はい、こちら「月刊陰陽師」編集部です。

 清正井をあとにして、真名たちは電車に乗り、原宿から飯田橋へ移動した。あまり降りない駅だったが、ここも都内屈指の〝パワースポット〟があるという。

「伊勢神宮を俗に〝お伊勢さん〟というが、東京大神宮は〝東京のお伊勢さん〟と言われている」
 と泰明が簡潔に説明してくれた。東京にいながら伊勢神宮にお参りしたのと同じ御利益を得られるのだという。

「近くの大学の印象が強くて、全然知りませんでした」

「結構格式のある神社で有名なんだが……」

 通りを少し入ると鳥居が見える。突然、という感じで東京大神宮が出現した。鳥居をくぐると大きな屋根の本殿が見える。右手には近代的な社務所があった。明治神宮からこちらに来たせいで――申し訳なくも――こぢんまりして見えてしまったが、鳥居の中に入ると空気が違う。立派な神域だ、と真名は思った。

「ここが〝東京のお伊勢さん〟なんですね」

 西に傾いた太陽の白い光が境内を強く照らしている。明治神宮ほどの鎮守の森がないのが残念だが、都心のど真ん中にあるとは思えない静謐さな空間だった。もうすぐ夕方になるが、女性が何人かお参りに来ているだけだ。

「もちろん伊勢神宮の天照大神にお参りするのが本則じゃ。しかし、伊勢は遠いし、お金もかかる。昔の人にとっては一大決心が必要じゃった。どうしても伊勢までいけない場合に、同じような御利益を授けたいと天照大神がお許しくださったのがこの神社なのじゃ」
 とスクナが説明してくれた。

 皆で本殿にお参りをする。

「いまでは都内最大の恋愛成就の〝パワースポット〟とされているがな」と泰明が説明した。その口調がどこか苦々しげだ。
 真名が不思議そうな表情を見せると、泰明は参拝に来ている女性の方を顎で指した。白いシャツにロングカーディガンをアウター代わりに羽織っている。きれい系の女性だった。真名は大きく呼吸を繰り返して心を調え、目をこらす。見鬼の才の出番だった。

「あ」と、真名が呆然とした声を出す。

 真名の目には参拝の女性の頭の周りに、欲望の想念が渦巻いてもんわりしているのが見えた。

「天照大神の内宮では基本的に個別の祈りをしないものじゃ。天地万物の恵み、大和のまほろばへの深い感謝をただただ捧げるのが伊勢神宮内宮なのじゃが……東京大神宮になると途端に個別の祈りばかりになりよる。スクナは悲しい」

 真名の頭の上でスクナが泣いている。小さく小さく。誰にも見えない神さまが、心を痛めていた。

「スクナさま……」

「天照大神は太陽神であり、日本の主宰神だ。その神へ自分の恋愛成就を祈る。これを申し訳ないことと思うか、〝ラッキー〟と思うか。あの参拝者はどちらかな?」
 と泰明が極めて冷ややかな目で言う。

 ロングカーディガンの女性は参拝を終えると社務所へ歩いていった。

「すみませーん」とその女性が呼びかける。お守りなどを頒布していた巫女さんが対応しようとするが、女性は神職を呼び出してくれと言っている。

 しばらくして水色の袴をはいた禰宜が出てきた。

「はい、何かございましたでしょうか」

 ロングカーディガンの女性がひどく顔をしかめている。

「先週、こちらで縁結びの祈禱をしたんですけどダメになったんで、お金返してくれませんか」

 女性の声が大きい。だから真名たちにも聞こえたのだが――。

「おいおい。祈祷料は神さまへの感謝であって、対価とか代金とかじゃないぞ」
 と、泰明が辟易したように言った。
 真名が慌てる。
 泰明の声は小声だったし、女性もクレームに夢中だったので泰明の声は聞こえなかったようだった。聞こえたら揉めるよねと思っていると、泰明がわざわざその女性に近づいていく。

