうつむいたまま、動けない。
 顔が上げられない。
 誰にも顔を見せられない。特に弟妹には。今、自分がどんな顔をしているのか皆目見当もつかないが、自分史上最も情けない様をさらしているのは確かだ。

 赤がまぶたの裏から離れない。
 走り去るのに合わせて翻った、やわらかな髪が。その素直さに従って上気する、ふっくらしたほほが。水面のように透き通った、あの瞳が。

 手のひらに熱がこもって、頭まで蒸されそうだ。


 END

 直径3センチ弱のガラス玉。薄曇りの空を固めたみたいな灰色だ。少女の指につままれたそれを、少年がじっと見つめる。
 窓から差す陽光にかざすと、光を集めて水色に透き通った。
 部屋を満たす淡い青に誘われて、少年は布団をはね除けるように身を乗り出す。

「わぁ、きれいっ。きれいだな、アイねえっ。」

 はしゃぐ少年に姉は苦笑をこぼす。小さな手にそっとガラス玉を握らせた。

「くれるのっ?」

 ぱぁっと顔を輝かせた少年は、顔を上げて、はっと我に返った。握った手を姉へ突き出す。

「……いらない。」
「どうしてですか?」
「だって、アイねえ、かなしそう。」

 きゅっと唇を引き結んで、姉は首を横に振った。

「これは、貴方のものなんですよ。貴方の宝物なんです。だから、絶対、なくしちゃダメですよ。」

 ***

 なめらかなタイルが敷き詰められたホールに、ゆるく弧を描くように楽団が並んでいる。彼らが奏でる曲とじゃれるように、人々はくるくると回る。
 今日はある大商人の末娘の誕生日だ。商家が開くパーティであれば、取引先や同業者が多く招かれるのが普通だが、六人の孫を溺愛する大旦那様は、孫達の交友関係を中心に客を呼ぶことを許していた。10代後半の少年少女が、跳ねるようなステップでフリルやジャケットを翻している。

 一団の一角に一組の男女がいた。少年は15歳ほど、女性は20代に上がったばかり。赤みがかった茶髪と、目尻のつり上がった顔立ちがよく似ていることから、姉弟だと直ぐに知れる。
 少年がつないでいる方の手をすいっとすくい上げると、二人は組んでいた腕を解いた。姉は片足を軽く後ろへ滑らせて、つないだままの手をくぐるように回転してみせる。一回、二回、夕日を映した雲のような淡いオレンジのドレスが、風を含んで柔らかく広がる。
 姉弟は向かい直って再び腕を組む。姉がふふっと笑う。少年、アルバが首をかしげる。

「何? 楽しそうだな、アイ姉。」
「ええ。アルバ君と踊るの久しぶりですから。」
「久しぶりって、アイ姉の婚約パーティからそんなに経ってないはずだけど。」

 不思議そうにするアルバへまた、アイビィは笑みをこぼす。
 つなぐ手をくっと肩より後ろに引く。アルバが左足も引くのに合わせて、アイビィは右足を踏む込む。ぴたりと張り付けたように二人は足を運ぶ。両面に色を付けた板を翻して遊ぶように、オレンジのドレスとクリームのジャケットがくるくる回る。
 アイビィの踊りは習った以上の振り付けはない型通りのものだ。洗練されているというわけでもない。学園を卒業したものなら誰でも出来る、目立たない踊り。それでも、いつもふんわりと笑みを浮かべ、ターンする度に上手くいったことを喜ぶように笑みを深くする様は、社交としては悪くない。

「ずーっとアルバ君に相手をしてもらっていましたから。間が空くと何だか懐かしくなります。」
「そういうものかな。」

 アルバは苦笑する。アイビィがつま先を軸にくるりと回る。

「アイビィ。」

 男の声が、やわらかく姉を呼んだ。声の方、栗色の髪をなでつけた青年を見つけて姉がほほ笑む。そのほほがうっすらと赤くなるのをアルバは見た。
 曲の変わり目でアルバは手を解いた。ぱっと横に出たアイビィの白い手を青年が取る。アイビィはアルバへ振り返って笑みを見せてから、くるくると遠ざかっていった。
 見送るアルバの胸へ、ぴょんっと少女が飛び込んできた。赤みがかった髪をアップに結い上げた少女は、姉や弟とそろいのつり目をニヤニヤと細める。

