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 この高校には体育館が二つある。

 全校集会でも使われる古い第一体育館と、やや小さめだけど冷暖房完備の第二体育館だ。

 体育館倉庫は元々第一体育館に付属していたのが、横に第二体育館を増設した関係で、敷地の裏側に回ったところに出入り口が移って、ちょっと不便な位置関係になっている。

 俺は部活には入っていないけど、授業の準備で重たいバスケットボールの篭を運ばされたことがあって、設計した人を呪ったものだ。

 ただ、そのおかげで、校舎側からは死角になっているから、下駄箱のラブレターで呼び出されるのにこれ以上の場所はないというわけだ。

 おまけに今日は終業式で先生方の行事があるから全員下校で部活動もない。

 変な邪魔が入る心配もないというわけだ。

 下駄箱前では、みんなが夏休みの話題で盛り上がっている。

 ちょうど、下駄箱の蓋を開けて靴を取り出した男子グループがいる。

 言いたくてうずうずしてしまう。

 なあ、おまえらさ、下駄箱のラブレター、見たことある?

 都市伝説じゃないんだぜ。

 リアルだよ、リアル。

 浮かれすぎだと分かっていても、もう止められない。

 いつもなら靴を履き替えたらまっすぐ帰るところだけど、俺は一人、わきにそれて体育館倉庫へ向かう。

 校舎と体育館をつなぐ屋根付きの外廊下を抜けて裏手に回る。

 まるで国境を越えるような緊張感だ。

 非モテ男子の俺にさようならだ。

 放課後の体育館周辺は予想通りしんと静まりかえっていた。

 校庭の周囲は桜の木が植えられた小高い土手で、今は葉が茂っていて、いい具合の木陰が広がっている。

 フェンスの向こうにちょうど福来軒の屋根が見える。

 今頃トシヤも楽しくやってるといいな。

 俺は上手くやれるだろうか。

 いざ相手が現れたらあいつみたいにアワアワしてしまうんじゃないだろうか。

 体育館の裏手にはコンクリートの階段があって、十段ほど上がらなければならない。

 べつにバスケットボールを運ばされているわけでもないのに一段ずつ踏みしめるたびに息が苦しくなる。

 落ち着けよ。

 富士登山じゃあるまいし。

 蒸し暑い空気をかき分けるように階段を上がりきったところは体育館倉庫だ。

 扉は閉まっている。

 鍵がかかっていたらどうしよう。

 もう中に誰かいるんだろうか。

 ここまで来てもまだ、からかわれてるだけなんじゃないかという疑念が晴れない。

 急に不安になる。

 心臓が口から飛び出しそうだ。

 だが、今さら引き返すわけにもいかない。

 俺は覚悟を決めて引き戸に手をかけた。

 ガラガラと音を立てながらあっさりと開く。

 俺は隙間から首を突っ込んで中の様子を確かめた。

 ……なんだよ。

 誰もいないのかよ。

 俺の方が早かったのか……。

 土ぼこりとボールなんかの革やゴムやら汗の混じった匂いが熱にあぶられて一気に鼻に飛び込んでくる。

 一瞬意識が遠くなりかけた。

 遠くから蝉の鳴き声が聞こえてくる。

 仕方がない。

 待つか。

 いないことが分かると、逆に、勝手に入り込んでしまって良いものなのか心配になる。

 外で待っていた方がいいだろうか。

 中にいるよりも、相手が来たかどうか分かりやすい。

 ただ、外にいて、別の誰かに見られるのも恥ずかしい。

 俺は扉を開けたまま中で待つことにした。

 倉庫の壁には、そのままプロレスリングになりそうな高跳び用の分厚いマットが立てかけられている。

 そのわきにはロールケーキみたいに巻かれた体操マットが並べられ、バレーボールやサッカーボールの篭が意外と整然と置かれている。

 昨日の大掃除で片づけさせたんだろうか。

 誰も来ない。

 まるで時が止まっているかのようだ。

 かろうじて動いているのは、開いた扉から差し込む夏の真っ白な光に照らされて蚊のように舞うほこりだけだ。