「ちょ、ちょっと泰明さん!」

「あ?」

「あの、やめてくださいね?」

 泰明が怪訝な顔をした。

「何が」

「変なクレームとかつけるの」

「変なクレームつけてるのはあの女の方だろ。神職とはいえ、いや神職だからこそ、怒らないもの、言い返さないものと思って好き勝手言ってるんだろ」

 泰明の言っていることは正しいのだが……。

 真名がどうしようか困っていると、頭の上からスクナがいつになく凜々しい声を上げた。

「泰明の言う通り、スクナもアレはいけないと思うのじゃ」

(お気持ちは分かりますが……)と、なだめようとしたらスクナがヒートアップした。

「何の罪もない神職を困らせおって。真名、あの女に初穂料の何たるかをきちんと教えてやれ」とスクナがやる気に満ちてくる。

「ええ!?」

 真名が思わず絶叫してしまい、その女性が振り返った。固まる真名。

「大丈夫じゃ。スクナが言うべき言葉を教えてあげるから」

 そうじゃないんです、と言いたかった。すでにロングカーディガンの女性がこちらを睨んでいる。

「何か?」

「いいえ……」
 と真名が言い淀むと、頭上でスクナが子供らしい声で毅然と言い切った。

「初穂料とはそそもそも神さまへの感謝の心じゃ。この大和の国で生きとし生けるものの恩恵と日の光と水と空気を与えられたことへの感謝の現れじゃ。それを返せとは無礼千万じゃ」

 さすが、スクナは神さまである。
 声は子供なのに、その気になったいまは抗いがたい神威があった。

〝言え、言え〟という霊圧がすごい。

「あー、あのですね……祈願のお金って、神さまへの感謝ですから、戻せっていうのは――ちょっと……違うのではないかと……」

 真名が何とか当たり障りない言葉に翻訳を試みた。真名を――性格には真名の頭の上辺りを――ちらりと見た泰明が目を見開く。いつも氷結美男子の泰明がそんな顔をするのを初めて見た。
「おお、スクナ様が燦然と輝いている」とか呟いている。

「あなた、誰? 関係ないでしょ?」

「えっと、何と申しますか……」

「関係ないことはないのじゃ。天照大神はスクナたち神々の頂点の太陽神。その神域での無礼は許さないのじゃ。――よいか。ここは縁結びの場所。神さまとの縁を結ぶ場所じゃ。そうして信仰心を持った者同士をも結びつけるために人と人との縁結びも請け負う。その考え方を現代風に広げて恋愛成就も大目に見ている」

 スクナの話は続いた。ロングカーディガンの女性の怒りとスクナの熱弁に挟まれ、真名は頭がくらくらする。

「あの、神社の恋愛成功なわけですから、神さまから見て〝ふさわしくない相手〟となら別れさせることも、神さまの側としては、あなたを守れたという〝成功〟なわけで……」

 真名がしどろもどろになりながら何とか言葉を繋いだ。

 そのときだ。

 さっきまで怒り満ちていたロングカーディガンの女性の顔が、不意に歪んだ。

「そんな……そんなこと……うわああああん、コージぃ……」

 清楚な見た目の女性だったが、身も蓋もなく顔をぐしゃぐしゃにして泣き出したのだ。大きな口を開けて、涙と鼻水とよだれとでせっかくのきれいな顔を台無しにしながら……。

「あ、そんな」と真名の方が泣かせてしまったとうろたえる。

 横で泰明がため息をついた。

「――ほんとはこの人、気づいてたんだろ。恋愛の祈禱のせいではないって」

「え?」と真名が泰明を振り返る。しかし、返答は、泣いているロングカーディガンの女性から来た。

「そうよ……。その男の言う通りよ。自分でもどこか無理してる気はしてたよ? けど、好きだったんだもん。だからお参りだってしたんだもん。お金なんて別にいいのよ。コージさえ帰ってきてくれれば。……うわああああん」

 またロングカーディガンの女性が泣き出した。巫女も神職も沈鬱な顔でうつむくばかり。泰明は頭を搔いて違う方を向いている。真名はおろおろするばかりだった。

「真名よ、真名よ」とスクナの声がする。
「ちょっと面白いことが起きるかもしれんぞ。鳥居の所を見てみろ」

 スクナに言われて真名が振り向くと、カジュアルな服装の男女が鳥居をくぐってきた。まだ若い。大学生くらいか。恋人同士なのか、和やかに談笑している。男性が手水も使わずまっすぐに本殿に昇ろうとするのを、女性が止めた。

「コージ、手を洗わないとダメなんだよ」

 その女性が呼んだ男の名前が、妙にクリアに響いた。

 コージ?

