「可愛い可愛い我が細君。ほら、お望みのチェリーパイですよ」
「あら、思ったより早かったのね」
次の日、早朝に夫がベッドを抜け出して、店に並ぶために早々に家を後にしていたことは知っていた。だから遅く起きたシェリルのブランチに間に合う時間にチェリーパイを届けてくれたことに、シェリルは満足げにうなずいた。
ありがとう、と微笑んでシェリルは早速皿に移されたそれを口に含む。
「……美味しい」
舌に乗ったチェリーがプチリと弾けて口いっぱいに甘さが広がる。カスタードもそっとチェリーを持ち上げるような控えめな甘さでコクがある。
「ねえ、あなたも食べましょうよ。ほら、ここに座って、口を開けて」
弾んだ声と煌めく瞳でそう強請られると、いくら忙しい朝の時間と言えど、ダニエルは断ることなどできなかった。苦笑してシェリルの隣のソファに座り、差し出されたフォークに乗った鮮やかな色のチェリーパイを口に入れた。
「ね、美味しいでしょう?」
そうして花が咲くように明るく笑う妻に頷きながら、本当に酷い人だと心の中だけで毒づく。
こんなふうに彼女の手から何かを食べたことなど今回が初めてだというのに。きっと彼女はそんなことにすら気付いていない。自分にとっては記念日にしたいくらい特別なことなのに、彼女にとってはほんの些細な日常の一コマに過ぎない。
それが悔しいような哀しいような、けれど彼女がいま自分の領地にいて、他でもない自分の妻でいてくれることが何よりも代えがたい僥倖なのだとダニエルは自身を納得させた。
幼い頃から幾度となく振り回されているのに、この人のことしか見えない自分が愚かで憐れで馬鹿なことには、もう諦めがついている。
別にチェリーパイの味なんて分からなくていい。
君のその鮮やかな赤い唇にむしゃぶりつけたらそれ以外何も要らないというのに。