頬に刺さるような冷たさを感じて目を覚ました。
 残陽の空に星達が顔を覗かせる時間。
 私は歩き疲れて、今日の寝床を探していた。
 すると、冷たい空気を切り裂くような鳴き声が、近くの境内から聞こえてきた。
 私は興味を惹かれて、その境内へと歩みを進める。
 すると、そこには雪のように白いキツネが、赤い目をした黒い鳥達に襲われていた。
 私のよく知るカラスとは違い、赤い目は酷く淀み、漆黒のような身体からは出る威圧感はこの世の物とは思えなかった。

 キツネは逃げ惑うが、鋭いクチバシが容赦なくキツネの身体に何度も刺さり、白い毛並みが赤く染まっていく。
 その姿が自分の幼少の頃と重なり、身体が衝動的に動いていた。
 キツネの前に立ち塞がると、赤く鋭い眼光が私を捕らえた。
 鳥達の注意が私に向いた事を確認して、私は背中越しに後ろにいるキツネに声をかけた。
「今のうちに逃げろ!」
 彼らと死闘を繰り広げている最中、境内を見回したがキツネの姿はなかった。

 無事に逃げた事に安堵して冷静になった私は、自分が柄でも無いことにやっていることに気づき、苦笑した。
 カラスとの戦いに慣れていたつもりだが、赤い目をした黒い鳥達を退けた時には、私の身体は彼らに啄まれて血塗れだった。
 身体を起こす事も、指の先を動かす事もできやしなかった。
 顔には突き刺さるように荒い砂利がこびりついてきた。

 このまま死ぬのか…。
 自分の最後にしては、上出来だったかもしれない…。

 意識が混濁する中、目蓋がゆっくりと下りてきた。
 もう、目蓋を開ける気力すらない。

 すると、砂利の擦れる音がして何かが近づいて来ている気配がした。
「大変!!早く、病院に連れて行かなきゃ!」
 私は対抗することもできず、そこで意識がなくなった。

 そして、次に気付いた時には鉄の檻の中だった。
 身体に痛みは残るものの、先程よりは幾分マシだった。
「あっ、お父さん!起きたよ!良かった〜」
 声がする方へ顔を向けると、ニンゲンの顔があった。
 ニンゲンが自分の命を繋いでくれたことに感謝しつつも、ニンゲンに拾われた事は私にとっては好ましくなかった。
 しかし、この身体では逃げ出すことすら出来ない。
 そのため、私は彼らの好意に甘えることにした。

 ニンゲンの女の子は、毎日のように私の様子を見に来てはご飯を食べさせてくれた。
 数十日経って、私はようやく自分の力で立ち上がることが出来た。
 すると、その姿を見た女の子は頬を緩めて喜んだ。
「パパ、クロが歩けるようになったみたいだよ!」
 後ろにいた男がこちらに近づいてきて、檻の中から私の身体を持ち上げると手足を入念に触り始めた。
「うん。もう少しで治るだろう」
「良かったね、クロ!」
 そう言って、女の子が私の背中を撫でた。

 誰かに背中を撫でられる事が無かった私は、その極上の心地良さに思わず瞼を閉じた。
 ニンゲンに飼われるのも悪くないと一瞬考えたが、拒絶され続けた自分が一つの場所に留まることができないことは知っている。
 私は隙を見て彼らから逃げる事を頭の片隅に置きながらも感謝の意味を込めて、彼女が撫でるその手を舐める。
「あっ、クロが舐めてくれた!」
 感謝が伝わっているのか分からないが、彼女の頬に出来たえくぼがその答えだと感じた。

 しかし、すぐに彼女の顔が曇った。
「ねぇ、パパ…やっぱりダメなの?」
「ダメだよ。ママが猫アレルギーなの知ってるだろ?クロは治療が終わったら、元いた場所に帰してあげよう。それがパパ達がクロにしてやれることだよ」
「うん…分かった。ゴメンね。クロ…」
 何故、そんな悲しい顔をするのか私には分からない。
 優しく背中を撫でるその手は、先程までと違って腫れ物に触るように弱々しかった。

 それからさらに数日が経ち、関節部にやや痛みが残るものの、概ね身体が回復した頃に私はニンゲン達が住む家から白いキツネがいた境内に戻ってきた。
「クロ、ゴメンね。うちでは飼ってあげられないんだ。でも、学校が近くだから学校が終わったら会いに来るから」
 そう言って、何度も振り返りながら彼女は車の中へ消えていった。
 自由になった私は砂利道を歩いてみたが、鈍い痛みが歩く度に指の先から伝わってきた。
 急ぐ旅でもない私は、しばらくこの境内に厄介になろうと思い、社に上がって腰を下ろした。

 そして、次の日からほとんど毎日、空が碧と朱が混じる頃に彼女は私に会いに来た。
 温かな布を提供し、その度にご飯を差し入れてくれた。
 首に何か巻かれたが、特に不自由はないので気にはならなかった。
 彼女の優しい手が背中や顔を往復する度に心が解放されるような気分になる。
 そして、彼女の膝に乗ると時より聞こえる鼻唄と温かい手は本当に心地が良かった。
 今までにないほどの待遇をされた私は、この地に定住するのも悪くないと感じていた。

