……いや、やっぱり感謝しない。
そう決めたのは昼休みのことだった。
早々に友達が出来たことに関しては感謝しよう。でも、今朝に先輩が一年のフロアへ来たせいで、彼の話題で持ちきりだ。
「織田先輩ってかっこいいよね」から始まり「仲良くなりたいよねー」とか「話してみたいな」とか、とにかく女子たちの食いつきが大変よろしい。
後輩としては鼻高々なもの。でも、あたしだって千紘先輩のこと好きなんだから妬いてしまう。不安が広がる。
どうしよう。先輩がモテすぎて困る……
「ねぇ、華弥ちゃん。また先輩来てくれないかなぁ。呼んだら来てくれるかなぁ」
「いやぁ……どうだろうねぇ。先輩、忙しそうだし」
あぁ、みっともない。嫌な気持ちになってしまう。
あたし、心狭いのかなぁ。先輩の話になるとつい声が固まってしまう。もやもやする。だからか、へそ曲がりな口はツンとしてしまった。
「て言うか、あれかっこいいの? 中学の時なんか、もうすさまじいほどに、ぼやーっとしてたんだよ。全然かっこよくなかったし」
「えぇー、そうなの? でも普通にイケメンだよね」
「ね! かっこいいよね!」
あぁ……下げようとしても評価が下がらない。第一印象ってすごい効果的だ。あたしはどうにも出来ず、「あはは」と愛想笑い。
本当はそんなことしたくないのに、ふくらむ気持ちは悪いものばかりで、どんどん焦りに変わってしまう。そして、先輩の評価を下げるように言ったことを後悔した。
***
それからも、我が一年C組は絶好調に「織田千紘フィーバー」が続いていた。なんてこった。
確かにね、確かに先輩は外見が見違えるほど変わった。短い髪の毛がダサいと中学の時は思ってたし、とりわけかっこよくない先輩に恋をする自分がよく分からなかった。
夏は髪が邪魔だからと言って坊主頭にしてきたり、かと思えば爪を切ることを忘れて風紀検査に引っかかって部活停止を食らったり。日常生活ではぼんやりしているせいで、いまいちかっこよくない。
ただ――走る姿がかっこいいことは間違いない。先輩のかっこよさはここに凝縮されている。それをあたしだけが知っている。
クラウチングスタートの姿勢を取るなり、眠たそうな目をキュッと引き締める。そして、ゆっくり瞬きをしてすぐに、スタートの合図で風を紡ぐ。水色のユニフォームが駆け抜ける。誰よりも速く。
その残像を追いかけて、ゴールする彼の涼やかな顔にあたしはいつも見とれてしまう。あぁ、やっぱり、思い出の先輩が好きだな……それじゃあ、今の先輩はどうなんだろう。
あんなに外見を気にしなかった先輩が、周囲のおしゃれな都会っ子たちと馴染んでいる。
いや、待てよ。もしかすると先輩は都会に馴染むために変わったのでは……?