 放課後といっても、クラスによってホームルームの終わるタイミングが違うから少しくらい待たされてもしょうがない。

 それにしても、一体誰なんだろうか。

 俺はポケットの中から手紙を取り出した。

 あらためて見ると、ちょっと角張った癖があるけど、細くてまぎれもなく女子の文字だ。

 こんな几帳面な字を書く子が、悪質なイタズラをたくらんでいるとは思えない。

 なんて、勝手に良い方に想像しちゃって、俺ってやっぱりチョロい非モテ男子なのかな。

 だいたいまだイタズラの可能性だって捨てきれないというか、そっちの方が大きいのだ。

 早く来てくれないかな。

 とにかく落ち着かない。

 まあ、他に誰も来ないだろうけど、運動系の部活の連中が何かを取りにこないとも限らない。

 倉庫に勝手に入り込んでいるのが見つかったら、泥棒か何かと間違われてしまう。

『いやあ、女子に呼び出されちゃって』なんて言い訳、この俺がしたところで絶対に信じてもらえないだろう。

 思わず体が震えて、額から一筋の汗が流れる。

 ブウンッ……。

 うおッ!

 尻ポケットに入れておいたスマホが震えていた。

 おいおい、焦らせるなよ。

 通知画面に、ラーメン屋に行ったトシヤからのメッセージが表示されている。

 なんだよ、女子たちと一緒だからって浮かれやがって。

 手の中でもう一度震える。

 今度は写真まで送ってきやがった。

 チャーシュー麺を前にしたトシヤの頭にはウサギの耳がデコられている。

 おまけに女子二人に挟まれてニンニク山盛りにされてるし。

 はいはい、楽しんでくださいよ。

 俺は鞄の中にスマホを放り込んだ。

 まったく、どうせ、あいつにとってもう二度とない幸運なんだろうからな。

 それは俺にとっても同じ事なんだし。

 お互い様ってもんだ。

 しかし、それにしても暑いな。

 体育館倉庫はプレハブ小屋というやつで、屋根や壁からも熱が伝わってくるようだ。

 おまけに窓が閉まっているから、扉を開けただけでは風が通らなくて熱がこもってしまう。

 気がつくと俺は全身汗まみれだった。

 やばい。

 俺、匂わないか。

 前髪もぺったり額に張り付いている。

 お笑い芸人みたいな髪型になってるんじゃないか。

 俺はポケットからくしゃくしゃに丸まったハンカチを取り出して汗を拭いた。

 だが、拭けば拭くほどかえって汗が噴き出してくる。

 早く現れてほしいという願いと、今来られるとみっともないという焦りが両側から俺を挟み込んで、だんだん頭がクラクラしてくる。

 いつのまにか蝉の鳴き声すら聞こえなくなっていた。

 さすがに耐えられなくなってきて、外の日陰で待っていようかとしたときだった。

「あ、ごめん、待たせちゃったね」

 え!?

 内と外の境目で女子と鉢合わせしてしまった。

 薄闇に慣れた目に真上から照りつける真夏の光がまぶしすぎて思わず俺は目を細めた。

 いや、それは太陽のせいではなかった。

 俺は幻を見ているのだった。

 それはうちのクラスの福本さんだった。

 あの学年イチと称され、今朝、俺をにらみつけていた福本環奈さんが俺の目の前に立っているのだった。

 いかん、非モテもこじらせすぎるとこんなに強烈な幻覚に捕らわれてしまうのか。

 俺は頭を冷やそうと木陰を求めて体育館倉庫を出ようとした。

「ちょっと、どこ行くのよ?」

 幻覚が俺の前に立ち塞がり、柔和な微笑みを浮かべながら語りかけてくる。

 おまけに、なんかいい匂いがする。

 すごくリアルな妄想だ。

 幻覚の福本さんがさらに一歩間合いをつめて俺に迫ってくる。

 ふわりと甘いお菓子のような香りが鼻をくすぐる。

「中、暑かった?」

 あれ?

 まさか……。

「ウワッ!」

 思わず俺は叫んで一歩飛び退いていた。

 本物だよ。

 福本さんじゃん!

 どういうこと!?

