「正論を理由にして、自分を守って、相手を否定してるんだろ」
「そんなっ、ことは」
「江里乃ちゃんは、正論を言ったから、相手はそれを責めてたと思ってる」
そうだ、そのとおりだ。
それのなにが逃げなのか。
「別に正論が間違ってるなんて、江里乃ちゃんは思ってないくせに」
「っ、せ、先輩だって、そう言ったじゃないですか」
「言ったよ。でもたぶん、あの友だちの言ったことも正しい」
先輩はあっさりと認めた。なのに、彼女たちのことも認める。
意味がわからない。正しいことを言って、それを責められるのならば、相手が間違っているからじゃないのか。
悔しくて先輩の手を振りほどこうと力を入れたけれど、先輩の力はそれ以上に強かった。けっして離さない。それは、私を逃がさないと、そう思われているように感じて、歯噛みする。
なんなの、なにが言いたいの。どうしたいの。
胸が詰まり、呼吸が荒くなるのが自分でわかった。それを先輩に悟られないように、先輩を睨めつける。
「正しいことと間違っていることだけが争いの原因じゃない」
なんで? じゃあどうして人は争うのか、ケンカするのか。口に出して訊こうと思ったのに、唇が震えてうまく言葉にできなかった。
「正論は正しい。でも、口にするのは江里乃ちゃんだろ」
口を結んだまま、頷く。
「だから、疎ましがられたのは、江里乃ちゃんだ」
はっきりと言われて、体に電流が走る。
――私が原因なのだと。先輩はそう言った。
その言葉に、言葉を失うほどのショックを受ける。先輩に、そんなことを言われるなんて思ってもみなかった。それほど、知らず知らずのうちに自分が先輩に甘えていたんだとわかる。
喉が萎んで声が出ない。少しでも力を加えると涙が出てきそうになる。瞬きもせずに呆然と立っていると、先輩はだらりと垂れ下がるもう片方の私の手を取った。
「俺、テスト勉強しなかったから、今回の試験ボロボロだと思うんだよな」
拍子抜けするような、あっけらかんとした声が耳に届く。
なんの話をしはじめるのかと眉間にしわを刻んで視線を持ち上げると、先輩がにんまりと片頬を引き上げる。
「そう言われたら、江里乃ちゃんなんて言う?」
「なんてって……そりゃ『当然じゃないですか』って」
「そのとおり!」
先輩が目を見開いて私に顔を近づけた。反射的に身を引く。吃驚して零れかけた涙が引っ込んでしまった。
「そこに言葉をプラスすればいいんじゃね? 前後に少し付け加えることができる隠された江里乃ちゃんの気持ちを」
自分の気持ちなのに隠すもなにもないだろう。ますます眉根のしわを深くしつつも、とりあえず考えた。前後に言葉を足すとしたら。
「大丈夫なんですか……とかですかね?」
「もう一声」
オークションか、と思わず突っ込む。
「そりゃ当然じゃないですか。えーっと、次は、勉強してくださいね?」
最後に疑問符をつけてしまったけれど、これでいいのだろうか。そもそもこんな言葉でいいのか。
「七十点ってところか。模範解答は『えー、大丈夫なんですか? もう、なんで勉強しなかったんですか。今度からはちゃんとしてくださいね、心配です!』かな」
「いや、もとの文章ないじゃないですか」
「細かいことはまあ置いといて」
ゆっくりと先輩が歩きだして、私たちは並んで歩いた。片方の手は、今もつながれている。隣の道路を大きなトラックが通り過ぎていった。
「相手によって、その前後の言葉って違うだろ、たぶん」
「たしかに、そうかもしれないですね」
希美だったら『なにかあったの?』と心配するかもしれない。優子なら『今度は頑張ろうね』と言うだろうか。嫌いな相手だったら、もっと突き放した言い方をするかもしれない。
「相手のことを知ったら、自分の気持ちも一緒じゃないだろ」
ノートに書かれていた先輩の文章を思い出した。相手のことをわかろうとしないと、伝わらない。それは、こういう意味だったのだろうか。
「江里乃ちゃんの正論は、通常版って感じだな。誰でも言える、誰もが思うまっとうな意見。だから、伝わらない。それを特別仕様にしてやればいいんだよ」
もしかして私は、ずっと言葉足らずだったのだろうか。
「正論に、気持ちを添えて言ってみな」
気持ちを、添える。
――『伝えるだけでも伝わらないし』
――『自分で思っているほど 伝えてないってこともあるかもな』
私はずっと、自分の意見を口にできる性格だと思っていた。思ったことははっきり言葉にして伝えてきたつもりだった。
「百人いれば百人の考え方がある。百人に思う江里乃ちゃんの気持ちも同じじゃない。だから、伝え方も百通りあると思えば?」
中学のときの気持ちを思い返した。もっと練習がしたかったのは、もっとみんなでバレーをしたかったから。怠けている友だちを許せなかったのは、彼女ならやればできると信じていたから。
力を合わせれば前よりも点数が取れると思っていたから。
バレー部のみんなを、信用していたから。みんなと一緒に試合に勝ちたかったから。
喜びをみんなと味わいたかったから。
