交換ウソ日記2 〜Erino's Note〜

 でも、できれば今日は先輩のことを考えたくない。

 じゃないと、ペースが乱れてしまう。私が私でなくなってしまう。




 なのに。

「江里乃ちゃん、今日デートしない?」

 授業が終わってすぐに先輩が教室にやってきて大きな声で私を誘った。デート、という言葉に優子が「え? なになに? そういうことなの?」と私の肩をバシバシと叩く。そのおかげで、慌てふためきそうになった自分を制することができた。

「なんなんですか、急に」
「せっかくだし一緒に帰らないかなって」
「……いいです、けど」

 せっかくだし、の意味はわからないけれど。

 幸い今日は生徒会はないし、希美も優子も彼氏と約束があるのでひとりで帰る予定だった。でも、どうして私を誘うのだろう。疑問を抱きながらも、断るという選択肢は浮かばず頷いた。

 先輩は「これもデートじゃない?」とまた私を惑わすようなことを言う。私をからかって遊んでいるだけなのだと結論づけて、能面のような顔で「さっさと帰りますよ」と教室を出た。先輩の一挙一動にこれ以上振り回されたくない。

 昇降口を出ると先輩が「さむ」と言って顔をしかめて肩をぎゅっと寄せた。先輩のチャコールグレーのマフラーがぱたぱたとなびく。

「あー、海とか行きてえなあ」
「え、いやですよ。寒いじゃないですか」

 信じられない言葉にぎょっとする。真冬に海なんて正気の沙汰ではない。

「じゃあ、夏になったら海でも行くか」

 これは、今年の夏の約束なのだろうか。ただの社交辞令なのだろうか。受け止めかたがわからなくて、ぼかした返事をする。けれど、先輩はそれに満足したのか「いいな海」と白い息を吐き出して、脳裏に海を思い描いているのか目を細めた。

 海辺で、先輩はきっとはしゃぎ回るだろう。スイカ割りとかしたがりそうだ。ビーチバレーとかも。あと山盛りの焼きそばとか手にしている姿も自然と浮かぶ。

 白い砂浜、青い空、透き通る海。その中で太陽みたいに笑う先輩。

「でも先輩は、山のほうが似合いそうですね。緑のイメージです」
「じゃあ、山も行くか」

 返事が軽すぎて、結局その程度の気持ちで誘っているのだと思った。きっと誰にでも同じようなことを言っているのだろう。

「でも江里乃ちゃんがそう言うなら、今度は緑色に染めてみよっかな」
「卒業式を控えてるんだからやめてください」

 桑野先生が泣いてしまう。それに私たちは先輩を知っているからまだしも、保護者の方々は目を丸くすることだろう。せっかくの卒業式なのに、先輩の緑色しか 記憶に残らないかもしれない。

「でも目立つだろ」
「今のカフェオレ色で十分目立ってますから大丈夫ですよ」
「もっと早くこの色にしとけばよかったよな、俺」

 自分の髪の毛を一房つまんで、先輩が光を当てる。

「この色にしてから江里乃ちゃんと仲良くなれたし。黒髪のときは、俺のこと毛虫を見るみたいな目で見てたもんな」
「……そこまでは思ってないですよ」

 たしかに今みたいな関係になったのは先輩が髪の毛を染めてきた日だった。ついでにポエムノートを拾った日だ。

「先輩が初対面で窓からやってきたから、なにをするのかと警戒してただけです」

「俺はその前から江里乃ちゃんのこと知ってたけどな。生徒会の選挙とか、たまに廊下を走っている生徒に注意したりしてるの見かけたし」

 そんなところを見られていたのかと思うと、ちょっと恥ずかしい。

「自分にも他人にも厳しそうな子だなって思ってた」
「よく言われますね」

 自分ではそんなつもりはないけれど。みんながそう言うならきっとそうなのだろうとも思っている。特に先輩に〝気持ちを添える〟ことに気づいた今では、厳しく思われていたのも納得だ。

 付き合っていた人に言われたトリプルパンチも、原因がわかった。

「もっと前からこの色だったら、去年の夏に一緒に山に行けたかもしれねえのにな。そしたらもっと江里乃ちゃんと一緒に過ごせたかも」

 それは、どういう意味なのか。

 反応を返せずぽかんとしてしまう。その瞬間、先輩の顔が引き締まり真剣な表情に変わった。その瞬間、先輩の手が私の肩に回される。

「わ!」

 ぐいっと引き寄せられ、先輩の胸に倒れ込むように抱きしめられた。

 な、なになになに? パニックで声が出ない。うわああ、と心の中で叫び声を上げると、背後を車が通り過ぎるエンジン音が聞こえた。

「あぶね、大丈夫か?」
「あ、は、はい。ありがとうございます」

 なにを、勘違いしたんだろう私。抱きしめられたかと思うとか先輩はバカみたいに突っ立っていた私を、車から守ってくれただけだ。羞恥で今すぐコンクリートを掘りたい!