 一つ気になるとすれば、私が彼女の言葉の意味が分からないことだ。
 彼女はいつも私の身体を撫でながら、私か私ではない他の誰かに話をしていた。
 もし、この至極の待遇の対価を要求しているのであれば、すぐにでもこの場を離れる必要がある。
 しかし、彼女が語りかけてくる表情からはそのような意図は感じられなかった。

 そして、その日は突然訪れた。
 雪の果てを越えて、時より吹く油風が膨らみ始めた蕾の頬を優しく撫でる頃、黒い筒を持った彼女がやってきた。
 私はいつものように、社に腰掛ける彼女に近づいて横になった。
 彼女は私に気付くと、いつもと違い哀しげな表情で笑いかけた。

「クロ…私ね…、明日から青森に行くんだ。だから、今日で会えるのは最後かもしれない。クロは自由でいいね。私も猫みたいに自由になりたい…。私が猫になったら、クロと一緒に気ままな旅をするのもいいよね。……。人間ってさ、他の動物と違って、頭は良いのかも知れないけど、生きづらい…」

 春風が彼女の髪をなびかせる姿を眺めながら、私は元気のない彼女の手を舐めた。
「ん?何?クロってば、私を慰めてくれてるの?」
 クスッと笑うを見て私は、その顔がキミには似合うと思うと素直に思った。
「ん~!ヨシ!クロに愚痴も聞いてもらって元気ももらったし、向こうでも頑張れる気がする!」
 大きく伸びをする彼女は立ち上がり、珍しく私の前に立ちはだかった。
 私もゆっくりと起き上がり彼女と視線を交わした。
 栗色の潤んだ瞳に私が映っている。
 桜が私達の間で優雅に時と戯れている。
 栗色の瞳がゆっくりと近づき、彼女は屈託のない笑顔で私の頭を撫でて、ある言葉を言い放った。

「じゃあね…」

 私はその言葉の意味が分からない。

 笑っているのに、なぜ涙を流しているのか分からない。

 壊れてしまいそうな言葉を残して、スカートが春風とワルツを踊るように流麗な弧を描く。
 その姿を最後に、彼女も私の前から消えてしまった。

 
 意識が戻ると既に陽が落ちて、辺りは宵が支配し始めていた。
 私は少し移動して幹にもたれかかり、今日も彼女に会えなかったと思いながら街につく灯りに目をやる。
 すると、どこからか声が聞こえてきた。

「……っと、…とかあんのかなぁ」
 忘れもしない声が急に聞こえてきたので、私は立ち上がり境内を見渡した。
 しかし、境内には誰もいない。
 再び聞こえてきた声は、今度はハッキリとしたものだった。
「願いが叶うとかどうでもいいんだけど…。まぁさ、私も死ぬ前に神様に文句の一つでも言いたいって思ったわけ…」
 意味は分からないが、聞こえてきた声には悲しく諦めにも似たものが乗っている気がした。

「神様はさ、何で私を頭良く作ってくれなかったわけ?頭が良い妹がパパの病院継ぐと思ってたら、全く違う文系の大学行ってさ…。私はパパの病院を継ぎたかった!!でも、高校の頃は、勉強がどうしても好きになれなくて、獣医学部に入れなかった。でも、動物が好きだから動物関係の仕事に就きたくて、動物関係の学部を卒業したのに…今やってる仕事は何よ!全っ然、関係ない事務仕事じゃない!毎日毎日、つまらない仕事をやって残業して、帰るのが22時過ぎ…それで安い給料って…、私の人生って何なの?こんなハードモードの人生なら終わらせたい。私が死んでもパパ達は気にしないよね…。もう七年も会ったないんだもん。だってさ、パパ達を見てると…自分に何もないってことを突き付けられているみたいで嫌なんだよ…。もう゛…ヤダ…。こんな事、考える自分も大嫌い。ねぇ…神様。なんでこんな不完全な状態で私を作ったのよ!やり直しさせなさいよ!ねぇ、なんとか言いなさいよ!!」

 泣き叫び、乞う声の主が彼女だと思うと、私の胸は釘を打たれたように痛んだ。

「何が願いを叶える木よ!私なんて産まれてこなきゃ良かった!こんな思いをするなら産まれて来なきゃ良かった!!あぁぁぁ…」

 声にならない声が耳を劈く。
 姿が見えない彼女に、私は何をしてあげられるのだろうか。
 今まで聞いたことがないその声をかき消すように、私は精一杯の声を絞り出した。

「猫?ね、猫の声?」

 断末魔のような慟哭が止まったのを確認したので再度、声を張り上げる。
「周りに…猫はいないはずだけど…。ハハハッ、ついに私…幻聴でも聞こえてきたか…。…懐かしなぁ。高三の二月に、こんな感じのイチョウの木でクロに会ったんだっけ…」

