色なき風が、街の雑音を運んでいる。
 今となっては、この耳障りな音にも慣れてしまい、音の無い場所で寝る方が落ち着かなくなっていた。
 この街では、食べる物に困ることがない一方で、それ以外のものは穢れている。
 住みやすさを代償に、ざらついた空気や土が自分の身体に堆積している感覚は月日が経っても消えることは無かった。
 
 私はここ数ヶ月、重く深い睡魔に襲われていた。
 先程食事を終えた後、いつものように睡魔が私の頬に甘い吐息を吹きかけてきた。
 虚ろになる意識の中、クラクションの音で現実に引き戻された私は、外の様子を見るためにほんの少し瞼を上げた。
 僅かにできた隙間から、淡いオレンジ色の光が瞳へ射し込む。
 私は内なる何かに突き動かされるかのように、立ち上がりいつもの場所へ向かう。
 
 もう、あの場所に通って七回目の秋が終わろうとしている。
 私がこの街に流れ着いた頃は、民家が広がるありふれた街の風景だったのに、今では高いビルが整然と立ち並んでいる。
 私のお気に入りの場所は徐々に奪われていき、今ではあの場所が唯一の心安らげる場所となっていた。
 靄がかかる視界の中、馴染みの香ばしい匂いを頼りに、通りの角を曲がって蜂の巣のように並んだ民家を抜けていく。
 
 しばらくすると、二つの鳥居が見えて来るが、私のお気に入りの場所は奥の鳥居のある境内にあった。
 目的の場所に着いた私は、キツネかイヌか区別のつかない門番には、気にも止めずに中へ進む。
 歩みを進めると、水が流れ出る場所があるので、私はその澄み切った水を口に含み先へ進んだ。
 
 砂利道を抜けると、荘厳な社の隣に鎮座している太く黒い幹を伸ばしたイチョウの木がある。
 この街の変容を見続けてきたその老齢の木は、何とも言い難い厳かな空気を纏っていた。
 緑が少なくなってしまったこの街では、木陰があるこの場所は貴重だった。
 昨日まで落ちていたはずの鼻を潰すような実に変わり、冬紅葉が根を覆っていた。
 私は歩みをイチョウの木へ進める。
 黄色い地面が奏でる乾いた音が、私の耳にさざ波のように襲い掛かる。
 
 この木に登る事ができるのは、この辺りのシマを占めるボスだけという決まりがあった。
 私は既にボスの座を退いているが、今のボスに頼み込んで、この木を使わせてもらっている。
 
 私は軋む身体に鞭を打って、岩礁のような幹をよじ登り、雄々しい枝にいつものように腰を下ろした。
 私はここから見る景色を気に入っている。
 数年前に突如現れた高い塔や鳥達以外、私は認知されない。
 この黒い喧騒から切り離された空間で、私は今日も彼女を待つ。
 
 頭では理解しているのだ。
 
 もう…会う事はできない。
 
 もう一度だけ会いたいという気持ちは理性で抑えれるものではなかった。
 
 もう一度、あの柔らかな手で撫でて欲しい…。
 
 もう一度、微笑みかけて欲しい…。
 
 長い月日を重ねてもこの気持ちは、色褪せるどころか増していくばかりだった。
 こんな胸を締め付けるような気持ちになるならば、出会わなければ良かったと思うこともあった。
 しかし、今となっては彼女と会っていなければ、道端で朽ち果てていたようにも思う。
 先程、クラクションに邪魔をされた睡魔が再び心地よい場所へと誘ってきた。
 私は彼に先導されて、追憶の彼方へ導かれていった。
 

 彼女を探し始めたある日、魚の乾物を口に加えた恰幅のよい老婆に呼び止められた。
「ちょっと、アンタ…この辺じゃ見ない顔だね。どっから来たんだい?」
 私は突然話しかけられたことよりも、その大きさに驚いた。
 青いポリバケツの上に座るその姿は、まるで王座に座る王女ようだった。
「いや、私は…どこにも属していない流浪の身なのだが…」
 その老婆は乾物を口に含みながら汚い咀嚼音をさせて、品定めをするかのように私の体を見回す。
 
