◇
しばらくして、彼女が俺の背中から離れてゆっくりと前に回り込んできた。
もうすっかりいつもの福本さんに戻っている。
俺は相変わらず俺だ。
でも、それでいいんだ。
焦ることはない。
まだ始まったばかりなんだから。
彼女の目がそう語っていた。
「ねえ、あたしのこと今まで、チャラいとか思ってなかった?」
「うん、まあ、そんなふうには思ってなかったけど、自分とは違う世界の人だと思ってた」
「なによそれ、地球は一つじゃん。ほら、昭和のアニメだっけ、実写映画も……チャッカマン?」
「それ、火、つけるやつ」
彼女が両手で口元を隠しながら笑う。
「うわ、メッチャ恥ずかしい。……で、なんだっけ、あれ」
「ええと、あれはさ……」
俺が答えを思い出そうとしていたときだ。
人の声が聞こえたような気がした。
おおい!
あれ?
誰か呼んでない?
俺は人差し指を立てて耳を澄ませた。
彼女も口をつぐんで耳に手を当てた。
おおい、カイト、いるのか?
間違いない。
あいつだ。
「トシヤか! おう、いるよ、閉じ込められてるんだ。開けてくれ」
扉の向こうから声が聞こえる。
「やっぱりそうか。今、桜井さんが鍵を取りに行ってくれてるから、少し待ってろよ」
どうやらラーメン屋から戻ってきてくれたらしい。
「カンナもいるの?」
泉川さんの声だ。
「うん、いるよ」
声が震えていた。
やっぱり不安だったんだろう。
安心して緊張の糸が切れたのか、福本さんの目にはまた涙がにじんでいた。
すぐにガチャガチャと音がして、ガラガラと引き戸が開いた。
「やっほー、お待たせ」と桜井さんが顔をのぞかせる。
「ありがとう」と福本さんが涙をぬぐいながら外に出ると、女子二人が両側から肩に手を置いて話しかけていた。
「うちら寄り道してて良かったよね」
「だよね。他の人たちみんな帰っちゃったもんね」
俺はトシヤに尋ねた。
「でも、どうして分かったんだ?」
「これだよ」とトシヤがスマホを突き出す。
『非モテ男子が下駄箱を開けたら衝撃の展開!』
やつらの流した動画だ。
ケースケが興奮気味に俺の肩をたたく。
「ラーメン屋で、タイムラインが流れてきたからさ、みんなで見てたらなんかヤバイことになってるみたいじゃんって、来てみたわけよ」
なるほどそういうことだったのか。
みっともないところを見られちゃってたんだな。
まあ、出られたんだからどうでもいいや。
桜井さんが俺の腕をつつく。
「ねえ、どうだったの?」
「何が?」
「ふうん、そうなんだ」
そうって何がでしょうか?
「すごく、ニヤけてるよ」
え、マジですか?
思わず両手で顔をパチンとはたく。
あまりにも音が大きくなりすぎて、福本さんににらまれてしまった。
「なにやってんだ、おまえ」と、ケースケが不思議そうに俺を見ていた。
泉川さんが福本さんの方を指さして片目をつむる。
トシヤが叫ぶ。
「ウッソ、マジ!?」
「ハア、なんだそれ」と、ケースケまで俺をまた体育館倉庫に押し込もうとする。
やめてくれよ、おい。
せっかく解放されたんだからよ。
それから俺たちは職員室に鍵を返しに行って、みんなで駅へ向かった。
いつもと同じ通学路なのに、今は一人ではない。
祝福されたりからかわれたり、うれしかったり恥ずかしかったり。
まるで想像したこともなかった世界に来たみたいだった。
駅で上り方面に別れる福本さんに手を振っただけで、トシヤに膝カックンされてしまった。
トシヤと一緒に下り方面の階段を下りる。
「なあ、おまえさ、先輩とかから仕返しされるんじゃねえの。あの連中、何やらかすか分からねえからな。動画流して調子こいてるくらいだし」
それはどうだろうか。
「されたらされたで、しょうがないよ」
べつに覚悟ができたというわけではない。
考えてみたところで、本当にどうなるか全然分からないからだ。
「お、なんだよ、余裕かよ。くっそー、うらやましいぜ」
トシヤに思いっきり背中をたたかれて思わず線路に落ちそうになる。
なんだよ、おまえが一番危ないじゃないかよ。