12歳には月一回。
 来訪の前に手紙が来るので、それに合わせてフィラアナは茶菓子を用意する。少年も、お土産だと花を持ってくるようになった。
 サイズこそ小さいものの、まるで花嫁のブーケのように華やかなそれを、素材そのままの木製テーブルに飾るのは戸惑われて、ある日からテーブルクロスを用意した。
 ザラザラした木目の粗い生成りのクロスだが、角に刺しゅうを施してみた。フィラアナの目にはなかなか立派なお茶会に見える。むしろお茶請けのご家庭マフィンの方が浮いている。

 何かの折に、市場で買ったカフスボタンの話を母がしたからだろう、彼は何回か飾りボタンも持ってきてくれた。繊細な細工彫りのものや、キラリとした石がはめ込まれたものを。高価なものは受け取れないので、親子三人でしげしげと眺めてから彼に返した。

 ***

 14歳には半年に一回。
 その日、少年は大きな銀ボタンを持ってきた。青い石がはめられていた。いつか見たブローチとは違う、混じりけのない深い青は冬の湖のようだ。
 彼は一着のベストをフィラアナに渡した。広げて見ると、少年のものにしてはまだ大きかった。不思議に思って首をかしげると、彼はさっきの銀ボタンを突きつけてきた。

「ここのさ、一番上のボタンをこれにして欲しいんだ。」
「私が付けるんですか?」

 彼の衣服は、ご両親と同様にちゃんと向こうの仕立屋に任せているはずだ。今手にしているこれも、フィラアナが普段扱っている物と生地の質が全然違う。困ってベストを見つめていると、少年の大きな目が視界に割り込んできた。

「ね、お願い。フィナに付けて欲しいんだ。」

 フィラアナはため息をついた。否と言えない自分にあきれる。
 ただ縫い付けただけなのに、彼はいたく喜んで、丈の合わないそれを着て帰って行った。

 ***

 16歳には、彼は仕立屋に来なくなった。
 それが自然なことなのだ。ようやく、彼も当たり前のことが分かったのだ。

 貴族と下層の町娘など、友達になることすら不自然なこと。
 どんなに末っ子に甘い領主様でも、身分違いの結婚などお認めにならないこと。
 貴族が結婚するということが、当人だけの問題ではないこと。
 貴族の花嫁に必要なものは、働き者であることでも、料理上手であることでもないこと。

 兄への憧れと迷子の心細さが産んだ勘違いなんて、恋ですらないこと。

 ***

 帽子に付ける青い薔薇の飾りを縫いながら、フィラアナはため息をつく。ため息をつく度に幸せが逃げるという話が本当なら、フィラアナが逃した幸せはとてもじゃないが数え切れないだろう。
 馬鹿なことをしたものだと思う。
 今日、パン屋の青年が町を出て行った。
 青年は一緒に行こうとフィラアナに言った。フィラアナはただ首を横に振った。

「約束なんて、チビ助はもうとっくに忘れてるだろ。」
「そうね。でも、あと二年だから。」

 フィラアナは笑った。青年は悔しそうに顔をゆがめて行ってしまった。
 馬鹿なことをしたものだと思う。

 約束を守るフリの、フリをしていた。

 心のどこかで、町娘は王子様のお迎えを待っていた。来る訳がないと知りながら。
 どんなに善良でも、どんなに働き者でも、町娘がヒロインになるなんて、おとぎばなしでもない限り無理なのに。ましてやお姫様になるだなんて、魔法使いでも現れない限りかなえられない。
 薬屋の娘は、仕立屋に恋をして仕立屋になった。仕立屋の娘だって、パン屋に恋をしたらパン屋になれただろう。けれど、貴族に恋した仕立屋は、一生仕立屋のままだ。

 小さなカフスボタンが返す緑の光に、いつか自分を追いかけた、透き通った翡翠を重ねて物語を終える。

 ***

 白いドレスの裾にレースを縫い付け終えて、フィラアナは立ち上がった。これで今日の仕事は終いだ。机の上に散らばった、飾りや道具を片付けていく。
 近々、式を挙げる花嫁のためのドレスだった。フィラアナより2歳ほど年下で、小さい頃からよく知っている。金色巻き毛の小柄な娘。恋人が独立するのをずっと待っていた。きっととびきり可愛い花嫁になるだろう。
 式の様子を思い浮かべて、フィラアナはほほを緩めた。自然と笑みが浮かぶ。それなのに、箱にハサミをしまって顔を上げた時、ドレスが視界に入ってツキリと胸が痛んだ。
 一生、自分は白いドレスを着ることはないだろう。それが、自分の選んだことである。
 フィラアナは首を一つ横に振ると、寝る支度をするべく仕事場を出た。新郎の礼服を手掛けていた父は、昼間に宣言していた通り早々に仕事を切り上げて町に繰り出して行ったようだ。寝室に入ると、母がとっくに寝台の一つに山をこさえている。家の中は薄暗く静かだった。