私は、そう言えば、よかったのか。
でも、そうしていたからといって、うまくいったかどうかはわからない。どんな言い方をしても、私たちはわかり合えなかったかもしれない。それに、あのときのことは忘れられないし、いまさら彼女との関係をどうにかしたいとも思っていない。そう思うのは冷たいだろうか。
「人と人だからな。意見や気持ちがすれ違ってけんかもするしわかり合えないこともある。どちらも正しい、は、どちらも間違ってるとも言えるしな。でもなにかに責任を押しつけるのは、無責任に俺は思う」
私の考えていることを読み取ったみたいに、先輩が言った。
そばにあるカフェショップから、ほろ苦いコーヒーの香りがした。それだけで、胸があたたかくなって体から力が抜けていく。
「正論は正しい。でも、口にするのは江里乃ちゃんだから、疎ましがられたのは、江里乃ちゃんだ」
さっき私に言ったセリフを、先輩は繰り返した。
「これに俺の気持ちを添えると、『正論は正しいけど、江里乃ちゃんが言葉足らずだったから、友だちに誤解されたかもしれない。江里乃ちゃんはやさしくて、みんなのことが大好きなはずだから』になるんだよ」
ほら違うだろ、と先輩が振り返った。
同じ言葉なのに、先輩のやさしが添えられると、さっきとは違う感情で私の涙腺が刺激される。歯を食いしばらないと涙があふれてしまいそうになる。
「……泣いてもいいけどどうする?」
「泣かないので、前を見ててください」
なんとか涙声にならないように答えた。
私が泣きそうなことに気づいてわざわざそんなことを言うなんて、先輩も意地が悪い。きっと、私の返事が虚勢を張っているだけのことも気づいていたのだろう。、先輩は「了解」と言って、後ろを振り返らずに私の手を引いて歩いてくれた。
道路を何台もの車が通り過ぎていく。そのたびに車のテールランプに先輩の髪の毛が照らされる。それは、私のにじんだ視界の中でイルミネーションよりきれいに輝いていた。
これを、ずっと見ていたいなあ。
そんな願いが胸に浮かんで、それは小さな明かりになって私を灯した。
恋って、こんなふうに生まれるものなのかもしれない。
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ありがとうございます
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たしかに そうだったのかも
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これからは伝えるようにがんばります
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先輩は言葉の魔術師みたい
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そんな先輩の歌ならきっと 伝わりますよ
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今日は朝からどこにも不調はなかった。
昨晩、希美からメッセージで昨日私の鞄とコートが保健室にあった理由を教えてくれた。どうやら希美と優子が昼休みの終わりに念のためと持ってきてくれたらしい。そして、そこにはすでに先輩がいて、私の事情を伝えたと。先輩が強引だったのは、私の体調不良の原因も、関谷くんとの会話を聞かれていたことから察していたからかもしれない。
先輩は、想像以上に人の気持ちを感じ取ってくれる人なのだろう。
――私も、そんな先輩に少しでも近づけるだろうか。
朝から決心していたけれど、やっぱり本番の昼休みになると緊張がピークに達する。鼻から息を吸って、ゆっくり口から吐き出す。まだ少し弱腰になりそうな気持ちを、必死に奮い立たせて、そして、生徒会室のドアを見た。跳ねる心臓を落ち着かせるようにもう一度息を吐き出して背筋を伸ばし、ドアに手をかけて開ける。
中にいた関谷くんと佐々木さんの視線が私に集まる。
「松本?」
「な、なんで」
驚いた様子のふたりに「突然ごめんね」と言って足を踏み入れる。口から心臓がものすごい勢いで伸縮しながら飛び出てきそうだ。
「この前の話を、ちゃんとしないとって思って」
机の上に散らばっている資料に、やっぱり私を抜きにして仕事を進めるつもりだったのだとわかった。私はいらないんだという声が聞こえてきた気がして、目の奥がツンと痛む。
わかり合えないかもしれない。いまさらかもしれない。
でも、それを、正論のせいにして終わらせたくはない。
「言葉足らずで――」
「なんで来ちゃうんですか、江里乃先輩!」
私の言葉を遮って、佐々木さんが叫んだ。その口調は、責められているようでもあり、落ち込んでいるようにも聞こえる。「え」と言葉が途切れてしまった。
「完璧に仕事をできるようになって見返してやろうと思ったのに!」
見返す? 私を? 佐々木さんが? なんでそんな思考に?
