バインダーを膝の上に置いて、桑野先生が私を見上げる。あの時と似ていた。

 最初に休部をしたいと打ち明けたときは、職員室だったけれど、こうして椅子に座った桑野先生に見上げられていた。

 よく似た状況で、だけど大きく違っているのは私の心はもう揺るがないということ。



「退部させてください」

 名前を記入した退部届を桑野先生に差し出す。周囲が騒ついた。
 きっと今バスケ部の人たちの視線は私に集まっている。そして、桑野先生もすぐには受け取ってはくれない。厳しい表情で私を見つめながら、一言。


「逃げるんだな」

 私を軽蔑するような眼差し。怯んでいないと言ったら嘘になるけれど、覚悟をしていたため目を逸らすことなく、桑野先生の言葉を受け止められた。


「逃げじゃなくて、これは選択です」

 はっきりと告げると、桑野先生の表情が苛立ちに染まり始める。


「迷惑かけている自覚はないのか?」
「私の身勝手で、部のみんなには、申し訳ないことをしていると思っています」
「わかっているくせに、その身勝手を通すつもりなのか」
「むしろ辞めたいと思っている人間がいると、輪を乱すことになりかねません」

 お母さんに流されるがまま、バスケ部に所属していたけれど、手を抜いていたわけではない。
 やるからには本気で努力してスタメンを目指していた。けれど、綻びがではじめて、辞めるという選択肢を見つけてしまった以上は、もう以前のように本気では取り組めない。


「お前が各学年の繋ぎ役になっていたのに、投げ出すのか」

 今まで口には出してこなかったけれど、上級生と下級生の不仲を桑野先生も知っていたようだった。
 てっきり桑野先生がいない場で起こっていたことが多かったため、気づいていないのかと思っていた。


「先生、それを知っていて見て見ぬふりをしていたんですか……?」
「生徒同士で解決すべきことだってあるだろう」

 友達同士の喧嘩であれば、無闇に口を出すべきではないときだってある。けれどここは部活で、人間関係がチーム内に影響が出ていたのは間違いない。

 本試合では、三年生がメインのためあまり影響はなかったけれど、練習試合で他の学年が混じるとなると話が別だ。


 気に入らない相手がミスをすれば、帰り道にわざと聞こえるような声の大きさで貶すことや、あえてパスを回さない人だっていた。

 先生は一人ひとりのスキルが上達して、勝てればいいと思っていたのかもしれないけれど、学年ごとに組まなかった場合のチームワークは最悪だった。



「……私が助けを求めても、甘えを言ったのは何故ですか」
「助け? 休部の件か? あれは休みたい言い訳かと……」

 体内に溜まっている負の感情を放出するように深く息を吐く。
 この人にはなにを言っても意味はないのかもしれない。だけどこれだけは、きちんと伝えておきたい。


「先生、もっと生徒のこと見てください」

 教師といっても人間だから、すべての悩みに耳を傾け続けるのは無理があるのだと思う。けれど、助けを求めてきた人の心を言い訳や甘えだと判断せずに、せめて隣に立って聞いてほしい。


「解決方法なんて見つからなかったとしても……私は一緒に考えてほしかったです」

 誰かに助けを求めるのは、簡単なことではない。あのときの私はすごく勇気を出して、職員室へ向かった。
 言葉にするのは怖かったけれど、部活に力を注いでいる桑野先生なら、部員の悩みにも親身になってくれるかもしれないなんて淡い期待を抱いてしまった。


 ——大丈夫。桑野先生ならきっと真剣に聞いてくれるよ。

 今思えば、私の言葉をくれたあの人は、こうなることを気づいていたのだろう。


「……間宮、」

 私の名前を呼んだものの、言葉が続かないようだった。
 初めて桑野先生が狼狽えたように見える。今まで威圧感のある桑野先生にはっきりと言う部員はいなかったからかもしれない。


「もう決めたんです。部活を辞めようって。だから、受理してください」

 差し出している退部届を、桑野先生が躊躇いがちに受け取る。

「……わかった」

 桑野先生が渋々いった様子で答えた。これで私はもうバスケ部の部員ではなくなる。


「朝葉……本気、なの?」

 背後から声をかけられて振り返ると、不安げな眼差しの杏里が立っている。