「何々? お姉ちゃん取られてさびしーの?」
「うるさいぞクレ姉。」

 髪を乱そうと伸びてきた右手を、アルバはがしりと捕まえた。そのままぐんっと乱暴に引いたが、下の姉、クレエは意に介さず、跳ねるようなステップでついてくる。

「あたしもアルバも、お兄ちゃんやお姉ちゃんが傍にいるのが当たり前だったもんねー。二人に大事な人が出来ちゃうと、欠けちゃったみたいでさびしーよね。」
「……俺は別に。」
「またまたぁ。」

 クレエがけたけたと笑う。アルバは顔をしかめた。
 おっとりした長女と、一人でもかしましい次女、この差はどこでついたのだろう。

「クレエちゃーん!」

 三人で輪になっている少女達に呼ばれて、クレエはぐいと弟を引っ張った。しかし、アルバは手を解いてしまう。

「アルバ、行かないの?」

 小さい頃ならいざ知らず、思春期の弟に姉の友人と4対1に挑めというのかこの姉は。

「俺は良いよ。」
「えー?」

 クレエは不満そうにほほを膨らませたが、もう一度呼ばれると諦めて三人の下へ駆けていった。アルバはため息をつくと、人の間を縫ってフロアの端へと出た。

「……アルバー……」

 音楽に紛れて自分の名を聞いた気がして、アルバは顔を上げた。シャンデリアのきらめきにちょっと目を細める。二階の吹き抜けからこちらを見下ろす、少年二人を見つける。大きく手を振る彼らに振り返して、アルバは階段へ向かった。

 歓談スペースになっている二階に上がると、友人達は手すりに背を預けたまま出迎えてくれた。一人がチキンを盛った皿を抱えていたので、一つ失敬する。

「あ! こら!」

 取り返そうと伸びてきた手を避けて、アルバそれにかぶりついた。

「ああ。スパイスの効いた甘辛さがが染み渡る。」
「勝手に取るな!」

 これ以上取られまいと少年は腕で皿をかばう。アルバは気にせずムシャムシャとかじる。もう一人はクスクスと笑いながら、果汁の注がれたグラスを傾けた。

「相変わらず、アルバはお姉さん達としか踊らないね。」
「そんなことねぇよ。」
「いやいや、上から見てたけど、完全にそうだっただろ。」
「アイビィさんが婚約して、ようやく姉離れ出来たかと思ったのにねー。」
「うるせーな。」

 アルバは唇をゆがめた。

 兄姉が学園を卒業した頃、家の商売はさらに上向いた。途端に、長女のアイビィに言い寄る男が増えた。そいつらをアルバが必死で蹴散らしていたことを、騒ぎが収まってからも友人達はからかってくる。
 自分は弟として当然のことをしたとアルバは思っている。姉は眉を八の字にして困っていたし、父だって釣り書きをはね除けていた。それに、アルバが小さい頃、アイビィは金目当ての男につきまとわれて泣いていたことがあるのだ。もう二度と、そんな男はアイビィにもクレエにも近づけてはならない。

「つーか、ジョーこそ婚約者とはもう踊ったのかよ?」

 話の向きを曲げると、チキンを抱えた少年がぎくりと身を固くした。もぐもぐと一口そしゃくして、ごくんと飲み込む。

「……まだ。」
「何やってんだよ。まさか壁の華させてるんじゃないだろうな。」
「女子で踊ってるからそれは平気。」
「この間足踏んじゃったの、まだ気にしてるんだよねー。」
「だぁぁぁっ! うるせーっ!」

