顔を上げると、私の隣には二ノ宮先輩がいた。私よりも半歩前に出ている姿は、まるで私を関谷くんから守ってくれているかのように見えた。
先輩は関谷くんを見つめている。チャコールグレーのコートのファスナーがめいっぱい上まで閉められていて、口元が見えない。そのせいで表情が読み取りづらい。けれど、どこか声色が怒っているように思えた。声がくぐもっているからそう感じるのだろうか。
ぐっと、私の肩にのせられた先輩の手に力が入る。
「二ノ宮先輩……?」
呼びかけると、先輩がぴくりと反応を示す。そして、
「帰るところだったんだろ? 行こう」
くるりと向きを変えて、先輩は私の肩を抱いたまま歩き出した。先輩は、私と目を合わさない。いつもの先輩とは別人のような雰囲気に、戸惑ってしまう。
「あ、じゃ、じゃあ」
顔だけを関谷くんに向けて、とりあえず挨拶をして先輩についていく。前を向いたままずんずん歩く先輩が立ち止まったのは、私の使用している靴箱の前だった。
「……先輩?」
呼びかけると、数秒間を空けてから、先輩は私に視線を合わせてくれた。けれど、不機嫌そうに眉を寄せている。先輩のそんな顔、はじめて見た。
「江里乃ちゃん、なんであんな男と付き合ってたんだよ」
「へ?」
なんで急にそんな話になるのか。っていうか、なんで知っているのか。
「付き合ってたくせに江里乃ちゃんのこと理解してねえとか、見る目がなさ過ぎる」
「……それは私がですか? 関谷くんがですか?」
「この場合どっちもだな」
私の質問に、先輩は肩をすくめて言った。肩に触れていた先輩の手は、自然に私の手に降りてくる。触れる先輩の手に、私の手がびりびりと電気が走ったようにふ震えた。体温が高いのか、先輩の手はとてもぬくい。そして大きい。つながれていないほうの手は、指先が痛むほど冷たいのに、先輩に包まれているほうの手はじんわりとぬくまってきて、体まであたたかくなってくる。
今までなら、もういいでしょ、と振りほどいていただろう。
なのに、それができない。
――『正論は、正しい論だから、正しいに決まってるだろ』
さっき言ってくれた先輩の声が、鼓膜に残っていて、胸がきゅっと縮む。
なんだろうこの感じ。むずむずと胸の中でなにかが羽ばたいている感じ。
とはいえ、いつまでもこのままここに突っ立っているわけにはいかない。
「あの、先輩」
動かない先輩に呼びかける。
「先輩?」
返事がないのでもう一度呼びかける。
ん、と短く答えた先輩は靴を履き替えることなく再び歩き出す。その足取りは、どこかふわふわしていた。それに、なんとなく首元が赤い。まるで、お酒を飲んで帰ってきた父のようだ。
……え、飲んでたりしないよね。
いやいや、まさかね。だって学校だし。さすがにそれはないか。
「あの、先輩?」
もう一度呼びかけると、先輩は振り返った。その目は、潤んでいる。そして、足を止めたかと思うとふらついて靴箱にぶつかった。握られた手に、じわりと汗が浮かんできていた。先輩の手が、あまりに熱いからだ。
つながっていた手をぐいと引き寄せて、先輩に顔を寄せる。ぺたりと額に手を当てて、そのままコートのファスナーを下ろす。顔はほてったように真っ赤に染まっていて、呼吸が荒い。コートでこもった空気から熱を感じるのに、先輩の体はかすかに震えている。
――この症状は、間違いなく風邪だ。
「つ、疲れた……」
家の中でがっくりと膝をつく。
「悪いな、江里乃ちゃん」
「悪いと思ってるなら、早く着替えてベッドに入ってください」
そう言うと、床に座り込んでいた先輩はふうっと気合いを入れてから立ち上がりベッドに腰掛けた。その様子を確認してから、リビングに向かう。
家、といってもここは私の家ではなく、先輩の住むマンションだ。
学校でよろめいた先輩をひとりで帰らせることができず、 学校の最寄り駅から二駅、徒歩で五分にあるという先輩の家まで送り届けたのだ。おまけに家には誰もいないというので駅前にある薬局で風邪薬と食べられるだろうものをいくつか買ってきた。話を聞けばお昼になにも食べていないらしい。
意識はあるもの の体に力が入らないらしく、ずっと肩を貸していたせいで体が痛い。話を聞けば朝から体調が悪く、今日は一日保健室で過ごしていたらしい。どうして休まないのか理解ができない。
腰を叩きながら誰もいないリビングに「お邪魔しますー」と小声で言った。