なるほど。謎が解けた。
「華弥ちゃん? どしたの」
「ニヤニヤしちゃってー。さてはやっぱり先輩のこと好きだなー?」
できたばかりの友達二人がしきりにあたしの頬をツンツンしてきた。
「なっ! そ、んな……いや、やめてよぉ……」
まさか顔に出てたとは思わず、あたしはようやく晴れやかに笑った。
だが、しかし。そう、しかしだ。
外見が変わってしまった先輩に近づくのは簡単じゃなかった。まず、上級生のフロアにはやすやすとは行けない。すれ違うことも滅多にない。連絡をして、校門前や売店、自販機、中庭で待ち合わせても先輩は忙しい。
「織田ーちょっと来てー」とか「千紘、宿題見せて」とか「織田くん、これ教室に運んどいて」とか。生徒のみならず教師にさえ人気がある。
うーん。だめだ。やっぱり、先輩がモテすぎるのは困る。
***
入学して早一ヶ月……あたしはいまだ、先輩に告白が出来なかった。ここまで自分が情けない子とは思わなかった。そう。あたしは簡単に考えすぎていたんだ。
先輩と同じ高校に行けたら告白する――なんて高い目標を掲げてしまった。
それも先輩はかっこよくないから、告白だってすんなり出来るはずだと簡単に考えていたのが原因だ。まず先輩に対して失礼だし、そもそも浅はかでバカな考えだったことには早々に気がついた。実際、先輩に告白したところで付き合える保証はどこにもない。勝手に一人で盛り上がってバカみたいだ。
なにが「先輩のかっこいいところはあたししか知らない」だよ。優越感に浸っていただけなのかもしれない。
段々と自信がなくなり、先輩に連絡することも減ってしまった。
こんなはずじゃなかったのに。
空は青くて透きとおっていて、なんだか胸が寒くて寂しい。目まぐるしく進む授業に追いつくことを気にし始め、楽しみだったはずの高校生活に早くも落胆している。
そんな昼休み、あたしはお昼を一緒に食べる友達から離れて、中庭の木陰に隠れていた。気分が乗らない日だってある。あの子たちが売店に行ってる隙に身を潜めよう。
人気のないベンチは、息が詰まったあたしに解放感を与えてくれた。
「――水色の風がなびく、君の髪はまるでリボンのようだね、キラキラ眩しく揺らめいて……」
唐突に、脳内に浮かんだBreeZeの曲を歌った。青い空を見たから思い出したのかな。
「ミズイロ炭酸水」は、好きな子に好きだと伝えたい思いが四分以上に渡って綴られる歌。ボーカルの爽やかな声音とは似ても似つかないけど、小さくリズムに乗って口ずさんでみる。
「水色の風になる、君の笑顔にくらっときちゃって、ゆらゆら募るこの思い……」
気づいてないのかな
気づかないよね 僕のこの思い
ぐっと飲み干してしまうのももう何回目?
君が僕の前を走っていく
それに追いつけなくて もどかしい
だからまた飲み込んでしまうんだ
淡く弾ける炭酸水……
「飲み干すと水色の味がした」
唐突に、あたしの声に誰かの声が重なった。頭上からくる声は男の子のもので、すぐさま上を向くと、そこには眠たそうな千紘先輩がいた。
「なっ……え、ちょっ、えぇ!?」
「お、いい反応。大成功ー」
肩を上げてあわあわとするあたしに、先輩はクスクスと面白そうに笑う。それがなんだか様になっていて、あぁ、もう。やっぱりまともに顔が見られない。
あたしは立ち上がって彼から距離を取った。
「どうしたの?」
よそよそしくしたからか、先輩が不思議そうに聞いてくる。
対して、あたしの口は未だに驚いていて、うまく舌がまわらない。
「な、いきなり、なんか、ハモってくるから……」
「通りかかったら高嶺を見つけたからね、つい、脅かしたくなって」
おちゃめな事をぬけぬけと。