 ジョーがかっと耳まで赤くなる。骨を握ったままの手を振り回した。

「アルバもケビンも今すぐ見合いしろ! 俺と同じ苦しみを味わえ!」

 暴れる骨から距離を取ってケビンが苦笑した。

「うちは今、妹で忙しいからねぇ。」

 貧富に関係なく、男性はある程度仕事の基盤が出来てから結婚を考えるのに対し、学園に通う女性の大半は卒業の前後に婚約する。そして、男女問わず家柄、資産、器量の総合ポイントが高ければ高いほど縁談は膨れていく。
 ケビンの家のように、そこそこもうかっている商家に美人の娘が生まれれば、親は早いうちから求婚者をさばくのに追われるため、自然と男兄弟はほったらかしにされる。
 アルバは指で挟んだ骨をぷらぷらと振った。どこに捨てれば良いのだろう。

「うちは自由恋愛主義だしなぁ。」

 結婚当時は店すら持っていなかった両親はもちろん、現在婚約者がいる兄も姉も見合い未経験者だ。

「おのれー!」

 ジョーの顔が赤みを増す。ケビンがなだめにかかる。アルバはため息をついた。

「そうビビることないだろ。今日は誕生日パーティなんだ、楽しんで踊れればそれだけで満点なんだよ。」
「へぇ。良いこと言うね。」
「アイ姉の受け売りだけどな。」

 感心するケビンに応えて、アルバは手すりから身を乗り出した。件の婚約者を探す。
 他の女子とならすまし顔で踊るくせに、ジョーがこんなにも及び腰になるのは婚約者のことを憎からず思っているからだ。見合いをしたいとは思わないけれど、そんな相手に出会えたことは少しだけうらやましい。
 最高学年に上がったとはいえ、まだ学生であるジョーに婚約者がいるのは貴族の一人息子だからだ。
 対して、アルバは市場から出発した花瓶屋の一代目の、第四子。健康で商才もある兄のおかげで予備としての価値もない。己で探らなくては明日の居場所もない身だ。
 アルバのような立場の者に、わざわざ大事な娘を託そうと思う親がいるはずがない。

 ***

 そのはずなのに。
 アルバは逃がしていた視線をちらっと上げた。ぱちり、水面をすくい上げたような澄んだ水色と目が合う。向かいの女性がにこりとほほ笑んだ。知らずほほが熱くなる。

 豊かな黒髪が首の横でゆるりと一つにまとめられて、肩から胸へこぼれている。シャツは首が詰められていて、銀ボタンが二つ留められていた。露出も装飾も抑えられた格好は年齢によるものだろうか。いや、10年前でも彼女が鎖骨を露わにしてネックレスを提げいる様子は想像しにくい。伏し目がちなやわらかい表情を見て、アルバはそう思い直した。
 彼女はクラウディア。いくつもの細工物工房を抱える大きな商店、”スワロウ工房”の娘で、アルバと丁度10歳離れた25歳だ。今は女学園でダンスを教えているという。こうして向かい合うと、銀ボタンの細工が精巧なことも、ドレスの仕立てと布地が一級品であることもよく分かる。

 アルバと父、クラウディアとその父親、そして中年の男女が一組。一行はフラワーガーデンが見えるラウンジでお茶を囲んでいた。ここは仲人を務める夫婦の屋敷だ。
 そう、仲人である。これはいわゆるお見合いだ。
 おっさん三人がはっはっはっと笑い、女性二人がおほほうふふと続くのを、アルバは遠くに感じていた。ここには「良いから、良いから」と兄によって連行されてきたのだ。父に異議を唱える暇もなかった。
 何でだ。何でこんなことになっているんだ。
 思考の沼に片手を突っ込んで、答えの出ない問いをぐるぐるとかき回す。

「おじさま、今お庭にグラジオラスが咲いているんですね。」

 これまでおっさん共の話に応えるだけだったクラウディアが、初めて自主的に口を開いた。

「先程話にも出た、弟考案の襟留め、あの花がモチーフなんです。拝見してきてもよろしいですか?」
「ええ。今が見頃なんですよ、ぜひご覧になってください。」
「ありがとうございます。アルバさんもいらっしゃいませんか?」
「へ?」