 私はその言葉を逃しはしなかった。

 七年待ったのだ。

 その名を再び呼んでもらうのに…。

「私はココにいる!!」

 無意識に私は声帯が張り裂けるほどの声をあげた。
「猫の声、めっちゃ聞こえる。…クロ、元気にしてるかな。ヒック…。まだ、あの神社にいるのかな……。死ぬ前にもう一度だけ会いに行ってみよう。休みは……ぁ…っか…」
 せっかく聞こえた声は次第に弱々しくなり、ついには聞こえなくなってしまった。
 いつもの喧騒が戻った空に佇む長月が、彼から流れる涙を優しく拭っている様子を一人のキツネが見守っていた。

 あれから、いくつの日が経ったのか私は覚えていない。
 もう、あの木に登る気力も無くなり、彼女からもらった布を幹の根元へ持って行き、生活のほとんどをその場所で過ごしていた。

 また、彼女の声が聞こえるかも知れない。

 そんな淡い期待を胸に秘めていたが、現実はそんなに甘くはなかった。
 もう、食事をする気力さえ無い。
 自分にもう、終わりが近いことは分かっている。

 最後にもう一度だけ、一度だけでいい。

 その声を聞かせて。

 その微笑みを見せて。

 あの唄を聞かせて

 そして、私の身体に触れて欲しい。

 そう願いながら、瞼の重みに抗えなくなった私は光を遮った。

 ―何かが髭に当たっている。

 それが冷たいのか温かいのか、私にはもう分からない。

 気力を振り絞り、瞼を上げて空を見上げてみると、そこには髪のカーテンに覆われて泣き腫らす彼女の顔が見える。

「ゴメンね、ゴメンね。クロ…。七年も会いに来てあげられなくてゴメンね…。こんなにボロボロになって、目も片目が傷ついて見えて無いじゃない!首輪もこんなにボロボロになって……。ヒック…。ねぇ、クロ。あの時、鳴いてくれたのはクロだったんだよね?私があの木で泣き叫んだ時に慰めてくれたのはクロなんだよね?」
 背中に懐かしい感触が伝わってくる。

(…あぁ、そう……だ…よ。やっと…)

「私ね…あれから考えて、もう一回挑戦することにしたの!だからね、クロ…見てて!絶対!諦めないから!」
 赤い目をして微笑む彼女の顔は七年前と変わらず、私の心を心地よい気分にさせてくれた。

 彼女の膝に乗った私の身体に、温もりと共に微かに懐かしい唄が聞こえてくる。

 ふと、視線を感じて幹の先の方を見ると白いキツネが座って、こちらを見つめていた。
 私は感謝の気持ちをそのキツネに伝える。
「ありがとう」
 その言葉を紡いだ瞬間、ターコイズ色の愛らしい瞳に吸い込まれるように、意識が徐々に遠のいて行った。

 細雪が降りしきる空に響き渡る慟哭は、空風を纏って灰色の中へ溶けていった。

 
 …15年後

 
 ぬばたまの光がまだ届かない部屋では、いつものように女性達が話に花を咲かせていた。
「先生〜。今日のオペ、お疲れ様でした。今日の子、プルスルーが上手くいって良かったです。さすがです」
 ケーシーを脱ぐ若い女性が、隣のロッカーで着替えをしている女性に声をかけた。
「そうでもないわ。涼子ちゃんがサポートしてくれたおかげよ。ありがとう。また、明日もよろしく頼むわ」
 着替えを済ませてYシャツ姿の女性は、ロッカーから腕時計などを付けながら、今日のパートナーの仕事を労った。

「いやいや、謙遜しないでくださいよ。先生。私の方こそ明日もよろしくお願いします!それより、先生。前から気になってたんですけど…その赤いブレスレット、だいぶ傷だらけですけど…大事な物だったりするんですか?」
 花柄のワンピースに着替えた女性は、恐る恐る隣の女性へ顔を向けた。
「あぁ、これ?…そうね、凄く大切な物なの。それに私はコレが無かったら、こうやって涼子ちゃんと仕事をしてなかったわ」
 ブレスレットをつけた右手を少し上げて微笑む女性は、少し寂しげな瞳で答えた。

「そうなんですか…。あっ、ごめんなさい!変な事聞いちゃって!」
「いいのよ…。気にしないで。もう、十五年も前の事だから大丈夫」
 少し間が空いた後、ワンピースの女性が話を切り出した。
「………。あの…その話、聞いても大丈夫ですか?私、先生の事、尊敬してます。なので、聞いてみたいです。そのお話…」
「あら、嬉しいこと言ってくれるわね。ありがとう。でも、面白い話じゃないわよ?」
「大丈夫です…」
「じゃあ、少し長くなるから…座りましょうか」

 話にふける二人の姿が鮮やかな緑の瞳に映し出されている。
 白いキツネは、黄昏に寄り添う宵へ向かって声をかける。

 清澄で凛とした声は、イチョウの騒めきと共に果ての空へ響き渡った。

 
 完