 この辺りは静かでも、城の庭園も町の中央広場も大いににぎわっていることだろう。今日は、領主様の末息子の誕生日であるから。今日、彼はようやく成人した。約束の日から12年が経ったのである。
 もう、約束を守る必要はないけれど、やはり自分は誰の花嫁にもならないだろう。今もあの瞳が忘れられないから。胸の内にあるこの想いを抱えたまま他の人と歩めるほど、フィラアナは器用な女ではなかった。
 物思いに沈んでいると、カタンっと窓の外で何かが揺れた。思わず視線を向けたが、窓の向こうは薄闇が広がるばかりで何も見えない。

「……ネコ?」

 引き寄せられるように近づき、窓を開けたフィラアナの手首を、男の大きな手がつかんだ。

 ***

 平和なこの国を象徴するようにいつも穏やかな、その国境近くの城下町は、朝から上下がひっくり返されたみたいな大騒ぎとなっていた。その混乱はもう、隣の町にまで広がっている。
 昨晩、成人の儀を兼ねた宴の途中で、主役である領主の息子が行方をくらませたからだ。可愛がっていた末っ子の失踪に、奥方様はショックで倒れてしまったという。

 12年の歳月は、何も知らなかった子供に色々なことを教えた。
 貴族が町娘に近づくと、色々なゆがみが起こること。
 どんなに末っ子に甘いお父様でも、身分違いの結婚を認めてくれないこと。
 貴族が結婚するということが、当人だけの問題ではないこと。
 貴族の花嫁に求められることは、働き者であることでも、料理上手であることでもないこと。

 あの優しい藍色に焦がれる気持ちが、確かに恋だということ。

 そして、歳月は非力な子供に色々なものを与えた。
 城内ですら迷子になった小さな頭は、憲兵のパトロールルートも国内外の地理も覚えた。
 池の飛び石にすら移れなかった短い脚は、家の二階にすら飛び上がれるようになった。
 いつもスカートにしがみついていた細い体は、成人女性を抱え上げたまま、追って来る憲兵を振り切れるほどたくましくなった。
 城下町に収まっていた幼い世界は、友好国に友人が出来るほど広がった。

 12年の歳月は、夢見がちな男に夢を実現させる力を与えた。

 ***

 青空の下、四角い荷台に風避けのほろが張られただけの小さな車を、のんびりのんびりと二頭の馬が引いている。車の半分には木箱と麻袋が積まれている。御者の他には年老いた女が一人と、男女が一組乗っていた。
 男女は幾らか歳が離れていた。酔ったのか、青い顔で荷馬車の端で縮こまっている女を、まだどこか幼さの残る男が心配している様子を見て、老女は二人を姉弟だと思った。
 青い上着のフードから、女の艶やかな黒髪がこぼれている。目深に被った緋色のフードに隠された男の髪が、それとは似つかない金髪であることなど、老女には分からない。
 男との話の中で、老女は息子夫婦の下を訪ねるのだと教えてくれた。孫が産まれるのだと。

 女、フィラアナは慣れない揺れの中で、床についた自身の手にじっと視線を落としていた。ここはどこだ。さらわれたはずのフィラアナだけが緊張していた馬車の検問を、男は通行手形を見せてあっさり突破してしまった。何が起きてるんだ。

「フィナ、ずっと下向いてると余計気分悪くなっちゃうよ?」

 聞きなれない声が、なじんだ名前を呼ぶ。最後に会った時は不安定だった声は、知らない間に低く落ち着いていた。そろそろと顔を上げると目が合う。透き通った翡翠がきらりと光って、彼が微笑む。丸みがとれてシャープになった白いほほに、ほんのりと赤みが差した。

 夢を見てしまいそうだ。
 王子様と仕立屋を開く、そんな夢。


 END