「そうかい…。それじゃあ、旅人さんよ、私のシマへようこそ。この辺りじゃ、アンタみたいな黒いヤツは珍しくてね。…アンタ、その首に巻いてるヤツ…もしかして名があるのかい?」
 老婆はオリーブ色の大きな瞳を細めて、鋭い視線を送ってきた。
「名前か…一応、もらった気がする」
「あら、そうかい。ニンゲン様に拾って貰えたなんて、羨ましいねぇ…」
 私の答えが気に入らなかったのか、老婆は皮肉交じりの言葉を吐き捨てた。
 
 私はその態度に苛立ちを覚えながらも、冷静を装って老婆に質問をした。
「いや、ニンゲンに拾われたわけじゃない。勘違いしないでくれ。私は、私の自由を奪われたくない。それより、若いニンゲンの女を探しているんだが…知らないか?」
「若いニンゲンの女なんて、山程いるさね」
 老婆は鼻を鳴らして溜息をつきながら、隣に置いていた次の乾物に手を伸ばした。
 
「そうだな…上は紺色で下は青とグレーのチェックが入ったスカートを履いていたんだが…」
 何度も言った言葉に少しの期待を乗せて、このシマのボスに向けて言い放った。
「上が紺に、下がチェックのスカートねぇ…あぁ、そうさね。その服だったら…隣のシマにあるニンゲン達が集まる学校ってトコでたくさん見たことあるよ」
 ようやく掴んだ手がかりに気持ちが高揚した私は、無意識に前のめりになって老婆の言葉を受け止めた。
「ようやく手がかりを掴めた!学校…学校か。あの広くて大きな建物があったりするような場所だったか…。ありがとう、恩に着るよ」
 老婆に頭を下げて急ぎ足でその場を立ち去ろうとした時、老婆の大きな声が私の背中を掴んだ。
 
「ちょっと待ちな!今、その学校ってトコの近くにある最高の物件を向こうのシマと取り合っててね。少しでも戦力が欲しいんだ。アンタの用事の前に、ちょっと私達にツラ貸しな。黒いヤツってのは大抵この世界じゃ、すぐにおっちんじまうからね…そこまで生きてるって事はぁ…アンタ、それなりに修羅場、踏んでだろ?」
 老婆の怪しい目線が私の瞳に射してきたが、私はすぐに逸らして背中を向けた。
「争い事ならゴメンだ。私はどこにも属さない。それに、この黒い体を見たらアナタの部下も嫌がるんじゃないか?」
 何度も輪から外されてきた私は、自分を守る為にその場を離れようと試みた。
 しかし、老婆はそんな私を見透かしているのか、威圧的な声で私の言葉を足蹴にした。
「はん!なぁに言ってんだい!黒いヤツの近くにいると不吉だの死が訪れるって話のことかい?私の子供達を舐めんじゃないよ!!そんな与太話を信じるようなヤツは、ウチにはいないよ!」
 
 物言いこそ怒号のようだったが、言い放つ老婆の言葉には温かなものを感じた。
 私は老婆に再び向き直り、言葉を交わしてみようと思った。
「そうか…今まで、どこに行っても蔑まれてきたから、アンタみたいなのがいるなんて新鮮だな」
 私の瞳を見た老婆は、黄色く鋭い歯を見せて頬を緩めた。
「子供達には、物事は外見で判断しないように躾けてあるからね。それに良いじゃないか、アンタを連れて行ったら、向こうは死神が来たって大騒ぎだろうさ」
 そう言って笑う老婆に対して、争いを好まない私はどう断れば良いか考えあぐねていた。
 
「そうかもな…」
 そんな私を見透かしたように老婆がある提案を持ちかけてきた。
「まだ乗り気じゃないみたいだね。じゃあ、良い話を聞かせてやろう。アンタ、ここに来る途中に黒くて大きなイチョウの木があったろ?」
「あぁ」
「あの木はウチらの間じゃあ、<オロートスの木>って呼ばれていてねぇ。あの木は、想いや願いを叶える神聖な木としてあたしらの中じゃ有名なのさ。アンタ…もし、その学校に探しているニンゲンがいなかったらどうするんだい?」
 不意に出された問いに戸惑いながらも、老婆に問いの答えを伝える。
「そうなれば…また、探すだけさ…」
 