 ぐちゃぐちゃになった気持ちを静めながら、歩きだした先輩の背中についていく。

「やっぱり、ひとりよりふたりのほうがいいよな」
「なんですか急に。でも、先輩はいつも誰かと一緒にいるじゃないですか」

 ひとりでいる姿を見るほうが珍しいくらいだ。

「ひとりでいるとさびしいから、誰かと一緒にいたくなるだろ?」

 先輩は、振り返らずに前を見たまま答えた。

「でも、結局ひとりになるよな。いつかはさ」
「そう、ですね」

 四六時中誰かと過ごすのは難しい。もちろんそうでない人もいるだろうけれど、少なくとも先輩の場合は、ひとりで過ごさなくちゃいけない時間が必ずある。

「そのさびしさをどうやってなくせばいいと思う?」
「……なくならないんじゃないですか?」

 と、口にしてしまったと思った。元も子もない話になってしまう。

 でも――ほかに言葉は思い浮かばなかった。

 だって、さびしさはゼロになんてならない。私でさえも感じるものだ。様々な原因で誰しもが抱く感情のはず。

 たぶん、解決策はない。それを取り除くことはできない。だから。

「それよりも楽しい想いをたくさん感じたらいいんじゃないですかね」

 無心で刺繍に励むとか、楽しい思い出の蓋を開けてみるとか。ひとつよりもふたつみっつと、増やしていけば、さびしい時間は減っていく気がする。

 こんな答えでいいのだろうかと思っていると、先輩がくるっと振り返った。

 目を細めて、愛おしむみたいなやさしいまなざしに心臓がわしづかみされる。


「じゃあ、江里乃ちゃんが一緒にいてくれたらいいよ」


 そう言って先輩は私の手を取り、再び前を向いて歩きだした。

 ――もしかして。

 自意識過剰かもしれない。けれど、そうとしか考えられない。

 ――先輩の好きな人って。

 視界で、なにかがパチパチとはじける。その先にいる先輩が光を放っているように見える。

 ――先輩の好きな人って私なんじゃないの?

 本当に? 思い違いじゃない? なんで? いつから? どういうこと?

 先輩が交換日記に書いていた相手が自分のことかは、わからない。先輩にあれほど想ってもらえるようななにかなんか、知らない。


 でも、どう考えても私なんじゃないの、という思いが拭えない。

 だって、そうだったらうれしいから。


 先輩のことを好きになっても無駄だと思った。だって先輩にはほかに好きな人がいる。そんな人を好きになっても、なんの見込みもない。それならば、気づかないふりをして、逃れようがないほど芽生えていた気持ちも目をそらしてごまかし続けてなかったことにしなければと思った。そうできるはずだと、信じて。

 でも、もしも。

 もしも先輩の好きな人が私なら?

 だったら、先輩への気持ちを認めても、いいんじゃないの?

 それって、両想いってことだよね。


 そう思った瞬間、胸から好きの気持ちがあふれて止まらなくなった。つながれた手から、色とりどりの花が咲き開き広がっていく。私の世界が突然、彩りあふれたものに変わっていく。

 それは、先輩と別れてひとりになってからも、家に帰ってからも。

 抱えきれずこぼれた想いをすくい集めて、ペンを走らせた。



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   先輩 私にもわかってきたかも
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   私も そんなふうに想う人が
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   好きな人が できました
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   おお、とうとう! 
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   これでななちゃんも一人前だな
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   次のステップは告白か
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   あ でも俺が先にするからな!
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   抜け駆けはしないように!
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 私に向けられた〝告白〟という単語に、

「無理無理無理無理」

 と、誰もいない靴箱で叫んだ。

 そんなのできるわけがない。そもそも、なんで私は前回のノートに余計なことを書き足してしまったのか。本人相手の交換日記だというのに。愚かにも浮かれていたとしか言いようがない。