「えっと……」
困惑する私に気づいた関谷くんが、困ったように眉を下げて笑った。
「佐々木さんと話したら、自分の頼まれていることの重要性がいまいちピンときてなかったみたいでさ。なにが重要で、それにはなにが必要か、とか」
関谷くんに言われて、それはたしかにそうかもしれない、と思った。もちろん都度説明はしていたものの、佐々木さんに私の作業を手伝ってもらうことはなかった。私がどういう流れで仕事をしているのかも知らないかもしれない。
私も去年佐々木さんと同じようなことをやっていたけれど、私の場合は先輩に聞いたりそばで見ていたり想像したりしていたと思う。それを、知らず知らずのうちに、私は佐々木さんに課していた。
私ができていること、できていたことは、彼女もできて当たり前だと思っていたのだ。できない理由を、考えることもしなかった。
「あ、あたしだってやればできるんです!」
資料を握りつぶしそうな勢いで手に力を込めた佐々木さんは、その言葉を自分に言い聞かせているようだった。
そうさせてしまったのは、私だ。
「ごめんね。その、言葉足らずで、厳しい言い方になっちゃって」
佐々木さんに近づき、項垂れている彼女の手を取った。
「謝るだけじゃなくて、これからどうするのかを考えてほしかったの。じゃないと、私が言ったからそうする、になってしまうから」
月曜日、佐々木さんに言った言葉を思い出しながら、気持ちを添えてもう一度、あらためて伝える。
「いつまでも同じことを繰り返していたら、えっと、もし佐々木さんが来年も生徒会を続けていたときに、その、困るかもしれないと思って」
いつもならもっとはっきり口にできるのにしどろもどろになってしまい、目線が生徒会室をさまよう。佐々木さんや関谷くんの顔を見ることができない。
――気持ちを言葉にするのって、こんなに、難しくて、勇気がいるんだ。
自分の素直な気持ちだからこそ、相手の反応が気になる。手に汗握りながら、それでも、と自分を叱咤して言葉を続ける。
「私の仕事をお願いしないって言ったのも、怒ってたんじゃなくてそうすることでどうすればいいのか、気づくこともあるんじゃないかと、思ったから」
と、口にして「いや、本音を言えば怒ってたけど」と訂正する。相手に寄り添うやさしい言葉だけでは、きっと伝わらない。
「私は、自分の言ったことが間違っているとは思ってない。けど、言い方が悪かったと、思ってる。それに、配慮が足りなくて、ごめんなさい」
ぺこりと頭を下げて、ほかに言うべきことはあっただろうかと頭の中でぐるぐると考える。そのあいだ、ふたりからの反応は返ってこなかった。
しんと静まった生徒会室に、廊下からの喧噪がかすかに響く。誰かの足音に笑い声、それらが遠ざかっていくのを待つように、誰も口を開かなかった。
「すみません」
その沈黙を破ったのは、佐々木さんだった。
ゆっくりと顔を上げて彼女と視線を合わせる。
「あたし、先輩の言っていることまんま受け取って、むかついてました」
「あの、その、ごめんね」
言葉を添えたあとだと、自分の言葉がどれだけ言葉足らずで厳しかったかがわかる。私は端的に言いすぎている。
「でも、本当は先輩がそう思ってくれていることも気づいていたんです。あたしのせいで先輩が困っていることだって、わかっていたのに、先輩ならなんとかするからまあいいかって、大丈夫だろうって」
いつも元気な佐々木さんがしゅんとして肩を落としていた。
「あの日、怒って帰っちゃったから、だから、呆れられたんだって思って」
「え? 帰ってないよ? 帰ったのはみんなでしょ」
戻ってきたら誰もいなかった日のことだろう。
ただ、桑野先生に資料をもらいに行っただけだ。でも、あのときの私は資料を受け取るためにカバンを手にしていて、寒いからとコートも持って出た。直前の会話を思い出せば、そう思われるのも無理はない。
「それ、次の日の生徒会室で気づきました。置いて帰ったはずの資料を片付けていたので。本当は、あたしが悪いのでそれをひとりでやろうと思ってたんです」
「だから、松本にはしばらく休んでいいって、伝えたんだ」
関谷くんが肩をすくめて佐々木さんの言葉に補足する。
「あの日は佐々木さんも落ち込んでたから、とりあえず帰ろうってなって。松本も戻ってこないと思ってたから。松本は怒ってると思って、説明しなかった」
そういうことだったのか。体中に張り巡らされていた不安が、するすると解けていく。なんだ、すれ違っていただけだったのか。
「でも、ひとりじゃやっぱり全然わからなくて、昼休みに関谷先輩に教えてもらってたんです」
悔しそうに、佐々木さんは口元を歪ませる。
「あたしでもできるんだって見返したかったのに、江里乃先輩にどれだけ頼り切っていたかわかっただけでした」
そう言って、すみませんでした、と佐々木さんが深々と頭を下げる。
「佐々木さん、私と一緒に作業しようか」
