卒業式の第二ボタン。

『勘違いしないでよね、義理だから』と押しつけられるバレンタインチョコ。

 そんなもの都市伝説だと思ってた。

 だって見たことないんだからさ。

 そういう意味ではトイレの花子さんと変わらないだろ。

 ていうかさ、花子さんが男子トイレにいたら、違う意味でヤバイよな。

 学園七不思議だっけ?

 夜中に駆け出す人体模型。

 涙を流す美術室の石膏像。

 誰もいないはずの音楽室から聞こえてくるピアノ。

 まあ、見たことも聞いたこともない。

 みんなの噂にはなるのに、一度も見たことがないもの。

 非モテ男子にとって、恋愛だって同じようなものだ。

 だから俺はずっと都市伝説だと思ってたんだ。

 今朝、下駄箱の蓋を開けるまでは……。

『放課後、体育館倉庫で待ってます』

 こ、これは……。

 ラ、ラ……。

 口が渇いて言葉が出ない。

 俺はいったん蓋を閉じて名札を確認した。

『1年B組 藤垣海斗』

 間違いない、俺の下駄箱だ。

 俺はとっさにズボンのポケットに二つ折りの紙片を押し込んだ。

 都市伝説だと思っていた下駄箱のラブレター。

 小中と非モテ歴を積み重ね、高校にまで突入してようやく巡り会えた奇跡だ。

 だが……待てよ。

 慎重にあたりを見回す。

 非モテ男子の本能が警報を鳴らしている。

 からかわれてるんじゃないのか。

 どこかで誰かが俺の反応を見てニヤけてるんじゃないのか。

『やーい、引っかかった』

『なになに、期待しちゃったの?』

『なんにも気にしてないってフリが必死すぎて笑えるんですけどぉ』

『非モテ男子が下駄箱を開けたら衝撃の展開!(動画はコチラ)』

 どうせそんなところなんだろ。

 非モテ男子にとって、そんなふうにからかわれるのは恐怖以外のなにものでもない。

 変な汗が出てくるのは、夏のせいだけではないだろう。

 遠くから蝉の鳴き声が聞こえてくる。

 誰も出てこない。

 登校してきた生徒が数人通り過ぎていくけど、誰も俺のことなど気にもしていないようだ。

「よう、カイト、何してんだ」

 ウワッ!

 いきなり名前を呼ばれて振り向くと、同級生のトシヤがあくびをしながら立っていた。

 なんだよ、おまえかよ。

「なにビビってんだよ」

 冷や汗が流れる。

 まさか、おまえなのか……。

「いや、べつに。暑くてダリいよな」と、相手の様子をうかがいながら、俺はあたりさわりのない返事をした。

「まあ、明日から夏休みだしよ、今日だけ我慢してやろうぜ」

 トシヤの言うように今日は一学期最後の登校日で、明日から夏休みなのだ。

 小学生ならば浮かれるところだろうけど、夏になんの意味もない非モテ男子の俺にしてみれば、終業式だけのためにわざわざ来なきゃならない方が面倒くさい。

 でも、そうじゃなかったら、下駄箱のラブレターを見ることもなかったんだろうな。

 トシヤがさっさと靴を履き替えて歩き出す。

 どうやらこいつのイタズラではなかったようだ。

 俺もトシヤと並んで教室に向かった。

 気づかれないようにチラリと振り向いても、誰かの視線を感じることもない。

 結局ドッキリではないらしい。

 でも誰なんだろうか。

 どんな人なんだろう?

 全然思い浮かばない。

 差出人の名前は書いてなかったもんな。

 そもそも宛名もなかったな。

 待ってるという用件が書いてあるだけだった。

 俺の下駄箱に入っていたわけだけど、本当に俺なんだろうか。

 人違いっていう方がまだ納得できる。

「なあ、おい、聞いてるのかよ」

 トシヤが怒っている。

「あ、ああ、ダリいよな」

「じゃねえよ、終わったら福来軒に寄ってくかって聞いてんだろうがよ」

 ああ、学校の裏にあるラーメン屋の話か。

「悪い、今日はちょっと用事が……」

「なんだよ、体育館裏で女子と待ち合わせか」

 ゲッ、なんで分かる!?