 真名も泰明も、ロングカーディガンの女性も――神職たちまでも――、その男に視線を走らせる。美形ぶりで言えば泰明の方が上、というより十人並みの顔立ちの男だ。一緒にいる女性は派手めの美人で、あまり男が釣り合っているとは言いかねた。

「コージ!!」とロングカーディガンの女性が吠える。

 境内地を引き裂くような声に男がぎょっとなり、ロングカーディガンの女性の顔を見て引きつる。

「げ、ナオミ!?」

 ロングカーディガンの女性――ナオミが、憤然とした表情でコージの方へずんずんと歩み寄った。隣の女性も含め、コージとナオミ以外の全員が何事かと見守る中、ナオミはコージの目の前で立ち止まった。

「私と別れて三日で他の女を見つけたの!?」

「な、何言ってるんだよ」とコージの目が泳いでいる。

「そうよ。私たち付き合ってもう一年なんだから」

 男女問題に関し、心の機微に疎いというか勘が鈍いというか、そういう真名でもこれは分かった。
 コージという男、二股かけてたんだ。
 外見が胸のすくようなイケメンというわけでもないのに。
 そういえば、結婚詐欺をするのも、いわゆる美男子ではない男が多いと聞いたことがある。

 いずれにせよ、ロングカーディガンの女性に、もう言葉はいらなかった。

 ナオミがコージの頰を叩く。

 変に乾いた音が境内に響いた。コージは打たれた頰を押さえて馬鹿みたいな顔をしている。
「おお、やるなぁ」と泰明が感心していた。

 ナオミは、自分とコージは半年付き合っていたと派手めの女に告げると、コージに言い放つ。

「さようなら、二股男。これで吹っ切れたわっ」

 ナオミはつかつかと鳥居をくぐって出ていった。先に我に返ったのは派手めの女性の方だった。

「ちょっとコージ、さっきの何よ」

「お、俺も分からないよ。誰かと勘違いしてるんじゃないか」

「知らないっ!」と叫ぶと、派手めの女性はコージの腹に回し蹴りを入れる。さすがにコージが腹を押さえてうずくまった。

「ふん。いい気味じゃ」とスクナが厳しい声で言う。
「縁ある人とは出会い、縁なき人とは別れさせる。これが神さまの縁結びじゃ」

 すげえなあ、と泰明が感心していると、社務所の中から神職が声をかけてきた。

「あの、もしかして『月刊○○』の倉橋泰明さん……?」

 取材用の某雑誌名と自分の名前を呼ばれた泰明が苦笑する。

「大変でしたね」

「ええ。まあ……でも、おかげで助かりました」

 派手めの女性も、鳥居をくぐって出ていった。最後に残されたコージが腹を押さえながら立ち上がると舌打ちをしながら女性のあとを追った。はたしてどちらのあとを追ったのやら、と真名は白い目で見ている。

「不心得者は入れないようにしたらいいんじゃないですか」
 と泰明が神職に尋ねた。

「恋愛のパワースポットとしてマスコミやネットで取り沙汰されてからは、いろんな人が来るようになりました。一般的な人がお持ちの神社や神主、巫女のイメージがあるので、厳しい対応もできずときには困惑することもあります」

「なるほど」

 だが、神職はにっこり笑う。

「それでも、私たちは最後は神さまのお力を信じています。さっきみたいなのも、ご祈祷されたがゆえにあの人たちの本当のご縁のあり方があぶり出されたのだと思います。それは当事者さまにとってはつらいことかもしれませんが、それも受け入れていただけるご縁があるから、お参りやご祈祷をいただいたんだと思うんです」

 それが現代でのパワースポットというあり方の側面ではないか、と神職は付け加えた。
「うん、うん。がんばってるのじゃ。スクナも応援するのじゃ」と真名の頭上のスクナが機嫌のよい声を上げている。

「あの、パワースポットとか言って、信仰心のない人たちが御利益ばかりをねだって、たくさんやってくるのはあまり神社としてよろしくないのではありませんか」
 と真名がおずおずと尋ねる。神職は苦笑した。

「ええ。ただ、ここを聖なる場所だと思っていただける方には来ていただきたいですし、逆にここに来て神さまへの信仰に目覚める方もいるかもしれないですから」

 この神職の態度でいいのだろうか、と真名が心の中で疑問すると、スクナがすぐに答えた。

「この者としては精一杯やっているのだろう。ただ、神さまの中には違う意見の者もいらっしゃる。人間と神さまの意見なら、神さまの意見の方が重いのじゃよ」

 単なる流行りとしてではなく、また宗教的な聖地であるだけでもない〝パワースポット〟という存在が真名の中でぐるぐると回っていた。

 ビルの隙間から差し込む西日が、真名の目を刺し貫く……。


 高田馬場の編集部に戻ると、受付の所まで昭五と律樹の声が聞こえていた。

「わー、また消えた」

「ぎゃー、クラッシュしたー」

 事務所の中は修羅場にして阿鼻叫喚だった。

 珍しく昭五がパソコン島で作業をし、同じくパソコン島の律樹が椅子の上にあぐらをかいて復旧作業に邁進している。真名たちが回り込んでみると、律樹のパソコン画面が真っ青で見たことのない表示をしていた。