 やばい、口がアワアワしてしまう。

 トシヤ、スマン。

 俺もヘタレだったよ。

 動揺している間に彼女がどんどん俺の方に迫ってきて、まるで俺は現場を押さえられた犯人のように倉庫の中に後ずさりしていた。

 だが、刑事役は間違いなく福本環奈さんだった。

 鼻筋がすっきりとしていて、まつげの長い二重の目が印象的だ。

 ふんわりとした髪の毛はキラキラと輝いている。

 逆光で影になっていても、透き通るような肌の白さがはっきりと分かる。

 デッサン用の石膏像みたいに整いすぎていて、ハーフのタレントさんと言われても納得してしまいそうだ。

 そんな美少女が柔らかな笑みを浮かべて俺をまっすぐに見つめている。

 こんなふうに彼女をしっかりと見たのは入学以来初めてだ。

 俺は言葉を失っていた。

 何か言おうとすればするほど頭の中が真っ白になっていく。

 俺は一歩下がろうとしてバスケットボールの篭に足を引っかけてしまった。

「おっと」

「あ、危ない」と、とっさに彼女が手を伸ばす。「大丈夫?」

「お、ああ」

 一気に彼女との間合いが詰まってしまった。

 逆壁ドンみたいじゃないか。

 心臓が破裂しそうだし、額の汗もナイアガラの勢いだ。

 全然トシヤのことを笑えない。

 こんなかわいい子が本当に俺なんかに用があるんだろうか。

 と、そのとき急に俺の頭の中で光がスパークした。

 あ、そうか。

 用があるのか。

 コクられることばっかり考えていたけど、この人はきっと俺に何か用があるんだ。

 あれだ。

 なんか生徒会の仕事を手伝ってほしいとか、文化祭の力仕事で協力してほしいとか、そういうことだろ。

 あは、あはは、そうだよな。

 いざとなると、目の前の現実から逃げだそうとしてしまう非モテ男子の悲しい本能が俺自身を無理矢理納得させようとフル回転していた。

 だが、現実はそんな俺を逃がしてはくれなかった。

 美少女が俺を見つめていた。

 どうしても視線を合わせることができずに、俺は体を横向きにして頭をかいた。

「あのさ、これ」と、福本さんが鞄の中から紙袋を差し出す。

「え、あ、はい」

 反射的に手を差し出て紙袋を受け取る。

 重くもなく、かといって軽くもない、絶妙な感覚だ。

 中で何かがカサリと音を立てる。

 こ、これは……。

 思わず手が震える。

「手作りなんだけど……」

 マジか!?

 俺はリボン型のシールを丁寧にはがして中を見た。

 間違いない。

 これこそ都市伝説最上位に君臨する『女子の手作りクッキー』じゃないか。

 俺は感動に震えていた。

 生きてて良かった。

「あ、あの、本当にこれ、俺が食べてもいいんですか」

「うん、頑張って作ったんだ」

 そ、そうなのか。

 夢……じゃないよね。

 夢じゃないんだよな。

 俺は袋からクッキーを一つ取り出した。

 うわお、ハート型だ。

 縁がほんのりと茶色くなって、いい焼き加減だ。

 表側はつるつるしていて、裏面は少しザラザラしている。

 俺はその手触りをじっくりと堪能していた。

 夢じゃない。

 この手触りがその証だ。

 美少女が上目遣いに俺を見ている。

 俺はクッキーを口に入れた。

 サクサクと軽い歯触りの後からふんわりと小麦の香りが抜けていき、舌に甘さが広がる。

 間違いない。

 手作りクッキーだ。

 しかも、かなりうまいやつだ。

「おいしい?」

 俺が無言だったせいか、福本さんがほんのり目の縁を赤くしながら、心配そうに首をかしげていた。

「は、はい。すごくおいしいです」

 俺は彼女を安心させようと、もう一枚取り出して勢いよく口に放り込んだ。

 リスかよ、というくらい頬を膨らませながらボリボリとクッキーを味わう。

 そんな俺の様子を見ながら彼女がまた笑みを浮かべてくれた。

「よかった。喜んでもらいたいなって、心を込めて作ったんだよ」

「あ、ありがとうございます」

 彼女が笑う。

「ねえ、さっきからなんで敬語なの」

「あ、いや、その、なんでだろうね」

 ぎこちない会話だけど、彼女が楽しそうに微笑んでくれているのなら、それでいいんだろう。

 ああ、聞かせてやりたい。

 見せてやりたい。

 トシヤに自慢してやりたい。

 なんなら世界中に生配信だ。

 さっきまでは誰かに見られたら恥ずかしいなんて思っていたくせに、俺はすっかり調子に乗っていた。

 とにかく俺の晴れ姿を見てくれ。

 こんな夢みたいな事、もう二度と起こらないのかもしれない。

 それでもいい。

 一度だけでもいい。

 今のこの瞬間が夢じゃないなら、俺にはそれで十分だ。

 夢……じゃないなら……ね。