 ていうか、やっぱりおまえが犯人だったのか。

 思わず足が止まり、その瞬間、額から一筋汗が流れ落ちた。

 そんな俺をトシヤが不思議そうに見ている。

「なんだ、どうした?」

「い、いや、なんでもない」

 どうやらただの冗談だったらしい。

 トシヤはラーメン屋の話を続けた。

「おまえが行かないんだったら、しょうがねえな、ケースケにチャーシュー麺おごらせっかな。貸しがあんだよ、あいつには」

「この暑さでラーメンってやばくないか。冷やし中華にしておけよ」

 朝の段階ですでに三十度に届く勢いらしい。

 昼には何度になっているのか想像もしたくない。

「夏こそラーメンじゃんよ。こういうときこそスタミナ補充しないとな。厚切りチャーシューは男のロマンだろ」と、トシヤが俺の肩をがっちりつかむ。

 その無駄なエネルギーが地球温暖化に拍車をかけるんじゃないのか。

 俺はそれどころじゃないんだよ。

 悪いがおまえを相手にしてる暇はないんだ。

 人生最大のイベントが発生したんだからな。

 暑いだけじゃない俺の熱い夏が始まるんだよ。

 とはいえ、結局ラブレターの情報は何も分からないまま教室に来てしまった。

 うちのクラスの誰かなんだろうか。

 だが、クラスの連中はいつもの様子で、特に変わったところはない。

 女子だって誰も俺のことなんか見てもいない。

 まあ、非モテ男子にとっては、これが正常だ。

 と、窓際の席の福本環奈さんと目が合ってしまった。

 クラスイチどころか、学年イチの美人で、入学早々イケメンの先輩からコクられたけどあっさり振ったという噂を聞いたことがある。

 うちのクラスのチャラ男たちも、みんな声をかけて討ち死にしたらしい。

 制服の着こなしですら、他の女子たちとはワンランク、いやはるかにおしゃれさのレベルが違う。

 まさか彼女が相手ってことはないよな、なんてつい妄想に浸っていたら、思いっきりにらみつけられてしまった。

 い、いや、何でもないです。

 俺は思わず目をそらして、窓の外のまぶしい青空を観察していたようなふりをした。

 数秒たってさりげなく視線を戻すと、彼女はどこかに行ってしまっていた。

 ふうっと息を吐く。

 非モテ男子の掟第一条、『女子からは空気と思われておけ』。

 これでいいのだ。

 そこにあるのはいつもと変わらない教室だ。

 ただ、不思議なことに、その同じ風景が少し違って見える。

 昨日までの俺とは違うからか、なんだか何もかもがキラキラして見えるのだ。

 いやいや、浮かれすぎだろ。

 まだ、相手が誰なのかも分からないんだぞ。

 それに、イタズラの可能性だって消えたわけじゃない。

 俺は自分の席に座ると、ポケットに手を当てて紙片を確かめた。

 それは間違いなくそこにあった。

 ただの小さな紙切れなのに、布越しに二つ折りの形がくっきりと感じられた。

『放課後、体育館倉庫で待ってます』

 下駄箱で見た文面が浮かんでくる。

 どんな子なんだろうな。

 正直、期待してしまう。

 それにしても、いったい、俺のどこが気に入ったんだろうか。

 自分自身、まるで分からない。

 スポーツも音楽もセンスがないし、外見もぱっとしない。

 いいとこなんてあったっけ?