「あーもう、もう、もう!」

 処理の方法がわからない感情を、言葉にして吐き出す。両手で紅潮しているだろう自分の顔を覆い、じっとしていられずその場で足踏みをした。

 落ち着け、落ち着くんだ私。

 心の中で十秒ゆっくり数えてから「よし」と口元を引き締め冷静さを取り戻す。けれど、すぐにへにゃへにゃと緩んでしまった。

 なんなのこれ。どうしていいのかわからない。自分の感情なのに、手に負えない。

 これが、恋なのか。

 先輩が好きだと、受け入れることができた昨日の放課後から、なにをしてても先輩のことを考えてしまい、浮かんでくる〝好き〟という言葉に心が弾む。弾みすぎて自分がどこにいるのか見失ってしまいそうになる。

 数日前から、薄々気づいていた。目をそらしてこの気持ちは存在しないものにしようとしていた。認めて、具現化してしまったらもう、なかったことにはできないから。失恋確定の想いなんて、存在しないほうがいい。

 とはいえ、言葉にするだけでこれほど気持ちが変わるとは。

 体内の細胞がひとつ残らず乗っ取られてしまったみたいだ。

 今度は壁に手をついて、項垂れる。まさか自分がこんなふうになってしまうとは。恋を舐めていた。耐えられない。けれど、幸福感のような充実感のような高揚感のような、名前のつけられないカラフルな感情が私の中を駆け巡っている。

 壁に体を預けて、ずるずるとしゃがみ込む。そして、再び交換日記を読んだ。

 抜け駆けなんてできるはずがない。

 私にはまだその勇気もないし、そもそも。そもそもだよ。

 ――先輩の好きな人が本当に私だったら。

 考えるだけでかっと体全体が熱くなり、今度はノートで顔を隠す。

 先輩の好きな人が私だとするならば、先輩は私に告白するということだ。

 でも、まだ確定ではない。今までその勘をはずしたことがないとはいえ、まだちゃんと確認したわけではないのだ。感情が先走って自分の気持ちを認めてしまったどころか、交換日記に書いてしまったけれど。
 勘違いだったらそれこそ恥ずか しすぎて死んでしまうかもしれない。

 いったん考えるのをやめよう。少なくとも、この交換日記の〝ななちゃん〟は先輩の好きな人を知らないのだ。もちろん、私――この場合〝ななちゃん〟――が好きな人が二ノ宮先輩だということも、ばれるわけにはいかない。

 あたりを見渡し高鳴る胸を抱えたまま返事を書く。余計な考えを捨て去り〝ななちゃん〟として。


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   告白なんてまだできないですよ!
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   自信がないので……
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   やっぱり告白するってすごいことですね
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   先輩みたいにいけるかもって思えないと
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   私にはできそうもないです
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 書いたあとに、そういえば……とページを遡った。

 ――『結構いけるんじゃねって思ってたり』

 たしかに、そう書いている。先輩は告白する人との関係をそう言っていた。その直後に『どうかなー』とも書いてあるけれど、この時点で先輩と先輩の好きな人はそれなりの関係だったようだ。

 私と先輩って、そんな関係だっただろうか。

 顔見知りで、見かけたら先輩は必ず声をかけてくれた。でも、今のような関係になったのはこの交換日記をはじめてからだ。少なくとも、それまでの私は先輩に対して特別な感情を抱いていなかった。

 ほかのページに書かれている内容も確認する。どうやら先輩は想い人に感謝をしているらしい。ひとりでいるのがさびしいときに出会った、というと、はじめてちゃんと会話をした一年半前のことだろうか。

 私、そんな感謝されるようなことしたっけ。家庭環境だって先日知ったばかりだ。

 それに、あのとき、救われたのは私のほうだ。

 窓から突然、やってきた先輩は、颯爽と私を助けに来てくれた特別ななにかのような印象を抱いたことを覚えている。

 あの日は、関谷くんに別れを告げられた日だった。

 泣いていたわけではない。ああ、またかとそう思っていただけだ。高校に入ってはじめての彼氏にも、中学時代と変わらない理由で振られるんだなと。

 ――『で、どうした?』

 先輩は、そう言った。そして、私は『なんでもないです』と答えた。存在は知っていても話したことのない人に、失恋したことなんて言えるわけがない。それに、私は悲しみに暮れていたわけでもない。
 けれど、誰かがなにかに気づいてくれた。

 それだけで、心にぽっかりと穴が開いたような気分が、埋まった。

 それ以上の会話をした記憶はない。先輩は深く事情を聞こうとはしなかったし、私は当然先輩のさびしさに気づいたりもしなかった。ただ、あまりに汗だくなので、『拭いたほうがいいですよ』と言った。