マンションの外観から気づいていたけれど、先輩の家はかなり広くてきれいだ。シンプルなリビングは、二十畳近くありそうだし、置かれているソファはどう見ても高級そうだし。窓から見える景色は、十八階建ての十六階ということもあり、なかなかいい。先輩の家はお金持ちだったようだ。
「なんか、モデルルームみたいだなあ」
ほわーっと口をあけて、オープンキッチンをまじまじと見る。我が家の油がこびりついたコンロとは別物の、ぴっかぴかのコンロが眩しい。流しも水あかがない。スポンジだってきれいだ。どうやったらこんなふうに保てるのか教えてほしい。
でも、きれいすぎるとさびしげな空気を感じるのだと、今日初めて知った。この家の中は、外よりも寒々しい。
部屋の観察はほどほどにして、今は先輩をどうにかしなくてはいけない。
「冷蔵庫失礼しまーす」
勝手に人の家の冷蔵庫を開けることに躊躇しながらも、さっき買ったスポーツドリンクや桃の缶詰を入れていく。そしてレトルトのおかゆを耐熱容器(だと思われる)にあけ、ラップをかけてレンジであたためる。
「先輩、どうですか?」
あたたまったおかゆを手にして、玄関から一番近い部屋のドアをノックすると「大丈夫」と返ってきた。中に入ると、先輩はちゃんと着替えてベッドに横になっている。近づいて「とりあえずこれ食べて薬飲んでください」とおかゆを手渡した。
先輩の部屋は、リビングに比べると生活感にあふれていた。床に散らばった本や服も、先輩らしい。
壁にはバンドのポスターや、だれが書いたのかわからないが、色鮮やかな絵が飾られている。それにアンプや赤色のエレキギター、アコースティックギターもあった。
これで好きな人に弾き語りでもするのだろうか。その姿をちょっと見てみたいなと思った。文化祭で、先輩が歌っているところを見ておけばよかったな。
そして、緑色のカーテンは先輩にはとてもよく似合っている。
初めて出会ったときに、肩についていたあの葉のような。
ごちそうさま、と声が聞こえて先輩から8割ほど減ったおかゆの器を受け取り、かわりに水と風邪薬を渡した。それを飲んだのを確認してリビングに戻る。洗い物と片付けを済ませて再び先輩の部屋に入ると、先輩は再びベッドに横になっていた。ベッドのそばに腰を下ろし、寒くないですか、と訊くと「たぶん」とよくわからない返事をされた。
「熱がどのくらいあるのかちょっとわからないんですけど、とりあえず今日はあたたかくして寝てください」
「おでこ冷やしたりしないの?」
「したいならしますけど……体まだ寒いんじゃないですか? だったらしばらくは冷やさないほうがいいと思いますよ」
そうなんだ、と先輩が感嘆の声を上げた。
「ここにおでこを冷やすものと、飲み物も置いておきますね」
ベッドのヘッドボードにふたつを置くと「助かる」と言った。軽く食べたことと、横になっていることで少し楽になったのか、さっきよりも意識がはっきりしている目をしていた。そして、なぜか先輩の双眸は、捕らえるみたいに私にまっすぐ向けられている。熱で潤んでいるその目は艶やかさがあり、じっと見つめられると変な汗が浮かんでくる。目を合わせられなくなる。
「じゃあ、私はこれで。あとはご家族に」
早くこの部屋から、この家から出ないと。体調の悪い人をひとりにするのは心配ではあるけれど、いつまでもいられないし、このままこの部屋にいると私がおかしくなってしまうかもしれない。
そう思って立ち上がろうとすると、
「俺の家族、めったに家に帰ってこないからなあ」
と、先輩のさびしげな声に体が止まった。
「え? な、なんでですか」
「仕事とか、遊びとか。たしか母さんは今出張だったかも。父さんは、なんだっけ」
大学生のお兄さんもいるらしいけれど、最近はめったに家に帰ってこないようだ。父親は研究者で会社に泊まり込んだり会社近くのホテルで寝泊まりすることが多いらしく、母親は全国各地に出張ばかりの特殊な仕事をしている、と先輩はぽつぽつと教えてくれた。
「そうなんですね」
先輩は頭をころんと横にして、私の顔を見つめてからゆっくりとまぶたを閉じた。
「だから、家の中に誰かがいるの、変な感じするな」
ふふっと、子どもが甘えられるのがうれしいみたいに笑う。
キッチンが新品のようにピカピカだったのは、あまり使用していないからかもしれない。この家で、先輩はほとんどの時間をひとりで過ごしているのだろうか。