 ……。

 なんだろうな。

 一つも思い浮かばないままホームルームが始まってしまった。


   ◇

 ホームルーム、終業式、成績表配布と、俺にとってはどうでもいい行事も滞りなく終わり、いよいよ放課後、決戦の時だ。

 みんなは席を立って家路につく。

 俺はわざと机の中を確かめたり鞄の中身を入れ替えたりするフリをしながら、一人で立ち去るタイミングをはかっていた。

 トシヤがケースケのところに駆け寄っていく。

「おい、ケースケ、福来軒行こうぜ!」

「どうせおごれってんだろ」と、相手も分かっているようだ。

「貸しがあるじゃんよ」

 と、そんなやりとりを見ていた女子二人組がトシヤに声をかけた。

「なになに、あんたら、福来軒行くの?」

 桜井さんと泉川さんだ。

 サッチンとミッポンと呼ばれていて、福本さんと同様、二人とも男子の視線を集めるタイプの女子だ。

 トシヤが耳まで赤くしながら、「お、おう」と困惑している。

 それはそうだ。

 ふだんは俺たちと接点なんかまるでない女子だからだ。

 掃除当番で同じ班だったときも、「あんたらゴミ捨ててきて」の一言しか会話がなかったくらいだ。

 そんな女子二人組がトシヤに詰め寄る。

「うちらも行っていい?」

 教室中の注目が集まる。

 トシヤは思いがけない出来事に、返事ができずにいる。

 人間って、あまりにも動揺しすぎると、本当にアワアワと言っちゃうんだな。

 俺もみっともない姿をさらさないように気をつけないとな。

 トシヤが一歩後ずさりながらようやく声をしぼり出した。

「な、なんでよ」

「なんでよって、おなかすいてるから」と桜井さんがさらに間合いを詰めた。

「でも、ラーメンだぜ。めっちゃ汗かくぜ」

「いいじゃん。夏こそラーメンでしょ」

 おいおい、トシヤと意見が合うじゃんか、と思わず俺は心の中で笑ってしまった。

 泉川さんもケースケに微笑みかける。

「うちらラーメン大好きだからさ。トシヤにおごるならうちらにもおごってよ」

「カ、カネねえし、……そんなに」とケースケもタジタジだ。

 二人の気持ちは分かる。

 非モテ連中にとって女子と何かをするというのは重荷なのだ。

 何を話せばいいのかも分からないし、いったん無言になったらもうどうにもならない。

 土下座して切腹したくなる。

 せっかくの寄り道くらい、男同士で気軽に行きたいのだ。

 カノジョがほしいと嘆きつつ、そんなきっかけができそうになると、急にビビって逃げ出してしまう悲しい生き物、それが非モテ男子なのだ。

 だが、モテ女子たちにはそんな情けない気持ちなど理解してもらえそうにないようだ。

「じゃあ、ケースケとトシヤが二人でうちらにおごるってことでいいでしょ」

 追い詰められたトシヤがついにめちゃくちゃなことを言い始めた。

「ラ、ラーメンだぜ。だ、だ、男子の前でズルズルすすれるのかよ。スパゲッティみたいにクルクル巻いて食うんじゃねえの」

 しかし、そんな抵抗はあっさり退けられた。

「うちらメッチャすするよね」と泉川さんが桜井さんと笑い合う。

「うん、チョーズルズルいくし。麺どころか、スープも最後の一滴まで吸引力落ちないし」

「ジェイソンかよ」と、トシヤがつぶやく。

 桜井さんが腹を抱えて笑い出す。

「『ジェ』じゃないでしょうよ、『ダ』でしょうよ。ジェイソンだと掃除機じゃなくてチェーンソーだよね」

「ラーメン屋がスプラッタじゃん」と泉川さんも涙をぬぐいながら笑っている。

 間違いに気づいたトシヤの顔が真っ赤にゆであがる。

 できるなら、バラバラに切り刻んでもらいたい心境だろうな。

「しょうがねえ、行くか」と、ついにトシヤも白旗をあげた。

 ケースケの腕をつかんで教室を出て行く。

 やったあ、と女子二人もついて行った。

 もはや俺のことなど誰も気にしていない。

 まあ、今日に限っては、そうしてくれるとありがたい。

 お互い頑張ろうな。

 心の中でエールを送りつつ、俺は一人鞄を持って指定された体育館倉庫に向かった。


   ◇

 この高校には体育館が二つある。

 全校集会でも使われる古い第一体育館と、やや小さめだけど冷暖房完備の第二体育館だ。

 体育館倉庫は元々第一体育館に付属していたのが、横に第二体育館を増設した関係で、敷地の裏側に回ったところに出入り口が移って、ちょっと不便な位置関係になっている。

 俺は部活には入っていないけど、授業の準備で重たいバスケットボールの篭を運ばされたことがあって、設計した人を呪ったものだ。

 ただ、そのおかげで、校舎側からは死角になっているから、下駄箱のラブレターで呼び出されるのにこれ以上の場所はないというわけだ。

 おまけに今日は終業式で先生方の行事があるから全員下校で部活動もない。

 変な邪魔が入る心配もないというわけだ。

 下駄箱前では、みんなが夏休みの話題で盛り上がっている。

 ちょうど、下駄箱の蓋を開けて靴を取り出した男子グループがいる。

 言いたくてうずうずしてしまう。

 なあ、おまえらさ、下駄箱のラブレター、見たことある?