顔が熱いあたしは怒っているのか緊張しているのか、自分の気持ちが迷子になっていた。そして後ろめたさを思い出し、あたしの足は勝手に動く。ローファーの底をくるりと回転させ、彼から背を向けて……走る。
「え、高嶺!?」
後ろから千紘先輩の驚いた声が聴こえる。でも、全速力で走る。中庭から校庭、駐車場。固いアスファルトだろうと構わない。
でも、あたしは気持ちにかまけて、一つ大事なことを忘れていた。
「待て! 高嶺!」
すぐ後ろで先輩の声が聴こえる。それに驚いて思わず前につんのめる。
「うわぁっ!」
固いアスファルトに顔を突っ込みそうになり、目をつぶった。瞬間、腕がぐいっと大きくつかみ上げられる。千紘先輩が息も上げずに心配そうな顔であたしを見ていた。
「あっぶないなー。スパイクじゃないんだから全力出すなよ」
元陸上部エースに勝てるわけがなかった。あたしはいつだって先輩を追いかけていたんだから、逃げられるはずがない。
思わず目を伏せる。体勢を整えても、顔だけは上げられない。すると、頭の上で千紘先輩が静かに言った。
「ねぇ、高嶺。その、ゆっくり話とか出来なかったし、それで怒ってたりするの?」
「え? いや、そんなことは……」
どうなんだろう。分からない。怒ってるのかもしれないし、でもあたしが怒る資格はなくて、どうしたらいいか分からない。
先輩はあたしのものじゃない。そりゃ、仲は良かったけど……あぁ、そのせいで自惚れていただけなのかも。汚い気持ちを認識すると、さらに落ち込んでいく。
黙るあたしに、先輩は呆れの息を吐いた。
「ねぇ、高嶺。こっち向いて」
「嫌です」
「即答かよー、もう、参ったなぁ」
なんだよ、その軽口。人の気も知らないで。
あぁ、ほらまたそうやって勝手に気持ちが上下する。あたしの気持ちなんて、先輩には関係ないことなんだから……
でも、巻き込んでみたくなる。脳天気に笑う先輩を困らせたくなる。
あたしの腕をつかむ先輩の大きな手に指を伸ばした。ひんやりとした手の甲をぎゅっとつねってみる。
「いった! やっぱり怒ってんじゃん」
「はい。怒ってます。先輩が、モテすぎてて……あたし、嫌なんです」
顔はやっぱりうつむけたままだけど、絞り出すように言う。
「そんなかっこよくなってるとか、聞いてないし。なんか、すっごい忙しそうだし、楽しそうだし、充実しちゃって、あたしなんかが来なくても別に良かったじゃないですか」
先輩はもう笑うのをやめていた。困ってると思う。もしかしたら怒ったかも。どうしても顔を上げられないから分からない。
「……かっこよくなってる?」
突然に落ちてきた言葉は確かめるような囁きだった。
「え?」
ちらっと目線を上げてみる。
すると、先輩は耳を少し赤らめていた。
「いや、ほら……俺さ、高嶺にかっこいいって言われたかったから」
先輩は目を泳がせていた。目元を頼りなく下げて、首筋をポリポリ掻く。忙しない。咳払いし、それでもまた小さく口を開いた。
「えっと……だって、高嶺はみんなから好かれてたし、俺じゃつり合わないと思ってて。お前、女子では一番速いから一目置かれてたし、他の男子も気に入ってたし。まぁ、そのなんというか……」
ここでようやく思考が回ったあたしは思わず彼の口をふさいだ。
「ストップ! 待ってください! 処理が追いつかない!」
「いや、待たない」
ふさいだその手をどかされる。片手で軽々あたしの両手をつかんで、彼はじっとあたしの目を見た。
「高嶺が追いかけてきてくれたら、告白しようと思ってた。だからいま、それを言うから、待たない」
あぁ、もう。顔が熱すぎて倒れそう。地面に打ち付けられたように固まってる。
それは、昔のかっこよくない先輩ではなく、努力で磨かれたものからポツリと言葉が紡がれた。