とても広くて、きれいなマンションだ。
だけど、ひとりでは、広すぎる。
「それは、さびしいですね」
「まあ、昔からだから。それぞれ好きに生きてるからか、俺のことに口出ししないのは結構楽だよ」
だとしても、体調を崩したときは心細いはずだ。
「ご飯、とかは」
「自分で作ることもないわけじゃないけど、外食とか出前が多いな。小学校くらいまではお弁当が用意されてたりもしたけど」
私の両親も共働きだ。けれど毎日顔を合わせている。体調が悪いときは仕事を休んでついていてくれる。両親がちゃんといてくれれば、先輩が学校に行って風邪が悪化するようなことにはならなかったはず。
「そのぶん家族がそろって外食とかするときはめちゃくちゃ楽しいけどな。全員好き勝手しゃべって、しっちゃかめっちゃかになるんだ」
ふは、と先輩が思い出し笑いをする。けれど、その表情にはさびしさが含まれていた。
先輩に、こんな表情は似合わない。
いつも笑っている先輩が、こんな気持ちを隠していたなんて。笑いながらもひとりの時間を過ごしてきたのかと思うと、くやしくて憤る。
先輩は、若葉のようなまぶしいほど生き生きとした人のはずなのに。
思いがけず、知らなかった先輩の一面に、胸が締め付けられる。
「……でも、そんなの、親としておかしいですよ」
「それでいいんだよ、俺は」
私の言葉を、先輩が力強く遮る。
風邪で弱っているはずなのに、先輩のまなざしは、強い。
「誰にも大なり小なりみんな不満ってのはあるもんだろ。完璧な人もいねえし。それが、俺にとってはときどきさびしい、ってだけのこと」
そう言われると、そう、かもしれない。
母の口うるさいところとか、料理があまりうまくないところとか、父の気が弱いところとか、妹の生意気なところに弟の甘えん坊なところ。それぞれに不満はある。家族だけじゃない、友人にだってそうだ。
「普通も、幸せも、不満も、いろんな形があるもんだろ?」
先輩に、私は一生かなわないなと思った。私は、そんなふうに考えたことがなかった。自分の思うものが正解だと知らず知らずに思い込んでいたのだと気づかされる。先輩のまわりにたくさんの人がいるのは、みんなを受け止めてくれるあたたかくて大きな考えかたをするからなのかもしれない。
「なにも知らないのに、すみません」
関谷くんに言われた内容も、佐々木さんに対する対応も、きっとどこかですべてはつながっている。私は、同じところでいつも失敗をしているのだ。
昔から、ずっと。
「俺のことが好きで心配で、ひとりなんてかわいそうだ、なんでそんなことを好きな人にするんだーって、思った?」
なんだそのポジティブシンギングは。
「いや、そこまでは……」
申し訳ない気持ちが飛散する。なんでこのタイミングでそんな調子に乗ったようなことを言うのか。せっかく好印象を抱いたのに。
冷めた視線を向けると、先輩は布団から手を出して私の頭にのせた。そして、髪の毛を乱すほどぐちゃぐちゃになで回す。
「な、なにするんですか!」
「いい子だなと思って。真面目で、しっかり者で、いつも自分のことより人の気持ちを考えることができて、やさしい」
褒めちぎりすぎだ。
「もういいですから。ほら、さっさと寝て、さっさと風邪治してください」
「はいはい」
「だいたい、運動してたら暑くなるからってこの時期に薄着で汗かいてそのまま過ごしていたんじゃないですか。自業自得ですよ」
「病人に厳しいな」
はあっとため息交じりな先輩の声に、はっとする。
この状況で言うべきではなかったことに今更気づいた。
「でも、江里乃ちゃんの言うことは正しいからな」
言葉を詰まらせた私に気づいたのか、先輩は目を細めてやさしげな笑みを浮かべて私に言った。そして、先輩が関谷くんに言ってくれたセリフが蘇る。
――『正論は、正しい論だから、正しいに決まってるだろ』
さっきは先輩の登場に驚いてその言葉を聞き流してしまっていた。けれど、改めて反芻すると、胸にじんわりと染みこんできて、目頭が熱くなる。
そんなこと、今まで誰にも言われたことがなかった。
さっき私の頭を乱暴になで回した先輩の手が、今度はやさしく触れてきた。まるで、私を慰めるみたいなゆっくりした動きに目の奥がツンと痛む。涙をこらえることに必死で、その手を止めることも言葉を発することもできなかった。
