夕暮れが来て、街中が橙にそまる時間。
 あたしは部屋から飛び出していく。
 細い路地にはもう夕餉の香りが漂っている。鼻がぴくぴく動きそうだ。香辛料を効かせた豆のスープ。青菜と鶏の炊きあわせ。お魚を焼く匂いに、温められたパンの香ばしさ。いろんな匂いの中を走っていく。
 路地を抜けて大通りへ。小汚く敷かれただけの煉瓦が模様をなす色煉瓦になり、風の流れも変わった。つん、と少しだけ刺激のある水の匂いが空気に混じり、ほんのりと甘い花の香も広がっている。
 はっと短く息を吐いてあたしは足を止めた。
 いつだって、大通りは綺麗だ。
 街の中心にある川に沿って作られたこの通りは、旧王城へも続いていたし、今はいろんなお店が建ち並ぶにぎやかな場所だ。今だっておしゃれな服を着た人たちが、快活そうな労働者が、こうるさい子供たちが、それぞれに歩いている。
 少しだけ自分の姿を見下ろした。継ぎのある長いスカート。襟のよれたシャツ。自分では見えないけれど、人参みたいな赤毛もさぞくるくる巻かれていることだろう。
 ……ま、仕方ない。仕事前だしね。
 心の中でつぶやいて、そっと顔を上げた。きらきら光る川に色とりどりの花壇の花。その中をきょろきょろ見回して――あ。
「おじさーん!」
 見つけた長身の男の人へ駆け寄っていく。
 橙に薄藍が混じり始めた世界に立つ、濃い藍色の制服姿。金糸の刺繍が入った帽子が黒々とした髪を覆っている。
 ともすれば夜に紛れそうな格好だけれど、もちろんそうはならない。
 だって――ほら。
「やあ、メイ。おはよう」
 小さな垂れ目に鷲鼻。それと鼻の下のちょびっとしたお髭。
 振り返ったおじさんの顔は、同時にあたたかな橙の光に照らされた。
 たった今、瓦斯灯に火が入れられたからだ。
 別に寒くはなかったはずなのだけど、少しだけあたたかくなった気がしてあたしはにっこり笑っていた。
「お仕事お疲れさま」
「ありがとう。メイはこれからかな?」
「うん。ねぇ、今何本目?」
「五十七」
「じゃ、あと半分だね」
 歩きだしたおじさんの隣に並んで見上げると、おじさんは苦笑いした。
「今日もついてくるのかな?」
「えー、当然」
「元気だなぁ」
 おじさんの眉毛が困ったように垂れ下がる。あたしはそんなおじさんの顔が好きだ。
 おじさんの歩く速さは、あたしが軽く小走りするくらいだ。迫ってきている藍色の世界が完全に街を支配する前に、おじさんの持ち回り全ての瓦斯灯に灯をともさなければならないから当然だ。
 おじさんは手に長い点灯棒を持っている。一度だけ持たせてもらったことがあるけれど、これが結構重たいんだ。でもおじさんはひょいひょいとそれを操っていく。
 大通りに点々とある深い緑色の瓦斯灯。その下にいって、棒を伸ばす。瓦斯灯のガラスの下から中へ入れて、点灯棒の爪で中の装置をひっかけると。
 ポウ。
 ほら。火がついた。
 おじさんはそうやって、どんどん街に明かりを灯していく。迫っていた闇は追いやられて、あたたかな光が大通りを包んでいく。
 あたしはおじさんの横を小走りでついていきながら、他愛のない話をする。今日見た夢の話とか、隣のおばさんの育てている花が咲いたこととか、その程度の話。そんなのが、いつからか毎日のことになった。
 あたしはおじさんの隣にいるこの時間が、なんでかな、すごく好きだ。
 おじさんの受け持ちの瓦斯灯は全部で百十二本。大通りの端から端までだ。
 空がすっかり橙の色を潜めて藍色にあけわたしかけたそのとき、百十二本目の街灯はぼんやりと、光を放った。
「はい、おしまい」
「お疲れさまー!」
 手を挙げると、おじさんはやっぱり少し困った顔のまま、その手をぱちんと打ってくれた。
「はい、お疲れさま。メイはこれからだね」
「うん」
「がんばって、メイ」
 おじさんがくしゃりと頭をなでてくれた。百十二本目の街灯は、大通りの一番端、小さな広場の脇に立っている。そしてその場所には少し薄汚れた小さなお店がある。
 おじさんが瓦斯灯に火をつけ終わる時が夜の始まりだ。
 そして夜は――
「はい、いってきます」
 お店の扉を開ける。お酒のむっとした匂いと、埃臭さと、煙の臭いが流れ出す。
 おじさんにひらひら手を振って、あたしはその扉をくぐる。
 ぱたん、と後ろで扉がしまった。
 はーっと長く息を吐いて、一瞬止めて。それから大きく息を吸った。
 顔を上げる。
 夜が始まる。
 そして夜は、あたしの時間だ。