 感謝されるようなことは、思い当たらない。

 もしかすると、私はとんでもない勘違いをしているのかもしれない。空高くから大きな石が降ってきたような衝撃に、脳が揺れて焦点が定まらなくなる。

 これは、早急にはっきりさせなければいけない。

 でないと、日常生活が送れなくなりかねない。

「確認、しなきゃ」

 ただ、この交換日記で「誰が好きなんですか」と訊くわけにはいかない。不躾な質問になってしまうし、本音を言えば知りたいのに知るのが怖い。心の準備が足りない。とりあえず今は返事を書いたノートを靴箱に入れて、先輩から返ってくるのを待とうと決めた。



 けれど、その日先輩からの返事はなかった。

 昼休みに靴箱を見に行ったけれど、交換日記は私が入れたままの状態で中にあった。先輩が見た形跡はなく、がっくりと肩を落として教室に戻る。

 一度も学校で見かけないので、おそらく今日は来ていないのだろう。私と約束をしていたわけではない。本来は来なくてもいいのだから、いつ学校に来ていつ休もうが、先輩の自由だ。

 なのに。頭では理解しているのに。

 学校来るって言っていたじゃない、と先輩を責めたくなる。もしかしたらまた風邪でも引いているんじゃないかと心配する気持ちもあるのに、それよりも不満のほうが大きい。子どものように拗ねてしまう。先輩に文句を言いたくなる。そして、そんな自分がいやでいやで仕方なくなる。私はなんて自分勝手でいやな子なのかと、自分のことがきらいになる。

 目の前では、優子が希美に米田くんの愚痴を言っていた。原因はよくわからないが、また米田くんとケンカをしたらしい。前までなんでこんなに頻繁にケンカをするのか理解できなかった。お互い歩み寄ればいいだけだし、感情的にならずに話し合えばいいと、そう思っていた。

 でも、今はなんとなく、わかる。

 どうすればいいか、なんてことはみんなわかっている。ただ、どうにもできないのかもしれない。今の私のように。

「恋愛って大変だね……」

 優子に共感してつぶやくと、「また江里乃はクールなこと言うんだから!」と怒られた。



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   昨日は家で曲作りに集中してた
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   俺の場合は勢いもあるし 卒業もあるからな
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   このままじゃ後悔するから告白しようって
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   それが一番の理由だな
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   でも今は これからも一緒にいるために
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   告白しようって思ってる
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   一緒にいるためにってことは
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   やっぱり うまくいきそうな関係なんですね
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   でも 告白しないと後悔すると思うくらい
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   好きって すごいことだなって思いました
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   先輩がそんなに好きな人 誰か気になります
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「なんか江里乃、最近落ち着かない感じだけどどうしたの?」

 お弁当を食べていると希美に突然そう言われて、ぎくりと体を震わせた。

 希美のセリフに、そばにいた優子も「だよねえ」と私の顔を覗きこむ。優子のまじまじと観察するような視線から目をそらして「なにもないし」と答えた。

「いーや、絶対おかしい! キレがない!」
「なによ、キレって」
「いつものこう、ズバッ、ピシャ、って感じ」

 なんだそれは。

「本当になにもないって。気のせいだよ」

 こほんと咳払いをして、背筋を伸ばす。ただ、いまさら取り繕ったところでふたりは納得するはずもない。特に優子は「えー絶対おかしいよ」と疑いのまなざしで私を見続けた。

 けれど、ふたりに不審がられるのも仕方ない。先輩の好きな人は誰なのかずっと気になって考えてしまうし、おまけに勢いで返事に誰なのかを聞いてしまった。あんなこと書くんじゃなかった。絶対変に思われたはずだ。交換日記を回収して私の書いたページを破棄してしまいたい。

 昨日からずっと、そわそわしている。テスト間近だというのに、授業にも身が入らないのだから重傷だ。
 ――『これからも一緒にいるために』

 書かれた文字を思い出すと、寒さが吹き飛ぶくらいあたたかな気持ちに満たされる。それってやっぱり、私のことなのかな。

 ということは。

 もしかして先輩に私の気持ちがばれているってことになるのでは。

 え、なんで。いつから気づかれていたのだろうか。自覚してまだ数日なのに、先輩はその前から察していたのか。

 そう考えるとめちゃくちゃ恥ずかしい。

 ――と、ひとりで狼狽して悶えては深呼吸をして鎮める。

 その繰り返しで精神的に疲労が蓄積している。

 先輩は交換日記の返事で、好きな人の名前を教えてくれるだろうか。

 私の名前が書かれることを、私は期待している。

 でも、もしも別の人だったらと思うと、胸が張り裂けそうになる。

 ただ、傷は浅く済むだろう。今ならまだ、私はこの気持ちに蓋をして忘れられるはずだ。

「ちょっと生徒会室行ってくるね」
「最近毎日だねー」

 立ち上がると優子に言われてしまい、「まあね」と曖昧な返事をして逃げるように教室を出る。先輩との交換日記を受け取るためにこうしてウソばかりついていることが、後ろめたい。いつかばれてしまうのではないかと、怖くなる。