 やわらかな声が突然こちらに向いて、思わず間の抜けた声が出た。つられて間抜けな顔をさらしているはずだと気がついて、慌てて顔を引き締める。

「え、ええ。ご一緒させていただきます。」

 うわずりながら立ち上がった。

 ***

 道しるべ代わりの敷石をたどっていくらか行くと、隣のクラウディアがふぅと息をついた。アルバを見上げる。

「付き合わせてしまってごめんなさい。じっとしているのに疲れてしまいまして。」
「いや、俺もしんどかったので助かりました。」

 クラウディアに聞かれていなければ良いのだが、先程立ち上がった時にゴキッという音がした。彼女も似たような状態だったのだろうか。ちらりと様子をうかがうが、背筋を伸ばし指先までそろえた立ち姿には疲れなど一切見えない。さすが女学園の教師を務めているだけある。
 前方へ視線を戻して、アルバはぐっと詰まった。
 トの字になった道を真っ直ぐ行った先に、紫の花が並んで揺れている。そこまで行く途中で左手側に大きな池があった。水草が浮く水は澄んでいて、金と赤の魚がひらっと身を翻す様がよく見えた。

 通りたくない。

 アルバは池や川が苦手だ。水辺に立つと気分が悪くなる。小さい頃、いじめっ子に突き飛ばされて池に落ちたのが原因だ。その後は風邪を引き、なかなか引かない熱のために三日ほど寝込んだという。その辺りのことはほとんど覚えていないが。
 どうしよう。水が怖いなんて言いたくない。かといって訳も話さず場所を入れ替えて、右側に移ったら不審に思われるだろう。
 行くしか、ないのか。ぐっと唇を引き結んで腹に力を込める。
 と、目の端からふいっと黒い頭が消えた。驚いて振り返るとクラウディアは道を曲がっていた。右は右で白と黄色の花が咲き乱れている。

「襟留め、今作っているものは花の部分が白い石で出来ているんですが、黄色でもかわいいでしょうね。」
「あ、そうですね。」

 ガラスも扱っている花瓶屋として、もっと気の利いた返答があるはずなのだが、水から離れられた安堵が先に立って上手く言葉が継げない。アルバはさわさわと揺れる花を見た。
 真っ直ぐ伸びた茎に花が縦に並んで咲いている様子は、串に刺さっているみたいで面白いとは思う。しかし、クラウディアの鼻先まで高さがあるそれらが群生し、時折揺れると迫力があった。
 かわいい、かわいいかなぁ。いや、襟留めのデザインはこのような茂みではなくて、一本か二本なのだろうけど。
 クラウディアが足を止める。ふわりと笑みを浮かべて、黄色いラッパ状の花をのぞき込んでいる。花の列を見渡したアルバは脇にベンチを見つけた。三人掛けには狭く二人掛けには広い。クラウディアに勧めるかどうか悩む。自分達は座っているのに疲れて庭に出てきたのだから。

「驚いたでしょう?」
「え?」
「こんなおばさんを紹介されるなんて思わなかったでしょう?」

 肩越しに振り返ったクラウディアはいたずらっぽい笑みを浮かべていた。一泊遅れてアルバは首を横に振る。

「いや、いやいやいや、アイ姉、じゃなかった、姉とそんなに歳変わりませんよね?」

 クラウディアがくすくすと笑う。花に向き直ると白い指で三角にとがった花びらをつついた。

「父は焦っているんです。私の同級生が次々と結婚して、年下のアイビィさんも婚約なさったでしょう? 私はいつまで独り身なのかと嘆くようになってしまいまして。」
「心配せずとも、クラウディアさんなら引く手あまたでしょうに。」
「卒業して10年近くも独り身なのに?」

 えーと。アルバが言葉を探してパクパクと口を開閉していると、クラウディアがふふっと笑みをこぼした。

「私が悪いんですよ。結婚する気なんて、これっぽっちもないんです。父も、私が教師になるのを認めてくれた時点で、諦めてくれたと思っていたんですけどね。」

 クラウディアが顔を上げる。花の向こう、遠く空を見つめているようだった。

「慌てて片付けなくたって、もうすぐいなくなるのに。」

 花を見ていた時と同じく彼女は笑みを浮かべている。それなのに、その横顔はひどく寂しそうだった。何かがアルバの中でひらめくが、ひらりと逃げてしまって捕まえることが出来なかった。