 真名とスクナがびっくりしている横で、泰明が印を結び、呪を唱える。

「――天も感応、地神も納受、諸願も成就、みくじはさらさら」

 さらに気合いと共に五芒星を切った。途端に、律樹のパソコンと昭五のパソコンが再起動を始める。

「今度は――行った。無事立ち上がってくれた。サンキュ、泰明」

「うんうん。いいね、いいね。泰明君が戻ってくるとたちどころにパソコンが復活するよ」

 呆気にとられている真名を尻目に、泰明は涼しい顔で給湯室に入り、麦茶を飲んだ。ここで真名に勧めないところが安定のドS陰陽師クオリティである。

「あの、編集長、何があったんですか」

 仕方なしに、自分の分の麦茶をついで飲んだ。

「いやいやいや。もうすぐ入稿でしょ? だんだん邪魔がひどくなってね」

「邪魔……?」

 すると泰明が口を挟む。

「前にも話しただろ。電気関係、パソコン関係は魔が入りやすい。よくあることだ」

「なるほど……」

 状況を確認すると、昭五の方も律樹の方も、入稿状態まで仕上げたページのいくつかが破損して開けなくなっていた。バックアップはもちろん取ってあるそうだが、それでも一つのページ辺り三十分は巻き戻されるらしい。しかも、パソコン自体の挙動が不審だったので、作業に戻っていいかのチェックの時間も必要だった。

「まだ日数がギリギリじゃないから大丈夫だろうと踏んで、作業を早めたんだけどね。いやー、ちょうど泰明くんがいないときを狙われたよ。ははは」

 昭五がなぜか散歩に行く犬のように楽しそうに笑いながら、作業していたパソコンを操作して編集長席へ移動する。

「楽しそうですね」

「こういうことも楽しんでしまわないと、やってられないんだよ」

 昭五が使っていたパソコンはセキュリティーソフトで不具合がないかを診断していた。だが、よくあること、と言った通り泰明は悠々と構えている。

「ま、修復不可能な状態ではなさそうだし、いいだろう」
 と、泰明がパソコン島の他のパソコンに電源を入れた。
 律樹の向かいの席だ。なるほど、いままでどうしてパソコン島には五台もパソコンがあるのだろうかと思っていたけれど、一台が使えなくなったときの予備を兼ねているらしかった。しばらくパソコンを操作していた泰明が、席を立って真名を呼ぶ。

「神代。パワースポットのラストのページを開いた。今日、見てきて感じたことをまとめて、締めの一言を写真の上にテキストで書け」

「は、はい……っ」

 真名は飲んでいた麦茶にむせそうになりながら、パソコンに座った。いままで座っていた泰明の体温で椅子がやや温かい。真名は何度か深呼吸をし、編集長席の後ろにある神棚に手を合わせた。清正井と東京大神宮で取ったメモを振り返る。

「スクナさま、どうしましょう」

「知らん」

 しばらく考え込んだ末、真名はキーボードに手を伸ばした。


 神の念いと人の念いが交差する場所――
  パワースポットとは、神の声に耳を傾ける聖地。


 真名がそう打つと、いつの間にか背後に立っていた律樹が言った。

「いいんじゃない?」

 ぎょっとなって真名が振り返る。律樹が腕を組みながらにこやかに画面を見ていた。

「お、傑作ができたかい。――うんうん。いいね、いいね」と昭五。

 ふたりにそう言われて、真名は少しうれしくなる。泰明も覗きに来た。どんな酷評を喰らうのかと戦慄していると、泰明が鼻を鳴らした。

「悪くないだろ」

 よかった。真名の全身から力が抜けた。

「ありがとうございます」

 泰明が真名を見下ろしながら、

「どうだ。たった一言を出すためとはいえ、取材は本格的だったろ」

「……はい」

 昭五が真名のメモを覗き込む。

「これだけいろいろ書いたのなら、この一言だけじゃもったいないよ」

「そうでしょうか」

「うんうん。せっかくだから大学のレポートとかに転用してみたら? それこそ、ほら、この前話してくれた〝パワースポットなんてない〟っていう院生のレポートの反論レポートみたいな」