***
あたしが好きだから、という理由でBreeZeの楽曲を集めたらしい。あたしが好きだから、という理由で空で歌えるようになったらしい。
「このトレーニングメニューをこなしたらアイス食べる」とか「自己ベスト更新したらグッズを買う」とかそういう願掛けをあたしがよくしていたのを真似して、彼も大会で自己ベスト出せたら告白しようと思っていたらしい。結果は残念だったので、今度はあたしが同じ高校を受けたら、とそれに賭けたらしい。
あたしのことはいつの間にか好きになっていた、と曖昧な理由なので納得はいまだに出来ない。外見は見違えても中身は千紘先輩のままで、やっぱりかっこよくない。
「リベンジしようって思ったんだ」
千紘先輩ははにかみながら言う。だから「あたしもですよ」と小さく返す。
そんな話をしていると、水色の風があたしたちの髪をさらった。
〈track2:BOY MEETS GIRL REVENGE!/高嶺華弥 完〉
そう決めたのは昼休みのことだった。
早々に友達が出来たことに関しては感謝しよう。でも、今朝に先輩が一年のフロアへ来たせいで、彼の話題で持ちきりだ。
「織田先輩ってかっこいいよね」から始まり「仲良くなりたいよねー」とか「話してみたいな」とか、とにかく女子たちの食いつきが大変よろしい。
後輩としては鼻高々なもの。でも、あたしだって千紘先輩のこと好きなんだから妬いてしまう。不安が広がる。
どうしよう。先輩がモテすぎて困る……
「ねぇ、華弥ちゃん。また先輩来てくれないかなぁ。呼んだら来てくれるかなぁ」
「いやぁ……どうだろうねぇ。先輩、忙しそうだし」
あぁ、みっともない。嫌な気持ちになってしまう。
あたし、心狭いのかなぁ。先輩の話になるとつい声が固まってしまう。もやもやする。だからか、へそ曲がりな口はツンとしてしまった。
「て言うか、あれかっこいいの? 中学の時なんか、もうすさまじいほどに、ぼやーっとしてたんだよ。全然かっこよくなかったし」
「えぇー、そうなの? でも普通にイケメンだよね」
「ね! かっこいいよね!」
あぁ……下げようとしても評価が下がらない。第一印象ってすごい効果的だ。あたしはどうにも出来ず、「あはは」と愛想笑い。
本当はそんなことしたくないのに、ふくらむ気持ちは悪いものばかりで、どんどん焦りに変わってしまう。そして、先輩の評価を下げるように言ったことを後悔した。
***
それからも、我が一年C組は絶好調に「織田千紘フィーバー」が続いていた。なんてこった。
確かにね、確かに先輩は外見が見違えるほど変わった。短い髪の毛がダサいと中学の時は思ってたし、とりわけかっこよくない先輩に恋をする自分がよく分からなかった。
夏は髪が邪魔だからと言って坊主頭にしてきたり、かと思えば爪を切ることを忘れて風紀検査に引っかかって部活停止を食らったり。日常生活ではぼんやりしているせいで、いまいちかっこよくない。
ただ――走る姿がかっこいいことは間違いない。先輩のかっこよさはここに凝縮されている。それをあたしだけが知っている。
クラウチングスタートの姿勢を取るなり、眠たそうな目をキュッと引き締める。そして、ゆっくり瞬きをしてすぐに、スタートの合図で風を紡ぐ。水色のユニフォームが駆け抜ける。誰よりも速く。
その残像を追いかけて、ゴールする彼の涼やかな顔にあたしはいつも見とれてしまう。あぁ、やっぱり、思い出の先輩が好きだな……それじゃあ、今の先輩はどうなんだろう。
あんなに外見を気にしなかった先輩が、周囲のおしゃれな都会っ子たちと馴染んでいる。
いや、待てよ。もしかすると先輩は都会に馴染むために変わったのでは……?