「そろそろ戻りましょうか。」

 そう声をかけられるまで動くことが出来なかった。目を離した隙に彼女が消えてしまいそうで。

 ***

 肘掛けにジャケットを放ってソファで休んでいると、友人宅から帰ってきたらしいクレエが駆け寄ってきた。

「どうどう? クラウディア先生、きれいだったでしょー?」

 まるで自慢するように誇らしげだ。

「知ってんの?」
「もちろん。あたし、先生にダンス習ったんだもん。」

 クレエは行儀悪く後ろからソファの背もたれにのしかかった。横から顔をのぞき込んでくる。

「で、で、先生どうだった?」
「どうって言われても。……アイ姉とちょっと似てる?」

 しゃべり方とか、ふんわりした笑みとか。
 クレエがニヤニヤと笑みを浮かべる。

「ほほーう? つまり、気に入ったと?」
「はあ? 何でそうなるんだよ。」
「だって、アルバってばお姉ちゃん大好きじゃーん。」
「ちげーよ!」

 むっとしてクレエをにらむが、姉はニヤニヤを引っ込めない。アルバはぷいっと顔を背けた。ふと、クラウディアの言葉を思い出した。クレエはとっくに学園を卒業しているが、後輩とも仲が良いから何か知っているかもしれない。

「クラウディアさんって、どこか行っちゃうのか?」
「うん?」
「今日、そんな感じのこと言ってたんだけど。」

 ぱちぱちと目を瞬かせてから、クレエは悲しげに眉尻を下げた。

「あの話、本当だったんだ。うん。新しく出来る学校に呼ばれてるんだって。トルナドだって聞いたよ。」
「……遠いな。」

 ここからずっと東に行った町だ。父の友人がいる町でなければ名前も覚えられないほど、アルバもクレエも縁遠い。
 クラウディアは父親が焦っていると言っていたが、それは娘をこの町に引き留めたいからかもしれない。

「クレエちゃん、ショールをほっぽっちゃダメですよ。」

 ひよこ色の布を腕に掛けてアイビィが部屋に入ってきた。クレエが弾かれたように立ち上がる。

「わ、ごめーんお姉ちゃん!」

 慌ててアイビィからひよこ色を受け取り自室へと駆ける。
 夏だからショールで済んだが、クレエは他に関心ごとがあるとその辺に抜け殻を残す癖がある。よほどアルバから先生の話が聞きたかったらしい。
 ため息をついたアルバは視線を感じて顔を上げた。追って横を向くと、アイビィが所在無げに身を縮めていた。困ったように眉を寄せてこちらを見つめている。

「? どうしたんだよ、姉さん。」
「ディーア先輩……、クラウディア先輩に会ったんですよね?」

 アルバは目を瞬かせた。確かにクラウディアはアイビィの先輩にあたるが、アイビィの入学が遅かったことも手伝って、在学期間は一年しか重なっていないはずだ。

「クラウディアさんと親しかったの?」
「親しいというか、お世話になったんですよ。学園になじめなかった頃に、何度か話を聞いていただいたんです。……ところで、」

 アイビィが心持ち距離を詰めてくる。

「先輩、何かおっしゃってましたか?」
「いや……?」

 アルバは首をかしげる。特別にアイビィの話をした記憶はない。アルバをじぃっと見つめてから姉は悲しそうに目を伏せた。

「……変なこと聞いてごめんなさい。」

 ふいっときびすを返す。しょんぼりと肩を落としたまま部屋を出て行ってしまった。

 ***

 クラウディアが何か言ったのか、はたまた何も言わなかったのか、二人の縁談はそれきり続かなかった。
 しかし、学園を中心に交友関係が重なるのだろう、パーティではよく顔を合わせた。話をしたことで学生気分がよみがえったのか、クレエがクラウディアを見つけては突撃していくのだ。アルバも姉を追いかけて挨拶をする。
 本当に、挨拶だけだ。先生を慕う10歳そこらの淑女達を、姉とそろって蹴散らす気にはなれない。邪魔にならないように直ぐ退散するようにしている。
 踊ってきたらどうだ、と兄に何度かつつかれたが、その度にアルバは顔をしかめた。