 昭五が気軽に提案した。真名は苦笑する。相手は院生で、積み上げている関連書籍などもあるからおいそれと反論できないと思ったのだ。すると、真名の頭上でスクナが言った。

「真名よ。実際に見て〝パワースポット〟はなかったのか?」

「いいえ」

 パワースポットはあった。いままさに真名が書いた通り、神と人の念いの交差する場所として。

「だったら、それをそう書け。事実は事実。真実は真実なのじゃから」

 スクナが真名の頭からキーボードの横に軽やかに飛び降りた。その姿が眩しく光っている。事実は事実、真実は真実、と真名は心の中で繰り返した。

 軽やかな電子音がする。昭五が使っていたパソコンのエラーチェックが終わった。異常はどこにもなかった。



 真名は翌日から大学の図書館に籠もるようになった。直接、院生のレポートに反論しても提出先がないので、改めて民俗学の課題レポートとして〝パワースポットとの正しい付き合い方〟をまとめることにしたのだ。

 真名が図書館で参考文献を当たっていると、本を抱えた浩子が手を振ってきた。

「真名ちゃん。何を調べているの?」
 とメガネ姿の浩子がにこにこと覗き込む。准教授とはいっても、同年代の友だちのような親しさがあった。同じ「覗き込む」という動作でも、泰明にされるのと浩子にされるのとではずいぶん違う。

「先生」と真名も笑顔を返し、パワースポットについてまとめているのだと話をした。

「パワースポット……金運向上とか多いわよね」

「ええ。あと、縁結びとか」

 真名の台詞に浩子が微妙な笑みを浮かべた。真名がその浩子の表情をもう少しだけ深く読み取れていたら――これまでの浩子との接点を振り返る余裕があったら――物語は違ったものになっていたかもしれない。けれども、まだ若い真名はそれに気づかず、浩子も適当な世間話でごまかしてしまった。
浩子を見送り、真名は調べ物を続ける。

 気がつけば図書館の閉館時間が迫っていた。

 全然気づかなかった、とひとり呟き、伸びをする。
「だいぶがんばっていたようじゃの。偉い偉い」とスクナが頭の上で褒めてくれた。

 そろそろ帰る支度をしようと真名は化粧を直す。
 化粧室から出た真名は、頭をクールダウンさせようと古い雑誌のバックナンバーを適当に手に取った。
 読むとはなしに目を通す。
 真名自身が編集に関係してきたためか、レイアウトや特集の見せ方などが気になってしまう。

 そのときふと、ある号の記事で真名の目が止まった。

〝縁結びのお守りの悲劇〟というタイトルで、こう書かれていた

『二〇一三年十月某日、藤美女子大学院生だった栗原浩子さん(二三)が構内で飛び降り自殺。手には縁結びのお守りが握られていた。恋愛のもつれか――』

 真名の顔から血の気が引いた。

 何度もその記事を読み返す。

 栗原浩子。

 さっきまで話していた准教授ではないか。

 同姓同名だろうか。

 けれども、年齢もほぼ一致する女性が同じ学内にふたりもいるだろうか――。

 真名の身体ががくがくと震えた。

 図書館内に閉館時間を知らせる曲が流れはじめた。
 真名はふらふらと図書館を出た。
 すっかり西日になっていて、日の光は熱いのに日陰に入ると変に寒い。

 その寒さは気温のせいだけではなかった。

 真名は血の気を失って冷たくなった指先で、スマホを操作する。閉館間際だったのでコピーを申請する時間がなく、写真を撮ったのだ。

『二〇一三年十月某日、藤美女子大学院生だった栗原浩子さん(二三)が構内で飛び降り自殺』

 何度読んでも字が変わるわけでもない。

「スクナさま、どういうことなのでしょう……」

「どういうこと、とな?」

「この記事は、浩子先生のことなんでしょうか……」

 頭上のスクナの答えが遅れた。初めてのことだ。

「――本人に確かめてみればよいのじゃ」

 たぶん研究室に行けば会えるのだろうが、真名の気持ちの中で何かが足を止めさせようとする。気がつけば、英文学研究のある建物ではなく、カフェに向かっていた。

 いま自分は混乱している。ちょっと甘い紅茶を飲んで気分を落ち着けよう。

 心の中でそんな言い訳をしながらカフェに入った。ケーキには売り切れも出ているけど、混んでいる。真名が空いている席を探そうと首を動かすと、視界の隅にひとりでお茶をしている見知ったメガネ姿の女子大生が写った。