しばらく動けないでいると、先輩の手がするっと落ちてくる。それをそっと受け止める。いつの間にか先輩は眠ってしまったようで、寝息が聞こえてきた。
受け止めた先輩の手は大きくて、細くて長い指は、男子と言うより男性のもので、こうして触れていると、いけないことをしているみたいに感じてくる。そして、なぜか手放したくないとも思った。
起こさないようにその手を布団の中に戻し、眠っている先輩の顔をのぞき込む。目を閉じている先輩は、起きているときとは少し印象が違って見えた。薄い唇のせいか、どことなく儚げに見える。
ついこの前まで、私にとっての二ノ宮先輩はただ名前を知っている先輩だった。けれど、今はこうしてこの人の家の中にいるなんて、不思議だ。
この関係をなんて呼べばいいのだろうか。前は顔見知りで、先輩と後輩で――今は、友だち、みたいなものだろうか。
自分の頭に触れると、先輩の熱がまだそこに残っているような気がした。
心臓が、いつもよりも激しく震えている。
けれど、それが心地いい。
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悪いこといやなこともあるけど
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俺はいいことや好きなことのほうが大事
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ななちゃんにもそういうの あるんじゃない?
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悪いところはたくさんあっても
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そのままのきみで いてほしい
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そう思える人やものが
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金曜日、先輩と一緒だったために靴箱を確認できたのは月曜の朝だった。
この土日は交換日記よりも先輩の体のことばかりを気にしてしまった。ちゃんと元気になっていたらいいけれど、連絡先を知らないのでたしかめるすべはない。
先週末に書いてくれたであろう文字を読み、そうだね、とつぶやく。いやなことがあっても、それだけじゃないんだ。少なくとも、大事な人のことはそう思っている自分がいる。いい面も悪い面もひっくるめて、好きだと思える人。
希美や優子やクラスの友だち、家族。
そして――。
最後に浮かんだのは二ノ宮先輩だった。
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先輩に言われてなんとなく理解しました
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私も恋ができるような気がしてきました
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っていうか先輩明日からテストですよね
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ななちゃんも恋する日が近いんじゃね?
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どんなやつを好きになるんだろ
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三年はもうテストなんかいらねえよな
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テスト終わって学校来なくてよくなったら
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告白のあれこれ考えねえと
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とうとうですね!
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歌 いい感じですか?