なるほど。謎が解けた。
「華弥ちゃん? どしたの」
「ニヤニヤしちゃってー。さてはやっぱり先輩のこと好きだなー?」
できたばかりの友達二人がしきりにあたしの頬をツンツンしてきた。
「なっ! そ、んな……いや、やめてよぉ……」
まさか顔に出てたとは思わず、あたしはようやく晴れやかに笑った。
だが、しかし。そう、しかしだ。
外見が変わってしまった先輩に近づくのは簡単じゃなかった。まず、上級生のフロアにはやすやすとは行けない。すれ違うことも滅多にない。連絡をして、校門前や売店、自販機、中庭で待ち合わせても先輩は忙しい。
「織田ーちょっと来てー」とか「千紘、宿題見せて」とか「織田くん、これ教室に運んどいて」とか。生徒のみならず教師にさえ人気がある。
うーん。だめだ。やっぱり、先輩がモテすぎるのは困る。
***
入学して早一ヶ月……あたしはいまだ、先輩に告白が出来なかった。ここまで自分が情けない子とは思わなかった。そう。あたしは簡単に考えすぎていたんだ。
先輩と同じ高校に行けたら告白する――なんて高い目標を掲げてしまった。
それも先輩はかっこよくないから、告白だってすんなり出来るはずだと簡単に考えていたのが原因だ。まず先輩に対して失礼だし、そもそも浅はかでバカな考えだったことには早々に気がついた。実際、先輩に告白したところで付き合える保証はどこにもない。勝手に一人で盛り上がってバカみたいだ。
なにが「先輩のかっこいいところはあたししか知らない」だよ。優越感に浸っていただけなのかもしれない。
段々と自信がなくなり、先輩に連絡することも減ってしまった。
こんなはずじゃなかったのに。
空は青くて透きとおっていて、なんだか胸が寒くて寂しい。目まぐるしく進む授業に追いつくことを気にし始め、楽しみだったはずの高校生活に早くも落胆している。
そんな昼休み、あたしはお昼を一緒に食べる友達から離れて、中庭の木陰に隠れていた。気分が乗らない日だってある。あの子たちが売店に行ってる隙に身を潜めよう。
人気のないベンチは、息が詰まったあたしに解放感を与えてくれた。
「――水色の風がなびく、君の髪はまるでリボンのようだね、キラキラ眩しく揺らめいて……」
唐突に、脳内に浮かんだBreeZeの曲を歌った。青い空を見たから思い出したのかな。
「ミズイロ炭酸水」は、好きな子に好きだと伝えたい思いが四分以上に渡って綴られる歌。ボーカルの爽やかな声音とは似ても似つかないけど、小さくリズムに乗って口ずさんでみる。
「水色の風になる、君の笑顔にくらっときちゃって、ゆらゆら募るこの思い……」
気づいてないのかな
気づかないよね 僕のこの思い
ぐっと飲み干してしまうのももう何回目?
君が僕の前を走っていく
それに追いつけなくて もどかしい
だからまた飲み込んでしまうんだ
淡く弾ける炭酸水……
「飲み干すと水色の味がした」
唐突に、あたしの声に誰かの声が重なった。頭上からくる声は男の子のもので、すぐさま上を向くと、そこには眠たそうな千紘先輩がいた。
「なっ……え、ちょっ、えぇ!?」
「お、いい反応。大成功ー」
肩を上げてあわあわとするあたしに、先輩はクスクスと面白そうに笑う。それがなんだか様になっていて、あぁ、もう。やっぱりまともに顔が見られない。
あたしは立ち上がって彼から距離を取った。
「どうしたの?」
よそよそしくしたからか、先輩が不思議そうに聞いてくる。
対して、あたしの口は未だに驚いていて、うまく舌がまわらない。
「な、いきなり、なんか、ハモってくるから……」
「通りかかったら高嶺を見つけたからね、つい、脅かしたくなって」
おちゃめな事をぬけぬけと。
顔が熱いあたしは怒っているのか緊張しているのか、自分の気持ちが迷子になっていた。そして後ろめたさを思い出し、あたしの足は勝手に動く。ローファーの底をくるりと回転させ、彼から背を向けて……走る。
「え、高嶺!?」
後ろから千紘先輩の驚いた声が聴こえる。でも、全速力で走る。中庭から校庭、駐車場。固いアスファルトだろうと構わない。
でも、あたしは気持ちにかまけて、一つ大事なことを忘れていた。
「待て! 高嶺!」
すぐ後ろで先輩の声が聴こえる。それに驚いて思わず前につんのめる。