 私の答えを聞いた老婆は、目を細めて頬を緩めると大きな口に再び乾物を入れ始めた。
「ほぅ…、そのニンゲンと何があったかのかは知らないが…。あても無く探すってのかい?私には分かるよ。アンタ、その足…痛むんだろ?」
 老婆の的確な指摘に、私は無意識に言葉を返した。
「なぜ分かった⁉︎」
 怪しく微笑みながら指差す老婆に対して、私は驚きを隠せなかった。
 
「これでも…歳だけはくってくるからね。それくらいは分かるもんさね。で…その足で探し回るより、その木に賭けてみるってのも悪くはないんじゃはないかい?」
 少し寂しさが乗ったその視線は、茜に舞う鱗雲へ吸い込まれているようだった。
 私はその視線に懐かしさを感じて、ポツリと言葉を雁渡しの残る二人の間に置いた。
「……実は、その木でそのニンゲンと会ったんだ」
「ほぉう…」
「白いキツネを助けた時に怪我してしまって、その時にそのニンゲンが面倒をみてくれたんだ」
 
 私の言葉を聞いた途端、青いポリバケツから身を乗り出して、老婆が声を張りあげた。
「ちょっと、待ちな!そのキツネは尻尾が三つあったかい?」
「尻尾?あぁ…そういえば、三つあったような気もするが…」
 老婆の質問の意図が分からずに記憶を探って答えてみたが、それを聞いた老婆は足を叩いて喜び始めた。
「ハハハ!そうかい。こりゃ、たまげたね。アンタ、ついてるよ。テンコ様に会えるなんてね。会ったことすらぁないから噂だとばかり思ってたが、本当に実在するとはね。あの木の力を使うにやぁね、テンコ様に認められなきゃいけないらしいからね。ただし、まだ問題がある」
 老婆は眉頭を上げて指を一本立てると、真剣な表情でこちらを見た。
「まだ他に何かあるのか?」

 老婆は一呼吸置くと、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「あの木に登るには、ここいら一体を占めてる大ボスのマタギ様の許可が必要でね。マタギ様の許可がないとアタシら猫は入れない結界が張ってあるんだよ。それで…だ…、私に協力してくれるってんなら、マタギ様に口添えしてやってもいい」
 口角と目尻を上げて微笑みかける老婆は、商売人のように取り引きを持ちかけてきた。
 私は暫く悩んだが、老婆の言う通り当ても無いのは確かなので、その話に乗ることにした。

「………分かった」
 私の返答を聞いて、今までに無い満面の笑みを見せた老婆は、王座から華麗に降りて私の前まで近づいて来た。
「よし、契約成立だ。アンタ、名前は?」
「名前は……クロだ」
「はん、そのまんまだね。私はシビ婆って呼ばれてんだ。仲良くしようじゃないか、クロ」
 差し出されたその傷だらけの手を握ると追憶の世界は白く瞬き始めた。
 

 気が付いて目を開くと、優しい橙の光が頬を撫でる。
 現実世界に戻った私は、背中に視線を感じたので上を向いた。
 ここ数日前にも、誰かに見られている感覚があった。
 すると、太い幹からいくつかの白い尾のようなものが見えた。

「…誰だ」
 声をかけてみるが、返事は無い。
 私はシビ婆が話していたテンコ様の話を思い出して、白い尾の主に再び声をかけた。
「おい、アンタ…テンコ様じゃないのか?」
 やはり、返事は無かった。

 近づいて確かめれば良いのだろうが、軋む身体に鞭を打って動く気にもならず、視線を眼下に広がる黄金色の街へ向けた。
 碇星が瞬き出し、黄昏がニンゲンを飲み込む時間になると、いつしか背中に射していた視線は消えていた。
 そして私の意識も黄昏に飲まれたように、再び意識と無意識の狭間へ落ちていった。