蹴飛ばされた小石がカランコロンと転がっていく。既に寝静まった街中に空虚な音が響く。溜息を付けば白い霧となって視界を塞ぐ。
 既に十二月も後半だ。静かな諦めを感じつつ、小さなアパート、私の家に辿り着いた。ドアを開けても、「お帰りなさい」なんて言ってくれる人はいない。部屋に明かりを灯し、草臥(くたび)れた革靴を脱ぎ捨てる。

――何処まで行っても詰まんねえ人生だ。

 何処で、一体何処で何を間違ってしまったのか。その問に応える人もまた、居ない。

 自分一人の為だけに風呂を沸かすと余計に虚しさが増すので、シャワーだけ浴びる。一日の疲れや、汚れが落ちてゆく。心にこびり付いてしまった穢れはもう落とす事は出来ない。

 風呂場から上がると手持ち無沙汰になる。ここでビールなんかを引っ張り出して、酔いに沈むのも悪くは無いが、明日も仕事があるので酒に余り強くない私は呑まない方が良いだろう。無音を切り裂くようにしてテレビを付け、ただ眺めて時間を潰していた。

 ふっと視界が明るくなった。朝のニュースの音が聞こえてくる。昨日はあのままソファで寝付いてしまったようだ。今日もまた、無意味な一日が始まる。さっさと味のしない朝食を流し込み、鞄を持って家を出る。次帰ってくるときは、また一人だ。

「まもなく、一番線に電車が参ります。黄色い線の……」

 親の声よりも聞いたアナウンスが今日も怠惰に喋っている。私は日常の喧騒に包まれていく。やっとの事で辿り着いた職場、世間は大手企業なんて思っているが、ここは人を人とも思っていない。下っ端の代わりはいくらでも、という考えの元成り立っているのだ。まだ眠気の覚めぬ顔にポーカーフェイスを貼り付けて、自動ドアを(くぐ)る。

 帰り道で、不自然に輝く街並みを見た。あれは……イルミネーションだろうか。腕時計の日付を見遣ると十二月二十四日とあるのが見えた。

――そうか、今日はクリスマスイブだ。

 眩しい灯りに引き寄せられる蛾のように、私はイルミネーションに近づいて行く。イルミネーションは駅前を覆うようにして張り巡らされており、その下を虫けらの様な人影が、良い歳して意味も無くヘラヘラ(わら)いながら歩き回っている。子供達が楽しそうにしているのを見て、私は柄にもなく郷愁に近いものに襲われる。

 私も、きっとクリスマスを楽しんでいた。プレゼントやケーキ、友達や家族と過ごす幸せな時間を、輝きに満ちた顔で。何時からだろうか、世界が輝かなくなったのは。

 子供の頃、私は何だって出来た。足だって速かったし、勉強だって余裕だった。あの頃はそれさえあれば、幸福な人生だと信じ込んでいた。ところが、今私が立っているのはこんなにも下らない場所だなんて。心の奥からせり上がって来るようなどろどろした感情を冷え切ったペットボトルの水で押し戻す。

「くだらねぇ」

 吐き捨てて、その場を後にする一匹の醜い蛾。その飛び立つ先に光は無い。

 雪が降ってきた。これから遅めの初詣に行こうとしていたのに。タイミングの悪いことだ。冷え切った風は、容赦なく私に斬りつける。段々と積もりゆく雪で、歪んだ視界が銀世界になった。
 鳥居を潜り、真っ直ぐに社へ向かう。

――この寒いのに手なんか誰が清めるか。

 適当に五円玉を投げ入れて、上辺だけでも祈る。

――そうだ、雪だるまでも作ろうか。

 頭にふと浮かんだ考えを、すぐさま実行する。三箇日もとっくに過ぎ去り、雪の降りしきる小さな神社に私以外の人など居るはずもなく、私はじっくりと雪玉を大きくしていく。大きな胴体を作り終え、少し小振りな頭を乗せる。のっぺらぼうの顔面に石と棒を埋め込んで完成だ。我ながら良い出来だと思う。静かな愉悦に浸りながら、私はその場を後にした。

 翌日も、そのまた翌日も、凍えるような寒さは収まりを知らず、雪は既に氷と化している。毎朝仕事に行く前に神社に寄って雪だるまの様子を見る。すっかり氷になり、もう溶けることもなさそうなほど、硬くなっている。彼を見る度に何だか心が温もる様な気がした。

 天井から吊るした縄。どうしてもそこに吊られる勇気が出ない。私は今日解雇された。上のミスを押し付けられて。どうしようもないと分かっている。きっと、間違えたのだ。これは何かのミスだ。私は、もう終わらせる事にした。それなのに、私は、まだここに立っている。
 生きるのは辛い、死ぬのも怖い。既に逃げ場は無い。頭が割れそうな程に痛む。誰も、その答えを教えてはくれない。

 のろのろと惰性で歩いていた。気付くとそこは神社だ。雪だるまは、既に溶けて半壊していた。

――お前も私を見捨てるのか。

 狂気の怒りが湧いてくる。最後の理性も消し飛んだ。

 全部アイツらのせいだ。私が何をした?私が悪い筈が無いだろう?きっと、私は間違えただけだ。その原因はアイツらだ。
 そうだ、全員消えてしまえば良い。どうしてもっと早く気付かなかったのだろう。

 暗い愉悦に浸りながら、嗤った。心の底から嗤った。何年振りだろう、こんなに嗤ったのは。冬の凍てつく空に嗤い声は吸い込まれていく。私は嗤いながら神社を出た。もう何も恐れる事はない。

 虚無に呑み込まれ、嗤い続ける彼が、後ろから近付くヘッドライトに気づく事はなかった。

 愚かな蛾は、光り輝く電流の檻に吸い込まれて行く。己の周りにもっと沢山の美しい光があった事にも気付かずに。
 光に触れてみて漸く知るのだ、自分の過ちを。

 その夜から再び降り出した雪が道端に倒れる人影を白く縁取っていく。彼は、過ちに気付いただろうか。