「うわぁっ!」
固いアスファルトに顔を突っ込みそうになり、目をつぶった。瞬間、腕がぐいっと大きくつかみ上げられる。千紘先輩が息も上げずに心配そうな顔であたしを見ていた。
「あっぶないなー。スパイクじゃないんだから全力出すなよ」
元陸上部エースに勝てるわけがなかった。あたしはいつだって先輩を追いかけていたんだから、逃げられるはずがない。
思わず目を伏せる。体勢を整えても、顔だけは上げられない。すると、頭の上で千紘先輩が静かに言った。
「ねぇ、高嶺。その、ゆっくり話とか出来なかったし、それで怒ってたりするの?」
「え? いや、そんなことは……」
どうなんだろう。分からない。怒ってるのかもしれないし、でもあたしが怒る資格はなくて、どうしたらいいか分からない。
先輩はあたしのものじゃない。そりゃ、仲は良かったけど……あぁ、そのせいで自惚れていただけなのかも。汚い気持ちを認識すると、さらに落ち込んでいく。
黙るあたしに、先輩は呆れの息を吐いた。
「ねぇ、高嶺。こっち向いて」
「嫌です」
「即答かよー、もう、参ったなぁ」
なんだよ、その軽口。人の気も知らないで。
あぁ、ほらまたそうやって勝手に気持ちが上下する。あたしの気持ちなんて、先輩には関係ないことなんだから……
でも、巻き込んでみたくなる。脳天気に笑う先輩を困らせたくなる。
あたしの腕をつかむ先輩の大きな手に指を伸ばした。ひんやりとした手の甲をぎゅっとつねってみる。
「いった! やっぱり怒ってんじゃん」
「はい。怒ってます。先輩が、モテすぎてて……あたし、嫌なんです」
顔はやっぱりうつむけたままだけど、絞り出すように言う。
「そんなかっこよくなってるとか、聞いてないし。なんか、すっごい忙しそうだし、楽しそうだし、充実しちゃって、あたしなんかが来なくても別に良かったじゃないですか」
先輩はもう笑うのをやめていた。困ってると思う。もしかしたら怒ったかも。どうしても顔を上げられないから分からない。
「……かっこよくなってる?」
突然に落ちてきた言葉は確かめるような囁きだった。
「え?」
ちらっと目線を上げてみる。
すると、先輩は耳を少し赤らめていた。
「いや、ほら……俺さ、高嶺にかっこいいって言われたかったから」
先輩は目を泳がせていた。目元を頼りなく下げて、首筋をポリポリ掻く。忙しない。咳払いし、それでもまた小さく口を開いた。
「えっと……だって、高嶺はみんなから好かれてたし、俺じゃつり合わないと思ってて。お前、女子では一番速いから一目置かれてたし、他の男子も気に入ってたし。まぁ、そのなんというか……」
ここでようやく思考が回ったあたしは思わず彼の口をふさいだ。
「ストップ! 待ってください! 処理が追いつかない!」
「いや、待たない」
ふさいだその手をどかされる。片手で軽々あたしの両手をつかんで、彼はじっとあたしの目を見た。
「高嶺が追いかけてきてくれたら、告白しようと思ってた。だからいま、それを言うから、待たない」
あぁ、もう。顔が熱すぎて倒れそう。地面に打ち付けられたように固まってる。
それは、昔のかっこよくない先輩ではなく、努力で磨かれたものからポツリと言葉が紡がれた。
***
あたしが好きだから、という理由でBreeZeの楽曲を集めたらしい。あたしが好きだから、という理由で空で歌えるようになったらしい。
「このトレーニングメニューをこなしたらアイス食べる」とか「自己ベスト更新したらグッズを買う」とかそういう願掛けをあたしがよくしていたのを真似して、彼も大会で自己ベスト出せたら告白しようと思っていたらしい。結果は残念だったので、今度はあたしが同じ高校を受けたら、とそれに賭けたらしい。
あたしのことはいつの間にか好きになっていた、と曖昧な理由なので納得はいまだに出来ない。外見は見違えても中身は千紘先輩のままで、やっぱりかっこよくない。
「リベンジしようって思ったんだ」
千紘先輩ははにかみながら言う。だから「あたしもですよ」と小さく返す。
そんな話をしていると、水色の風があたしたちの髪をさらった。
〈track2:BOY MEETS GIRL REVENGE!/高嶺華弥 完〉