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歌詞も楽しみです
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楽しみですってなんだ。
自分で自分の書いた内容に思わず突っ込みを入れてしまった。しかも、朝返事を靴箱に入れてしばらくしてから、ひとり教室で悶える。
あの交換日記の中の私は、普段の私よりテンションが高くてキャピキャピしているような気がする。自分を〝ななちゃん〟だと思って書いているからだろうか。
だめだな、落ち着かないと。
ぺちぺちと頬を軽く叩いて普段の自分に戻らなければと意識する。そんなことを朝からずっと続けてしまった。今日の昼休みもまだ先輩がノートを受け取っていないことも原因に含まれる。三年は一足先にテスト期間に突入したからだと思うので、明日の朝まで返事はないに違いない。でも、一応帰りに靴箱を見てみようかな。
「じゃあまた明日ー」
授業が終わって教室に残っている希美と優子に声をかけると、「生徒会がんばって」と笑顔で送り出してくれた。
希美とは、あれからも瀬戸山の話はしていない。今までの私なら希美に合わせて黙っていても、内心イライラしていたことだろう。優子みたいにはっきりと嫉妬を口に出されたら、キツいことを言ってしまったに違いない。
けれど、今は仕方ないもんな、と流すことができている。それは、先輩との交換日記と、先輩との会話のおかげだ。
「あれ、江里乃ちゃん」
軽い足取りで渡り廊下を歩いていると、目の前から二ノ宮先輩がやってくる。肩にギターケースを持っていた。
「先輩、なにしてるんですか」
テストは午前中で終わったはずなのに。
「帰っても暇だから、ひとりで遊んでた。いい天気だから中庭に行こうかなと思ってたところ」
そう言って、ギターケースをひょいっと持ち上げる。中庭でギターを弾くつもりのようだ。人が集まりすぎなければいいけれど。
「それに、ちょっとすることもあったからね」
ふふっと秘密を楽しむみたいに口元を緩ませた先輩に、小さく体が震えた。それって、交換日記のことだろうか。先輩もやりとりを楽しみにしてくれているのかと思うと、うれしい。
「どうかした?」
「いえ、なんでも」
私まで口元がへにゃっと緩みそうになるのを耐えていると、先輩が不思議そうな顔をしてのぞき込む。顔をそらして興味なさそうに返事をするけれど、変に思われていないだろうかと心臓が騒がしくなる。露骨な反応を見せてしまうとばれてしまうかもしれないのに。
「っていうか、先輩、受験は大丈夫なんですか」
「俺もう進路決まってるから問題ないよ。春から美大生」
「美大生?」
話を逸らすと、予想だにしなかった答えが返ってきた。美大ってことは、絵を描くってことだ。先輩が? 意外すぎる、と思ったけれど、先輩の部屋に飾られていた絵のことを思い出した。以前下ろした垂れ幕も、先輩が作ったものなのかもしれない。
「もしかして、部屋に飾ってたのって、先輩が描いたものなんですか?」
「そうそう。ずっと絵も習ってたしな。アトリエっつーの? そういうやつ」
「そうだったんですね。おめでとうございます」
絵の勉強もしていたということは、ずいぶん前から進路を決めていたのだろう。先のことなんて考えていなさそうだと思っていた自分が恥ずかしくなる。私は本当に先輩のことをなにも知らず、おまけに軽視していた。最低だ。
「音楽もできて絵も描けるなんて、多才ですね」
私にはない才能だ。小学生のころにちょっとだけピアノを習っていたけれどすぐに辞めてしまったし、絵に関しては壊滅的だ。私の唯一の不得手なことだと言えるかもしれない。手先は器用なので工作はできるのだけれど。
「江里乃ちゃんが俺を褒めるなんて珍しいな、どうした」
「思ったことを言っただけですよ」
「懐かなかった高級純血種の猫が、やっと警戒心を解いてくれたか」
「人をペット扱いしないでください」
やたらと話しかけてきたのは、そんなふうに見ていたからなのか。キャンディーはもしや餌付けだったのでは。
「今日は元気そうだな」
「いつも元気ですよ。先輩ほどじゃないですけど」
でもお菓子をもらうならいただきますよ、と言うと先輩は「しゃーねえな」と、私に個包装されたチョコレートを手渡してきた。毎日なにかしらのお菓子をポケットに忍ばせているらしい。
「今度、江里乃ちゃんに絵を描いてやろうか? 将来値が張るかもよ」
「いいんですか? お言葉に甘えますよ」
「受け取ってくれるなら、いくらでも」
そんなこと言い出したら、学校中の生徒が欲しがると思うけれど。
私のために、ということは今あるものではなく新たになにかを描いてくれるのだろうか。どんなものなのか想像できないからこそ、楽しみだ。
「将来お金に困ったら売り飛ばせるように有名になってやるよ」
「貧しくなっても、先輩が描いてくれたものを売るわけないじゃないですか」
一生手放さないですよ、と言葉を付け足した。
「自分が困ってるのに?」
「そりゃそうでしょ。それに、売ったら先輩が悲しむじゃないですか」
売ってほしいのだろうか。
不思議に思いつつ答えると、先輩は困ったように眉を下げて私を見た。けれど、口の端がゆるく持ち上がっている。どういう感情を抱いているのかわからない表情に、首をかしげる。