 いつまでこのウソを続けるのか。

 ……先輩の告白が終わるまでだ。

 本当に、そうなのだろうか。

 ふと疑問が浮かんだとき、どこかから音楽が聞こえてくることに気がついた。

 かすかに届くその音色を探すと、窓の外に先輩がいるのに気がついた。中庭のベンチでひとり、ギターを抱えて座っている。太陽の光が先輩の髪の毛に注いでいて、きらきらと輝いていた。まるでスポットライトを浴びているみたいに、先輩のまわりがわたしの視界から消える。

 外はまだ真冬だというのに、先輩を見ていると春だと錯覚してしまいそうだ。コートもマフラーも身につけていないのでそう見えるのかもしれない。

 先輩はいつも薄着だ。また風邪を引いたらどうするのだろう。

「なにしてるんですか、先輩」

 靴箱に向かわず、上靴のまま中庭に出てギターを弾いている先輩に話しかける。先輩は驚いた様子を見せず、手を止めてゆっくりと私を見上げた。

「あれ、江里乃ちゃんどうした」
「どうした、じゃないですよ。また風邪引きますよ」

 のほほんと返事をする先輩に呆れてしまう。

 先輩はぺしぺしとベンチを叩いて、私に隣に座るように促した。そっと腰を下ろすと、お尻からひんやりと冷気が伝わってくる。それを待っていたのか、またギターを鳴らしはじめる。

 聞き覚えのあるリズムだ。

「それ、前に楽器店で弾いてくれたのと同じですよね」
「そう、江里乃ちゃんの曲。いい出来だなと思って」

 中庭に、ギターの音が響く。店で手にしたエレキギターではなくアコースティックギターだと、前よりもやさしい音色だなと感じた。

「あと一ヶ月で卒業だな」

 先輩が、視線をギターのヘッドに向けながら呟いた。

 そうか。来月の今頃には、もう先輩はいないのか。

「さびしいですね」
「俺がいなくなるとさびしくなるよな、わかるわかる」
「……三年生がいなくなるのは、さびしくなりますね」

 にひひ、と言われたので素っ気ない返事をした。

 そのとおりです、なんて言えるわけがない。

「来週には引っ越しの準備もしなきゃいけないから、学校にも来れないし」
「え、引っ越すんですか?」
「大学まで片道二時間弱かかるからな」

 さすがに通いは面倒くさいだろ、と先輩が言った。

 その返事に、ほっとする。遠いところに行ってしまうのかと思った。片道二時間なら、毎日はしんどいけれどけっして遠くはない。

 けれど、その準備で学校に来なくなるということは、交換日記のやりとりはもうできなくなってしまうのか。

 心地よい音楽に身を任せていると「先輩がいなくなるのは、さびしいですね」と本音をこぼしてしまった。それにすぐに気づき、

「ほら、先輩は目立っていたので」

 と、慌てて言葉をつけ足す。

「はは、江里乃ちゃんにそう言ってもらえると自信になるよ」

 なんの自信なのか。

「今度焼き肉おごってやるよ」
「先輩をおだててたかるためにウソ言っているだけかもしれないですよ」

 焼き肉食べさせてもらえるのはうれしいけれど。

 そう言うと、先輩は手を止めて「それはないよ」と笑いながらもはっきりと、それこそ自信満々に否定した。私の顔をまっすぐに見据えて、断言する。


「江里乃ちゃんは、ウソをつかない」


 思考が一瞬、停止する。再起動するまで、表情を固めたまま「ど、うですかね」と言葉を吐き出す。まるで、ロボットみたいな、無機質な声になっていたかもしれない。

「江里乃ちゃんのことは信用してるから」

 なにを根拠にウソをつかないと言っているのだろう。私のなにを、どこを、信用しているのだろう。目をそらして地面に視線を落とす。なにか返事をしなければと思うのに、どうしても口を開くことができなかった。