 都市伝説じゃないんだぜ。

 リアルだよ、リアル。

 浮かれすぎだと分かっていても、もう止められない。

 いつもなら靴を履き替えたらまっすぐ帰るところだけど、俺は一人、わきにそれて体育館倉庫へ向かう。

 校舎と体育館をつなぐ屋根付きの外廊下を抜けて裏手に回る。

 まるで国境を越えるような緊張感だ。

 非モテ男子の俺にさようならだ。

 放課後の体育館周辺は予想通りしんと静まりかえっていた。

 校庭の周囲は桜の木が植えられた小高い土手で、今は葉が茂っていて、いい具合の木陰が広がっている。

 フェンスの向こうにちょうど福来軒の屋根が見える。

 今頃トシヤも楽しくやってるといいな。

 俺は上手くやれるだろうか。

 いざ相手が現れたらあいつみたいにアワアワしてしまうんじゃないだろうか。

 体育館の裏手にはコンクリートの階段があって、十段ほど上がらなければならない。

 べつにバスケットボールを運ばされているわけでもないのに一段ずつ踏みしめるたびに息が苦しくなる。

 落ち着けよ。

 富士登山じゃあるまいし。

 蒸し暑い空気をかき分けるように階段を上がりきったところは体育館倉庫だ。

 扉は閉まっている。

 鍵がかかっていたらどうしよう。

 もう中に誰かいるんだろうか。

 ここまで来てもまだ、からかわれてるだけなんじゃないかという疑念が晴れない。

 急に不安になる。

 心臓が口から飛び出しそうだ。

 だが、今さら引き返すわけにもいかない。

 俺は覚悟を決めて引き戸に手をかけた。

 ガラガラと音を立てながらあっさりと開く。

 俺は隙間から首を突っ込んで中の様子を確かめた。

 ……なんだよ。

 誰もいないのかよ。

 俺の方が早かったのか……。

 土ぼこりとボールなんかの革やゴムやら汗の混じった匂いが熱にあぶられて一気に鼻に飛び込んでくる。

 一瞬意識が遠くなりかけた。

 遠くから蝉の鳴き声が聞こえてくる。

 仕方がない。

 待つか。

 いないことが分かると、逆に、勝手に入り込んでしまって良いものなのか心配になる。

 外で待っていた方がいいだろうか。

 中にいるよりも、相手が来たかどうか分かりやすい。

 ただ、外にいて、別の誰かに見られるのも恥ずかしい。

 俺は扉を開けたまま中で待つことにした。

 倉庫の壁には、そのままプロレスリングになりそうな高跳び用の分厚いマットが立てかけられている。

 そのわきにはロールケーキみたいに巻かれた体操マットが並べられ、バレーボールやサッカーボールの篭が意外と整然と置かれている。

 昨日の大掃除で片づけさせたんだろうか。

 誰も来ない。

 まるで時が止まっているかのようだ。

 かろうじて動いているのは、開いた扉から差し込む夏の真っ白な光に照らされて蚊のように舞うほこりだけだ。

 放課後といっても、クラスによってホームルームの終わるタイミングが違うから少しくらい待たされてもしょうがない。

 それにしても、一体誰なんだろうか。

 俺はポケットの中から手紙を取り出した。

 あらためて見ると、ちょっと角張った癖があるけど、細くてまぎれもなく女子の文字だ。

 こんな几帳面な字を書く子が、悪質なイタズラをたくらんでいるとは思えない。

 なんて、勝手に良い方に想像しちゃって、俺ってやっぱりチョロい非モテ男子なのかな。

 だいたいまだイタズラの可能性だって捨てきれないというか、そっちの方が大きいのだ。

 早く来てくれないかな。

 とにかく落ち着かない。

 まあ、他に誰も来ないだろうけど、運動系の部活の連中が何かを取りにこないとも限らない。

 倉庫に勝手に入り込んでいるのが見つかったら、泥棒か何かと間違われてしまう。

『いやあ、女子に呼び出されちゃって』なんて言い訳、この俺がしたところで絶対に信じてもらえないだろう。

 思わず体が震えて、額から一筋の汗が流れる。

 ブウンッ……。

 うおッ!

 尻ポケットに入れておいたスマホが震えていた。

 おいおい、焦らせるなよ。

 通知画面に、ラーメン屋に行ったトシヤからのメッセージが表示されている。

 なんだよ、女子たちと一緒だからって浮かれやがって。

 手の中でもう一度震える。

 今度は写真まで送ってきやがった。

 チャーシュー麺を前にしたトシヤの頭にはウサギの耳がデコられている。

 おまけに女子二人に挟まれてニンニク山盛りにされてるし。

 はいはい、楽しんでくださいよ。

 俺は鞄の中にスマホを放り込んだ。

 まったく、どうせ、あいつにとってもう二度とない幸運なんだろうからな。

 それは俺にとっても同じ事なんだし。

 お互い様ってもんだ。

 しかし、それにしても暑いな。

 体育館倉庫はプレハブ小屋というやつで、屋根や壁からも熱が伝わってくるようだ。

 おまけに窓が閉まっているから、扉を開けただけでは風が通らなくて熱がこもってしまう。

 気がつくと俺は全身汗まみれだった。

 やばい。

 俺、匂わないか。

 前髪もぺったり額に張り付いている。

 お笑い芸人みたいな髪型になってるんじゃないか。

 俺はポケットからくしゃくしゃに丸まったハンカチを取り出して汗を拭いた。

 だが、拭けば拭くほどかえって汗が噴き出してくる。

 早く現れてほしいという願いと、今来られるとみっともないという焦りが両側から俺を挟み込んで、だんだん頭がクラクラしてくる。

 いつのまにか蝉の鳴き声すら聞こえなくなっていた。

 さすがに耐えられなくなってきて、外の日陰で待っていようかとしたときだった。

「あ、ごめん、待たせちゃったね」

 え!?

 内と外の境目で女子と鉢合わせしてしまった。

 薄闇に慣れた目に真上から照りつける真夏の光がまぶしすぎて思わず俺は目を細めた。

 いや、それは太陽のせいではなかった。

 俺は幻を見ているのだった。

 それはうちのクラスの福本さんだった。

 あの学年イチと称され、今朝、俺をにらみつけていた福本環奈さんが俺の目の前に立っているのだった。

 いかん、非モテもこじらせすぎるとこんなに強烈な幻覚に捕らわれてしまうのか。

 俺は頭を冷やそうと木陰を求めて体育館倉庫を出ようとした。

「ちょっと、どこ行くのよ?」

 幻覚が俺の前に立ち塞がり、柔和な微笑みを浮かべながら語りかけてくる。

 おまけに、なんかいい匂いがする。

 すごくリアルな妄想だ。

 幻覚の福本さんがさらに一歩間合いをつめて俺に迫ってくる。

 ふわりと甘いお菓子のような香りが鼻をくすぐる。

「中、暑かった?」

 あれ?

 まさか……。

「ウワッ!」

 思わず俺は叫んで一歩飛び退いていた。

 本物だよ。

 福本さんじゃん!

 どういうこと!?