 占星術部を辞めた留美だ。

 探せば、カフェの中に他にも知り合いがいるかもしれない。けれども、真っ先に見つけたのは留美だ。いま真名の抱えている気持ちを話せる相手はたぶん留美しかいないのだろうと真名は陰陽師流に受け取った。

「留美さん」と声をかけると、留美がふんわりした笑顔で手を振る。その笑顔だけでずいぶん気持ちが救われた気がした。

 留美はホットココアを飲んでいる。真名はロイヤルミルクティーを選んだ。

「今日はバイトではないのですか」

「ええ。昨日がんばったから、今日は代休なんです」

 大変ですね、と微笑んで留美がホットココアに口をつける。留美は、先日の騒動なんてなかったかのような顔をしていた。こうしてみると、柔らかい線の、かわいらしい魅力が溢れているなと真名は思う。

 しばらくおしゃべりしていたら、留美の方がこう言ってきた。

「真名さん、何かあったんですか」

「え?」

「顔色がよくないし……私と話すときは、いつも何かありそうだし」

 不意に真名は頰が熱くなる。そんなつもりはないのだけれど、これではまるで自分がつらいときだけ留美に頼っているみたいではないか。

「ごめんなさい……そんなつもりはなかったんですが――」

 留美の方も慌てて手を振った。

「あ、冗談です、冗談。ごめんなさい。でも、顔色がよくないのはホントです」

「そんなこと――」

 ない、と否定しようとして、真名の頰をぽろぽろっと涙がこぼれる。今度こそ留美が慌てた。

「真名さん? 私、そんなひどいこと言っちゃいましたか」

「そうじゃないの。そうじゃなくて……」

 真名は気持ちを落ち着けながら、先ほどのスマホの写真を見せる。

「この方、お知り合いなのですか……?」と留美が眉を寄せた。

 どう説明しようかと迷って、真名はふとあることを思い出す。

「この前、留美さんと一緒にごはんを食べていたときに、私に話しかけてきた女の先生がいたじゃないですか。その人と同姓同名なんです。しかも年まで。こんな偶然ってあるのかなって……」

 真名の声が尻つぼみになった。目の前の留美がますます不思議そうな顔をし始めたからだ。しかし、その後に続く言葉に、真名はもっと混乱することになる。

「あのときのことは覚えています。何しろ、食事の途中で、真名さんが誰もいないところに話しかけ始めたので――」

「え? 待って。私、誰もいないところに話しかけてた?」

「はい……」

 留美の話を聞きながら思わず乾いた笑いが漏れる。

「ふふ。噓。だって、私、浩子先生と何度も会ってるしおしゃべりもしてるし、進路のことで励ましてもらったり……」

「私、噓は言ってません」と留美が真名の手を握ってきた。
「真名さんはひとりでしゃべっていました。けれども、真名さんは〝見える人〟だから、きっと何か私には見えない存在が見えているんだろうなって思っていたんです」

 留美の手の温かさに真名の心が安らぐ。そうだ。留美は自分では見えないけど、目に見えないあやかしや霊がいると理解している。だから、真名が誰もいない空間に話しかけていても、そんなものだろうと思っていただけ――留美の言っている内容は筋が通っていた。

「だとすると、やっぱり、浩子先生って……」

 この記事が正しいのだとしたら、栗原浩子は准教授ではなく、七年前に亡くなった女性となる……。

「ねえ、真名さん。その〝浩子先生〟とは、いつから知り合いなのですか?」

「いつからって――あれ……?」

 留美からの、極めて自明なはずの問いかけに答えようとして、その答えが見つからないことに初めて気づいた。


「月刊陰陽師」編集部に勤める前に会っていたのは覚えている。そうそう。就職活動でうまく行かなくて、構内のベンチで凹んでいるところを元気づけてもらった。その前は――就活の折々にアドバイスはもらったように思う。

 けれども……授業は?

 四年生になれば浩子の授業があるはずだが……それはおかしい。

 真名は浩子の研究分野と同じ英文学の専攻だ。准教授なら当然、研究室があるし、ゼミも持っているはず。専攻のゼミを選ぶために、必ず二年次までには専攻の教官の授業は一通り受けて、教官の人となりと研究対象を確かめられるはずなのだ。

 ところが、浩子の授業を受けた記憶がない――。

 授業を受けた記憶がないのに、どうして浩子と親しく、〝先生と学生〟の関係を持っているのだろう。そもそも四年に浩子の授業があるなんて、誰から聞いたのだったろう。


 そもそも、浩子と自分の関係はいつからできたものなのだろう。