 ***

 年明けに学生主催の新年会が毎年ある。会場は学園のダンスホールで、それぞれの兄弟を招待することが出来る。
 アルバも兄姉三人を呼んでいた。姉妹でそろいに仕立てた黄色のドレスを翻し、クレエは機嫌良く弟の手を引く。

「もうアルバも卒業かー。来年は参加出来ないねー。」
「出たければ出れば良いだろ? ウィリアムさんも来てるんだし。」

 アイビィの婚約者であるウィリアムは妹が一人いるが、その妹も既に卒業しているのでもうただの部外者だ。しかし、アイビィに付き添って参加していた。先程までアルバもいた歓談席、ダンスフロアをぐるりと囲むそこから、友人と踊るアイビィをにこにこと見守っている。

 そうして辺りへと目を向けていたアルバは、クラウディアを見つけた。学生が教師や講師を招待することは珍しくないから、彼女も慕っている誰かに呼ばれたのだろう。声をかける少女達へ、クラウディアはその水色の目を細めて笑みを見せる。
 細身の青年が、横から彼女の手をすくった。黒い髪に、青い瞳。一度挨拶をしたことがある、彼女の弟のレイニーだ。
 くるくる、くるくると花が川面を流れるように二人は回り出す。前を横切った幼いカップルを避けた拍子に、レイニーが体勢を崩す。それをぐっと引っ張ってクラウディアが引き戻す。姉になんと言っているのか、レイニーが苦笑を浮かべた。クラウディアはくすくすと笑っている。その笑みにからかいはない。
 ひらり、と花が目の前を吹かれていくように、また何かがアルバの胸を過ぎた。

 ぐいっと腕を引かれてアルバははっとした。ぐるりっと脚を軸に回転するクレエを慌てて支える。

「アルバ? どうしたの?」
「あ、いや、ジョーがいたから。」
「へぇ。そっち行く?」
「いや、婚約者さんと一緒だったから。」
「そっか。それは邪魔しちゃ悪いね。」

 奏でられる曲がお気に入りのものに変わったからだろう、クレエのステップが跳ね上がる。アルバもそれに合わせて跳ねた。くるくる、くるくると際限なく回り続ける。クレエと踊るといつもリードを取られる。アルバは苦笑した。

「クレ姉は踊るの好きだな。」
「アンタだって好きでしょ。いつも楽しそうじゃない。」
「そう見えてるなら、俺達二人共、満点だな。」
「あら。男子の方でもそう教えるんだ?」
「え?」

 へぇーと感心しているらしいクレエに、アルバは驚いた顔を向けた。

「男子の方?」
「違うの? 私は授業で教わったんだけど。」
「アイ姉が言ってたんじゃなくて?」
「そうなの? お姉ちゃんもそう習ったのかな。私はクラウディア先生に言われたんだけど。」

 クレエが今度はアルバを振り回すように回転した。よろめきながらもアルバは何とか足を運ぶ。
 女学園では同じようにダンスを教えていて、アイビィが習ったことをアルバに教えた。何も不思議なことはない、そのはずなのに。クラウディアが口にしていた、ということがどうにも心の内に引っ掛かる。
 それは、どうして?