 やばい、口がアワアワしてしまう。

 トシヤ、スマン。

 俺もヘタレだったよ。

 動揺している間に彼女がどんどん俺の方に迫ってきて、まるで俺は現場を押さえられた犯人のように倉庫の中に後ずさりしていた。

 だが、刑事役は間違いなく福本環奈さんだった。

 鼻筋がすっきりとしていて、まつげの長い二重の目が印象的だ。

 ふんわりとした髪の毛はキラキラと輝いている。

 逆光で影になっていても、透き通るような肌の白さがはっきりと分かる。

 デッサン用の石膏像みたいに整いすぎていて、ハーフのタレントさんと言われても納得してしまいそうだ。

 そんな美少女が柔らかな笑みを浮かべて俺をまっすぐに見つめている。

 こんなふうに彼女をしっかりと見たのは入学以来初めてだ。

 俺は言葉を失っていた。

 何か言おうとすればするほど頭の中が真っ白になっていく。

 俺は一歩下がろうとしてバスケットボールの篭に足を引っかけてしまった。

「おっと」

「あ、危ない」と、とっさに彼女が手を伸ばす。「大丈夫?」

「お、ああ」

 一気に彼女との間合いが詰まってしまった。

 逆壁ドンみたいじゃないか。

 心臓が破裂しそうだし、額の汗もナイアガラの勢いだ。

 全然トシヤのことを笑えない。

 こんなかわいい子が本当に俺なんかに用があるんだろうか。

 と、そのとき急に俺の頭の中で光がスパークした。

 あ、そうか。

 用があるのか。

 コクられることばっかり考えていたけど、この人はきっと俺に何か用があるんだ。

 あれだ。

 なんか生徒会の仕事を手伝ってほしいとか、文化祭の力仕事で協力してほしいとか、そういうことだろ。

 あは、あはは、そうだよな。

 いざとなると、目の前の現実から逃げだそうとしてしまう非モテ男子の悲しい本能が俺自身を無理矢理納得させようとフル回転していた。

 だが、現実はそんな俺を逃がしてはくれなかった。

 美少女が俺を見つめていた。

 どうしても視線を合わせることができずに、俺は体を横向きにして頭をかいた。

「あのさ、これ」と、福本さんが鞄の中から紙袋を差し出す。

「え、あ、はい」

 反射的に手を差し出て紙袋を受け取る。

 重くもなく、かといって軽くもない、絶妙な感覚だ。

 中で何かがカサリと音を立てる。

 こ、これは……。

 思わず手が震える。

「手作りなんだけど……」

 マジか!?