「よろしくお願いします」
「厳しいかもしれないけど、覚悟してね。でも、私の言い方が悪かったら、怒ってね。そのときは、言い直すチャンスをちょうだい」
佐々木さんは「今までで一番難易度が高い指示ですよそれ」と、ふふっと頬を緩ませる。その微笑みに、心が平らかになって私の体が軽くなった。
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魔術師だったか 俺は!
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あ、あと返事くれてほっとした
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三年だからって もうくれないかもと思った
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歌の練習のためにこれからも学校に来るから
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魔術師でもやっぱり歌詞は自信ねえなあ
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この前学校で先輩を見かけたので!
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魔術師先輩でも
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想いを歌詞にするって難しいんですね
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どんな想いか 訊いてもいいですか?
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想い! なんだろ
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とにかく好きって感じかな
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俺 実は家族が結構放任主義で
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ひとりぼっちで過ごすことが多くてさ
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そんなときに出会った子で
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本当に一緒にいるとほっとするというか
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うーんなんだろ 感謝と 願い かな
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生徒会での仕事を終えて、返事を受け取ったのは放課後。
「危なかった……」
家に帰ってきて、交換日記を改めて広げて呟く。
三年生はすでに自由登校になったけれど、前に先輩が学校に来ると言っていたので、なにも気にせず返事を書いて靴箱に入れてしまった。突っ込まれたときは血の気が引く思いだったけれど、なんとかごまかせたらしい。
先輩は本当にほぼ毎日学校に来ているらしく、以前と変わらずちょくちょくグラウンドで遊んでいる姿を見かける。
でも、一緒に出かけた日以来、先輩と顔を合わすもののすれ違うくらいなので挨拶程度しか言葉を交わしていない。それを少しさびしいと思っていて、でも顔を見ると心が弾んだり萎んだりする。今でも、思い出すだけでお腹の中でなにかが動く。ぱたぱたと羽ばたくような。そのまま羽が生えてしまいそうなほどの、不思議な痛みに襲われる。
床に座ったままベッドにもたれかかり天井を仰ぐ。そしてノートを開いたまま顔にのせた。自分がどんな顔をしているのかわからなくて、それをどこにも晒したくなくて隠す。
先輩が学校に来てくれるのはうれしい。でも、その理由はもしかして、ひとりきりの家にいたくないからなのかもしれない。
先輩からの文章には心細さがにじんでいるように感じる。
「江里乃姉ちゃんー、ご飯まだあ?」
「……まだに決まってるでしょ。もうちょっとだから待ってて」
ドアをノックもせずに部屋に入ってきた弟は、空腹で倒れそう、とでも言いたげに猫背だ。育ち盛りの弟には、先輩と出かけて帰りが遅くなったとき、事前に連絡をしていなかったことで怒られた。帰りにコンビニでデザートを買ってきたから許してもらえたけれど。
「あと一時間以内にはお母さんも帰ってくると思うから」