「あ、お姉ちゃん!」

 アイビィ達とすれ違い、クレエがぱっと顔を輝かせる。アルバが手を放すと、ひらりっとドレスを翻してアイビィの下へ飛び込んだ。くすくすと笑うアイビィと、にかっと笑ったその友人に受け止められて、ぐるんっと回る。
 歓談席へ向いて、アルバははっと目を見開いた。兄とウィリアムがいない。二人共どこに行ったのだろう。踊りの輪から抜けてきょろきょろと辺りを見回す。
 ここの歓談席は話をすることよりも踊りを見物することの方がメインだ。だから、みんなフロアの方へ向いている。時々輪を抜けたり入ったりとにぎやかだ。今も、妹に呼ばれて苦笑混じりに少年が立ち上がった。
 それを追うようにしてアルバはフロアを振り返った。案外踊っているのかもと思ったのだが、そちらにも姿はない。アルバは歓談席を泳ぐように進む。

 すいっとつややかな黒髪が視界をよぎった。ゆるく編まれた髪が尾を引くように揺れるのを思わず追う。クラウディアが庭へつながるガラス戸をくぐろうとしていた。

「クラウディアさん。」
「あら、アルバさん。こんばんは。」

 クラウディアはにこりとほほ笑むとドレスの裾をつまんでお辞儀をした。
 アルバはもう一度フロアを振り返った。先程彼女を見かけた場所では、レイニーが学生達とじゃれている。わざわざ抜けて庭に行くなんて、誰かと待ち合わせだろうか。

「……どうしたんですか? あちらはもう良いんですか?」
「ちょっと人に酔ったので、外の空気でも吸いたいと思いまして。噴水まで行こうかと。」
「噴水……。」

 ホールの庭には大きな噴水がある。生徒に人気のスポットだが、アルバは近寄らないようにしている。噴水の底が足場よりずっと下に作ってあって、見た目より深いのだ。アルバにとっては怖い場所である。しかし。
 アルバはちらりとガラスの向こうを見た。
 もう陽が落ちている。庭にもぽつぽつと灯りがあるにはあるが、それは装飾の役割が強く室内灯ほど明るくない。学園の敷地内で教師を襲う不届き者がいるとは思えないが、クラウディアを一人で送り出すのは何だか落ち着かなかった。

「俺も、丁度外行きたくて。ご一緒しても良いですか?」
「え? でも……。」

 クラウディアは戸惑うように言葉を濁すと、目を伏せた。彼女から拒絶の言葉が出る前に、アルバは先行して外に出た。

「今日は晴れていて、星がよく見えますね。」

 努めて明るく言うと、クラウディアも隣に並んで、きれいですね、と言ってくれた。アルバはほっと息をついた。

 ***

 庭を横目に回廊を進む。灯りにぼんやりと浮かぶ花を、クラウディアがにこにこと眺めている。
 いくらか行かないうちに柱の陰から跳ねた髪がのぞいているのを見つけた。濃紺に沈んでただの茶色に見えるが、その髪質もぼそぼそと聞こえる声も兄のものだ。
 こんな所にいたのか。

「あに……、」
「アルバとクラウディア嬢ってどうなったんだ?」

 兄へ呼びかけようとクラウディアより前へ出た足が、そこで止まる。
 先のウィリアムの声に、兄のトラモントが応える。

「あー、ダメっぽいなぁ。もう時間切れだし。」
「そうか、残念だったな。スワロウ工房と縁戚になれれば、貴族相手の仕事とかもっと入りそうだったのに。」

 そのウィリアムの言葉が、かっと頭に血を上らせた。それなのに、いやに胸の内は冷えている。
 なるほど。てっきり飲み過ぎて夜風にでも当たりに出たのかと思ったが、こういう話をしたかったのか。確かに、歓談席でするわけにはいかないだろう。クラウディアを慕う姉達、特にクレエの耳に入ったら大騒ぎすること必至だ。

「兄貴。ウィリアムさん。」

 ザカザカとわざと足音をたててアルバは二人の前に躍り出た。兄はびくっと肩を跳ねさせ、義兄予定はぎょっと目を見張った。

「あ、アルバ……。」
「今の話、何?」
「いや、アルバ、あのな、」
「うち今、金に困ってるわけ? だから、見合いを勧めたの?」

 兄がぶんぶんと首を横に振る。
 では、どうしてそんな話をしているのだ。もしかして、困っているのはウィリアムの方なのか。兄も、その友人であるウィリアムも、アイビィが傷ついていたのを見ていたはずなのに。
 アルバはぎろりとウィリアムをにらんだ。ふつふつと怒りが沸いてくる。