 俺はリボン型のシールを丁寧にはがして中を見た。

 間違いない。

 これこそ都市伝説最上位に君臨する『女子の手作りクッキー』じゃないか。

 俺は感動に震えていた。

 生きてて良かった。

「あ、あの、本当にこれ、俺が食べてもいいんですか」

「うん、頑張って作ったんだ」

 そ、そうなのか。

 夢……じゃないよね。

 夢じゃないんだよな。

 俺は袋からクッキーを一つ取り出した。

 うわお、ハート型だ。

 縁がほんのりと茶色くなって、いい焼き加減だ。

 表側はつるつるしていて、裏面は少しザラザラしている。

 俺はその手触りをじっくりと堪能していた。

 夢じゃない。

 この手触りがその証だ。

 美少女が上目遣いに俺を見ている。

 俺はクッキーを口に入れた。

 サクサクと軽い歯触りの後からふんわりと小麦の香りが抜けていき、舌に甘さが広がる。

 間違いない。

 手作りクッキーだ。

 しかも、かなりうまいやつだ。

「おいしい?」

 俺が無言だったせいか、福本さんがほんのり目の縁を赤くしながら、心配そうに首をかしげていた。

「は、はい。すごくおいしいです」

 俺は彼女を安心させようと、もう一枚取り出して勢いよく口に放り込んだ。

 リスかよ、というくらい頬を膨らませながらボリボリとクッキーを味わう。

 そんな俺の様子を見ながら彼女がまた笑みを浮かべてくれた。

「よかった。喜んでもらいたいなって、心を込めて作ったんだよ」

「あ、ありがとうございます」

 彼女が笑う。

「ねえ、さっきからなんで敬語なの」

「あ、いや、その、なんでだろうね」

 ぎこちない会話だけど、彼女が楽しそうに微笑んでくれているのなら、それでいいんだろう。

 ああ、聞かせてやりたい。

 見せてやりたい。

 トシヤに自慢してやりたい。

 なんなら世界中に生配信だ。

 さっきまでは誰かに見られたら恥ずかしいなんて思っていたくせに、俺はすっかり調子に乗っていた。

 とにかく俺の晴れ姿を見てくれ。

 こんな夢みたいな事、もう二度と起こらないのかもしれない。

 それでもいい。

 一度だけでもいい。

 今のこの瞬間が夢じゃないなら、俺にはそれで十分だ。

 夢……じゃないなら……ね。


   ◇

「ハーイ! オッケーでぇーっす!」

 出入り口からいきなり三人の男子生徒が顔を出して、体育館倉庫の中に入ってくる。

 スマホを構えているやつもいる。

 同じクラスのユウヤとアユムに、別のクラスの……たしかヒロキとかいうやつだ。

 俺は一瞬で現実に引き戻された。

 なんだ、やっぱりそうだったのか。

 ドッキリかよ。

 だよな……。

 分かってたことだし、負け惜しみでも何でもなく、逆に、心の中で俺は何度もうなずいてしまっていた。

 この方がよっぽど納得がいく。

 全部夢だったんじゃんか。

 そりゃそうだよ。

 俺にそんな幸運が舞い降りるはずがないんだ。

 口の中に残っていたクッキーのかけらが、奥歯に挟まれてジャリッと砕けた。

 スマホを構えたまま、ユウヤがゲラゲラ笑い出す。

「非モテ男子がニセの手紙で呼び出されて何期待しちゃってるんですかあ」

 アユムも手をたたいて喜んでいる。

「モロ引っかかってるし」

「生配信だからな。オマエのマヌケ面が全世界に広まるぜ」と、ヒロキが俺の顔をのぞき込むようにしながらあざける。

 さっきまでその生配信を望んでいた自分がめちゃくちゃ恥ずかしい。

 アユムが福本さんのクッキーを指さした。

「しっかしよ、カンナもこんな小道具まで作ってきて、チョー熱入ってんじゃん」

「ホント、悪い女だよな」と、ヒロキが一枚口に放り込む。「なんだよ、結構うまいじゃんか」

「オイオイ、まさか、本命なんじゃねえの」とユウヤがゲラゲラ笑いながらこちらにスマホを向けた。

 福本さんはうつむいたまま黙り込んでしまった。

 どうも様子が変だ。

 共犯にしては一緒に盛り上がるような雰囲気でもないようだ。

 俺はなんとなく彼女の顔が映らないように、ユウヤとの間に体をねじ込むようにさりげなく立つ位置を変えた。

 この期に及んで彼女をかばうべきなんだろうか。

 どこまでも俺はチョロい非モテ男子なんだろうか。

 ただ、福本さんはこいつらと一緒になって俺を馬鹿にしているようには思えなかった。

 さっきまでの会話だって、演技だとは思えない。

 いや、俺がだまされやすいだけなのか。

 いやいや、そうじゃない。

 俺がどうするべきかを決めなくちゃいけないんだ。

 俺が彼女を守るのかどうか。

 それを決めるべきなんだ。

 ただ、俺はやっぱり優柔不断な非モテ男子だ。

 結論が出ないまま無駄にカメラだけが回っていた。

 場の空気がよどんでいく。

「というわけで、ドッキリ大成功でした」

 ユウヤが自分の方にスマホを向けてシメのコメントをしようとしたところに、ヒロキがかぶせた。

「おっと、ユウヤ、まだカメラを止めるんじゃねえぞ。ここからがいいところだろうが」

 そう言うと、いきなりヒロキが俺と福本さんの鞄を取り上げた。

「ちょっと、何よ」と抵抗しようとする福本さんを、アユムが突き飛ばす。

「おめえもこのマヌケ野郎と一緒に閉じ込められてろよ」

「どういうことよ」

「おまえさ、弓崎先輩に恥かかせたろ」とアユムが福本さんをにらみつける。「マヌケ野郎と一緒に反省しろや」

 三人は体育館倉庫を出て引き戸を閉めると、外から鍵をかけてしまった。

「鞄は外に置いとくからな。けっ、ザマァ!」

 扉の向こうに高笑いを残して、やつらは去っていったようだった。


   ◇

 体育館倉庫の扉は外からは鍵をかけられるけど、こういう事態を想定していないのか、内側からは開けられないようになっていた。

 引き戸のレールは防犯用の留め具がついていて、扉がガッチリはめ込まれている。

 これでは、持ち上げたりずらしたりして外すこともできない。

 通風用の小さな窓はあるけど、人が通れるほどの余裕はない。

 鞄を取り上げられてしまってスマホもないから、助けを呼ぶこともできない。

 いつもは尻ポケットに入れてあるはずなのに、さっき鞄に入れてしまったのは失敗だった。

 トシヤのくだらないメッセージのせいだ

 二人で完全に閉じ込められてしまったのは間違いないようだった。

 さっきの三人の話からすると、福本さんはコクられた先輩に恥をかかせたことで恨みをかって、あの連中から嫌がらせをされたということらしい。

 ただ、かといって、あの下駄箱の手紙を書いたのが福本さんだとするなら、やつらの動画の共犯であることも間違いではないようだ。

 いったいどうなっているんだろうか。

 ただ、のんびり考えている場合ではなかった。

 ここから出る方法を考えなければならないし、非モテ男子ならではの問題もある。

 こんな美少女とこんなところに二人っきりで押し込められても間が持たないのだ。

 だまされたのかもしれないのに、この期に及んで俺は彼女に気をつかっていた。

 何か……何か言わなくては。

 こんな状態になって不安な彼女を安心させる一言。

 ……何一つ思いつかない。

 空っぽの頭をいくら探っても気の利いたセリフどころか、まったく何も浮かんでこない。

 頭の中は真っ白になるし、血の気が引いていく。

 密閉された空間が屋根からの熱でどんどん暑くなっていく。

 それなのに彼女は汗一つかいていない。

 どうして?