吹奏楽部で忙しい妹も、そろそろ帰ってくるころだろう。もうちょっと待ってて、ともう一度言うと、弟は唇をとがらせて「じゃあゲームしていい?」と言った。抜け目がない。
仕方がないな、と立ち上がって弟と一緒にリビングに向かう。
両親は共働きで、帰宅もそれほど早くない。まだ妹や弟が幼い頃は夕方には帰ってきてくれたけれど、私が中学生になってからは「江里乃がしっかりしているから」という理由で残業をするようになった。顔を合わせるのは朝と晩だけ。休日も部活だとかでよく家を空ける。
それを不満に思ったことはない。世話を焼くのは嫌いではないし、家事も嫌いじゃない。けれど、弟はまだ小学生だ。それに、私だってまったくさびしさを感じていないわけではない。
弟がテレビゲームの電源を入れる。その後ろでソファに座り、作りかけの布巾を取り出した。
私に刺繍という趣味ができたのは、必要に駆られたこともあるけれど、時間つぶしにちょうどよかったからだ。余計なことを考えることなく夢中になれば、時間が過ぎるのも早い。
テレビ画面と向かい合いコントローラーを操作する弟の背中を見ながら、布に針を刺していく。
今ここに私ひとりだったら、どれほど心細かっただろう。
あと一時間もすれば母親が帰ってくるとはいえ、想像するだけで室内の温度がぐんっと下がっていく。
先輩はどんな気持ちで今を過ごしているのだろう。
私のことを救ってくれた先輩に、私はなにができるだろうか。先輩がいなければ、私は今も生徒会には顔を出せなかっただろうし、腹痛を我慢して無理をし続けていたはずだ。佐々木さんの気持ちを知ることもできなかったに違いない。
先輩は私の今も、未来も、救ってくれた。
感謝してもしきれないこの想いを、先輩にどう返せばいいのだろう。
また、ちくりと布に針を刺す。吸い込まれるように刺繍糸が通り、そしてまた針を刺すとそこから伸びてくる。その繰り返し、そしてときに糸を針に巻き付け、柄を生み出していく。ピンク色の糸が、絵を描く。
先輩の好きな人は、そのさびしさを和らげてくれるようだ。もしかしたら、今も一緒にいるのかもしれない。一緒に笑っているのだろうか。
想像すると、少し胸がざわついた。
体の中の、手の届かないどこかがうずく。
先輩に想われている人は、どんな人なのだろう。あのサイドテールの女子だろうか。それとも別の人だろうか。
誰にでもやさしい先輩が特別な感情を抱いているのだから、相手はきっと素敵な人なのだろう。
私なんかよりもずっと。
比較すると、泣きたくなる。羨ましくて、手を伸ばしたくなる。相手を想像なんてしたくないのに、イメージを膨らませ、自分との違いをひとつひとつ確認する。知らないのだから無意味なことだとわかっているのに。
でも、それでもいい。
それでも、先輩がさびしさを忘れて過ごせていることを、願う。
感謝と、願い。
この想いが、どういう名前のものなのか、わかっているけれど気づかないふりをして手を動かし続けた。気づいたところで、なんの期待もできない、惨めでむなしい感情に支配されるだけなのだから。
咲きかけのつぼみでも、水を与えなければ朽ちていくはずだ。
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感謝と願いって ステキですね
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そんなふうに想い想われたいです
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「ま、間に合ったあ……」
ぜえぜえと息を切らせながら教室に入る。いつもは誰もいないのに、今日はほとんどのクラスメイトがそろっている。
それも当然で、今はチャイムが鳴る一分前だ。
「おはよ、珍しいね江里乃がギリギリなんて」
「希美、おはよ。ね、寝坊した……めちゃくちゃ焦ったよー、お父さんに車で駅まで送ってもらってなんとか、って感じ」
よろよろと席に座り、呼吸を整える。
まさか私がいつも家を出る時間に目を覚ますことになるとは。時間を見た瞬間叫び声を上げてしまった。父親が車通勤だったので、無理を言って普段より早めに家を出てもらってなんとかという感じだ。
「江里乃が寝坊って。さてはドラマ止められなかったんでしょー」
「まあ、そんな感じ。ついつい、ね」
ははは、と乾いた笑いを優子に返す。
交換日記の返事を書いて、さあ寝よう、とベッドに入ったけれど布団の中で先輩の想い人のことばかりを考えてしまい、これではだめだと刺繍をはじめた。睡魔に襲われるまで手を動かし続けないと眠ることができなかった。おかげで就寝は朝方だ。
なんでこんならしくないことをしてしまったのか。
それに、交換日記の返事もあんなこっぱずかしいことを書いてしまった。遅刻ギリギリだったせいで返事を靴箱に入れることはできなかったけれど、そのぶん、あの返事を消して別の内容を吟味しよう。