「ウィリアムさんがそんなこと考える人だとは思いませんでした。もしかして、アイ姉との婚約も何か裏があるんですか?」
「そんなわけないだろ!」

 激高してウィリアムが叫ぶ。頭に血が上ったアルバには、図星を指されて赤くなったように見えた。

「アイ姉を利用するつもりなら許さない!」
「だから、アルバ、違うんだってっ。」

 薪をくべられたみたいに頭がカッカッと燃えている。うろたえている兄へキッと視線を移す。

「俺だって、俺の相手は俺が決める! 俺も、”彼女”も、利用なんてさせない! 傷つけるなら絶対に許さない!」

 守るって約束した。俺が守るって、そう言った。

 ……誰と? ……誰に?

 ふっと湧いた疑問にアルバの思考が急停止する。自分は今、誰のために怒っているのだろう。何がこんなに苦しいのだろう。
 すいっと横で風が動いた。固く握りしめていたアルバの手へ、やわらかい手が触れる。その姿を認めて兄が青ざめる。ぎこちなく振り返るアルバを、水色の目が見つめていた。クラウディアがふわりとほほ笑む。

「アルバさん、落ち着いて考えてください。アルバさんのお父様は、我が子に気持ちの通わない結婚をさせるような方ですか?」
「……違う。」

 姉達への縁談を申し込まれた時はいつも、受けるかどうかまず当人に確認していたはずだ。

「では、お兄様は?」
「……。」

 アルバは思わず押し黙った。先日の見合いが強行されたのは、兄のせいだろう。
 クラウディアが苦笑する。

「私とのことは、すみませんでした。父が無理を言って、貴方を紹介してもらったんです。トラモントさん達は悪くないんですよ。」

 それでですね、とクラウディアは続ける。

「さっきの話も大丈夫なんですよ、アルバさん。トラモントさんもウィリアムさんも、仮定の話をしていただけなんです。そうだったら、こうだったのにねって。こうするつもりだったって、計画を立てていたんじゃないんです。そうですよね?」

 クラウディアに話と視線を振られ、二人がこくこくとうなずく。
 彼女はアルバの手を両手でそぉっと包んだ。

「お兄様もご両親も、誰も、貴方を利用しようなんて思っていません。貴方の大事な人を傷つけたりしません。貴方と同じくらい、大事にしてくれます。だから、大丈夫なんですよ。」

 手と同じやわらかくあたたかい声に、すぅっと熱いものが抜け落ちた。こくりとうなずくと、そっと手が離れた。アルバが何か応えようと口を開くと、タカタカとフロアの方から足音が近づいてきた。
 現れたのはつややかな黒髪の青年、レイニーだ。

「いたいた姉さん! 勝手にどっか行かないでよ。生徒さん達探してたよ?」
「あら、ごめんなさい。」
「ほら、戻るよ。あ、トラモントさん、ウィリアムさん、こんばんは。」

 今気がついた、という顔をしてレイニーは二人へ頭を下げた。姉へ手を差し出す。その手を取ってクラウディアはアルバへほほ笑んだ。

「私達はここで失礼しますね。……さようなら、アルバさん。」

 弟のエスコートでクラウディアは回廊の奥へ消える。
 アルバはぼんやりと二人の背中を見送った。本来なら紳士らしく礼を返す所だ。しかし、思いがけず与えられたショックで体が硬直していた。
 ありふれた別れの言葉が、アルバの胸を刺したのだ。

 行ってしまう。ディーアが、行ってしまう。

 自身の内から湧いた嘆きに驚いていると、横で兄が動いた。ひさしに遮られた空を仰いで片手で顔を覆っている。

「兄貴、」
「ごめん、アルバ。」

 兄弟の声が重なる。弱々しい声で兄は続けた。

「クラウディアさんの相手を探してるって聞いた時、チャンスだと思ったんだ。丁度良いきっかけだって。きっと上手くいくって。だってお前はあんなに……。」

 声として発したのかどうか、最後はもごもごと口が動いただけで聞き取れなかった。
 それきり、兄の口からクラウディアの名が出てくることはなかった。

 ***