 美少女というのは、俺とは違う生き物なのか?

 落ち着け、俺。

 焦れば焦るほど汗が噴き出すばかりだった。

「あ、いや、あのさ。俺、別に怒ったりとかしてないから」

 ようやく絞り出した言葉はそれで精一杯だった。

 返事はない。

 うなだれているのか、視線をそらしているのか、そもそも俺のことなんか無視しているのか、彼女は無言だった。

「ま、あの、俺も自分のこと、それなりに分かってるつもりだからさ。何かのイタズラだろうなって分かってたし、そのつもりで来てみただけだからさ」

 それでもやっぱり反応はなかった。

 俺もこれ以上何を言っていいのか分からなくてあきらめるしかなかった。

 彼女に話しかけることよりも、ここを早く出る方法を考えた方がいいのかもしれない。

 遠くで蝉の鳴き声が響いている。

 叫んだり扉をたたいたりしていれば誰か来てくれるだろうか。

 普段の日ならそもそも部活の連中が道具を取りに来るんだろうけど、終業式で部活が中止だからその望みは薄そうだ。

 他に何か確実でいい方法はないだろうか。

 俺が考え事をしていると、誰かのつぶやく声が聞こえた。

「……ちがうの」

 え?

 福本さんだった。

「違うのよ」

 彼女が言葉を重ねる。

 違うって、何が?

 尋ねようとしても口がカラカラで声にならない。

 彼女は俺から顔をそらしたまま話し始めた。

「あいつら最近ね、ああいうイタズラ動画撮ってネットに流してるのよ。まあ、やってることがありきたりだからぜんぜん再生回数盛り上がらないらしいんだけどね」

 考えてみると、イタズラなんてやってる当人は面白がってるけど、関係ない人間が見ても調子に乗ってスベってる感じなんだろう。

「あ、勘違いしないでよ。あたしはそんなの絡んでないからね」

 彼女は両手を前に突き出して振りながら話を続けた。

「でもね、あいつらが今度はあんたを標的にしようって相談してたからさ。あたしがなんとかしなきゃって思ってさ」

「なんでよ」

「だからその……、どうせだったら、あたしの方がいいじゃん」

「だからなんで」

「なんでもいいでしょ!」と、急に感情をぶつけられてしまった。

 しかし、すぐに彼女がつぶやいた。

「ごめん」

「いや、べつに」

 相変わらず俺の方は情けないままだ。

 しっかり言えよ、俺。

 気にしてないからとか、大丈夫だから、とか、いろいろあるだろ。

 俺が言葉を探していると、彼女がポツリと言った。

「あんたのせいだからね」

 え、俺?

 いやいや、俺は被害者だよね。

 困惑している俺に、福本さんが強烈な一言を言い放った。

「だって、あたし、あんたのことが好きだから先輩のこと断ったんだし」

 アンタノコトガスキ?

 たぶん日本語なんだろうけど、言葉として認識できない。

 まるで白亜紀の地層から発掘された新種の恐竜の名前みたいだ。

 頭の中に文字が浮かんでくるのに、形が崩れてまるで意味が分からない。

 こういうのなんていうんだっけ?

 あ、あれだ!

 ゲシュタルト崩壊。

 いやいや、そんなことどうでもいいんだよ。

 そうじゃなくて、今なんて言った?

 アンタノコトガスキ……。

 非モテ男子の辞書にない言葉だからいくら脳内を検索しても翻訳不能だった。

『すき』とスマホに入力すると、どういうわけか、『隙、鋤、スキー』が先に出てきて、四番目にようやく『好き』が出てくるくらいの、スマホにまで認定された正真正銘の非モテ男子なのだ。

 と、いきなり彼女が俺のシャツの袖をつかんで引っ張った。

 うわ、汗でグチョグチョなんだけど……。

 でも、彼女はそんなこと、まったく気にしていないようだった。

「だから……好きなの」

 はあ?

「好きなんだってば」

 俺が何も言えずにいると、どんどん彼女の声が大きくなっていった。

「だから、本気なんだって。イタズラじゃなくてさ、マジで本気なの!」

 マジは本気……本気がマジで……マジがマジだから……ええと、何がマジなの?

 非モテ回路がショートして認識不能だ。

「あんたのことがずっと好きだったの。ずっと前からずっと見てたの。なのに全然気がついてくれなくてさ、メッチャ寂しかったんだから」

 ずっと見ていた。

 まるで気がつかなかった。

 寂しかった。

 みんなに注目されていた彼女が?

 俺が気がつかなかったから。

 俺のせいで寂しい思いをさせてしまっていたなんて。

 まさか、そんなことが……。

 彼女にシャツの袖を引っ張られるままに、俺はふらふらと体を揺らしていることしかできなかった。


   ◇

 福本さんが俺のシャツをつかんだままつぶやいた。

「あたしさ、昔っから男の人につきまとわれててさ。小学校の頃は変なオジサンが後ろをついてくるし、中学の時は同級生とか先輩にしょっちゅう呼び出されてたしさ。最近も出歩いてると芸能界に興味ありませんかとか、話聞いてくれませんかとか、ホント、しつこいのよ」

 なんだよ、自慢かよと一瞬思ったけど、まあ、確かにそれはそれで大変なんだろうな。

「美人すぎると苦労するんだね」

 彼女の頬が赤く染まる。

「けっこうさらっと言うよね」

 急に顔が熱くなる。

 彼女の方も首をかしげながらはにかんでいる。

「意外とそういうところあるよね。思ってた通りかも」

 これは褒められてるんだろうか。

「高校に入ってあんたと同じクラスになってね、なんか今までの人たちと違うなって思ったのよ」

 違う人?

「ちゃんとしてるっていうかさ、まわりに流されないっていうか、つるんでないっていうかさ」

 ええと、それはつまり、ボッチの裏返しってことですよね。

「なんかいったん気になり始めると、つい見ちゃっててさ。なんか、あたし、いつもあんたのことばっかり考えてて」

 はあ?

 いやいや、何言ってるの?

 俺のことばっかり考えてたって、まさかそんな。

 だが、彼女は話をやめなかった。

「あんたのことを考えてるとさ、なんか自然と楽しくなっちゃったりして。いつかちゃんと話せたらいいなとか、ずっと思ってたんだから」

 情けないことに、俺は何も言えずにいた。

 心臓がバクバクして、汗がだらだら垂れていく。

 こんな俺だよ。

 こんな俺のどこがいいの?

 福本さんがまた俺のシャツの袖を引っ張った。

「まだあたしのこと疑ってる?」

 俺はなんとか声を絞り出した。

「いや、最初から福本さんのことを疑ったりしてはいないよ」

「さっきイタズラだって思ってたって言ってたじゃん」

「いや、だから、あいつらのイタズラであって、福本さんが関係しているとは思ってないっていう意味で……。それに、そんな悪いことする人だなんて最初から思ってなかったし。だけど……」

「だけど?」

「けど、自分に自信がないからさ」

 首をかしげた彼女が寂しそうに俺を見上げた。

「あたしのことを信じる自信がないってこと?」

「そうじゃなくて」と、俺は首と手がちぎれ飛びそうなほど振りまくった。「福本さんみたいな人に好かれる理由が全然思いつかないってこと」

 なんだかもう、自分で言ってて悲しくなってくる。

 彼女がふっとため息をついた。

「あんた、ホントにもてないんだね」

 分かってるけど、実際に言われるとヘコむなあ。

「あ、ごめん。言い過ぎちゃった」

 謝られると情けなくてヘコむなあ。

「あんたもさ、けっこういいところあると思うよ」

 フォローされるのもヘコむもんだなあ。

 ついに彼女が笑い出した。

 体育館倉庫に彼女の朗らかな笑い声が響き渡る。

「あー、ごめん、ごめんね。でも、思ってたとおりだよ。あんたって、思ってたとおりの人だね」

 満面の笑みを浮かべた彼女が俺をじっと見つめる。

「ね、あたしじゃだめかな?」

 だめ?

 そんなの答えは決まってる。

「い、いや、あの……」

 彼女がその俺の答えを待っている。

 鼻の頭に浮いた汗が滴となって垂れた。

 そんなみっともない姿をさらしていても、彼女は俺のことをじっと見つめている。

 おい、藤垣海斗。

 しっかりしろ。

 この期に及んで、まだドッキリが続いているんじゃないかという疑念が心の片隅にわき起こる。

 だが、それをすぐに俺は振り払った。

 いいじゃないか。

 彼女を信じるか信じないか、それは俺が決めることじゃない。

 彼女をどう思うか。

 その気持ちはもう最初から決まっていたことじゃないか。

 だまされていようと、その気持ちが揺らぐことなどないのだ。

 俺の気持ちを知っているのは俺自身、俺だけだ。

 俺は覚悟を決めて目を閉じた。

 言え!

 言うんだ、カイト!

「俺は、あなたのことが好きです」

 全身の力が抜けそうになったそのとき、俺の唇に何かが触れた。

 目を閉じたままの俺の耳元で彼女のかすれた声が聞こえた。

「ありがとう」

 そっと目を開けたとき、そこにいるはずの彼女はどこにもいなかった。

 振り向こうとしたとき、鼻をすする音が聞こえた。

「見ないでよ」

 俺は直立不動の姿勢で、閉じたままの引き戸を見つめていた。

「あたしを泣かせた責任とってよね」

 俺はうなずくことしかできなかった。

 人は急に変われるものではない。

 ヘタレはいつまでもヘタレだ。

「でもね、あたしも、そういうところが好きなんだから」

 俺は黙ったまま、彼女のぬくもりを背中に感じていた。