去年の夏以降、公園には行っていない。中学卒業して高校に入ってからも欠かさずここでシュート練習を二人でやっていたけれど、私はある日を(さかい)にぱったりとやめてしまった。
バスケをやめた。
それを達海に知られたくなくて、また自分が情けなくて、とても行く気になれなかった。達海を()けていた。だから、あの公園へ行くのも一年ぶりだと思う。
行こうかやめようか迷っていたら、部活が終わる時間を大幅に越していた。まあ、学校で会ったらなんか怒鳴(どな)られそうで怖いし。
そっと公園の近くまで行くと、ボールの跳ねる音が響いてきた。入り口からそっとのぞく。

砂が詰められた地面だから、ドリブルの音はなんだか軽い。背が伸びても器用なところは相変わらずで、ボールを自在に(あやつ)っていく。大きな動きで透明なディフェンスをかわして、そのままゴール下のシュートを放つ――と思ったら違う。
スリーポイントのラインでキュッと止まり、そのまま背筋を伸ばして跳ぶ。
高く、跳ぶ。
右手首だけでボールを弾いた。ワンハンド。
伸び上がった彼の腕から離れていくボールは、弧を描いてゴールの中へ吸い込まれ……なかった。
ガシャンッと大きな音を立ててボールは呆気(あっけ)なく遠くへ弾かれる。それを片手で軽々拾うと、そのままゴール下からひょいっと投げ込んだ。ナイス、リバウンド。
すると達海は、私の視線に気がついた。コートの外に置いていたタオルを取って汗を拭きながらこっちへ手招きする。

「おせーよ、バカ」

そろりと近づけば、すかさず悪態(あくたい)。でも、これには文句(もんく)が言えない。
近づけば、シャカシャカした音楽が足元から()い上がってきた。それが無言な私たちを冷やかす。達海のスマホから流れているらしいその音楽が邦ロックかなぁと予想してるほどに私は現実逃避。

「その曲、なに?」

聴いてみると、達海はぶっきらぼうに「練習用BGM」と答える。私も「ふーん」とそっけなく相槌(あいづち)

「好きなの?」
「まぁまぁ。兄貴(あにき)がよく聴いてるからパクった」
「へぇ」

確か、達海のお兄ちゃんは私より一つ年下の高校二年生だ。名前は千紘(ちひろ)だったかな。高校は違うけど、中学のときは陸上部のエースだった。いまはどうなんだろう。
そんなことをぼんやり考えていると、思考(しこう)(さえぎ)るように激しい歌が流れる。夕焼けの空へ熱い()を、いや、雄叫(おたけ)びをめいっぱい上げて。

『しょっぱいも 苦いも 飲み干してしまえばいい
 ぜんぶぜんぶ飲み干して 自分のものにすればいい
 おなえがおまえを諦めんな!!!!』

高くて伸びやかで、爽やかな声のボーカルなのに、歌詞はどうにも(あら)っぽい。なんだか達海に似てる。
しばらくその曲と歌詞を聴いて、私は黙りこくった。
だって、後ろめたい。この砂ぼこりが舞うコートに立つことすら(ゆる)されない気がして逃げたい。

「おい」

ギターとドラムのサウンドをバックに達海の低い声。彼は私にボールを放ってよこした。

「投げろ」
「えっ……いや、でも……」

動揺のあまり、胸の鼓動(こどう)がドキリと跳ね上がる。
そんな私に構うことなく、達海はイライラと急かした。

「いいから、さっさと投げろ」

久しぶりに(さわ)るボールの感触は手に馴染(なじ)むけれど、これを持つ資格がない気がして放り出したい。
達海はもう走っていて、パスのサインを出している。仕方なく、思い切りバウンドパスを送る。彼はボールをキャッチしてその場からロングシュートを放つ――外れた。ボードに当たって跳ね返る。

「次、ライナ」

ボールを取って達海はぶっきらぼうに言う。

「いや……いい、私は」

後ずさりながら言うと、達海が一歩詰め寄った。

「なんで?」
「だって……バスケ、やめたし」
「かんけーねぇだろ。じゃあ、体育の球技もそうやって避けんの? やめたからバスケすんなとか誰も言ってねぇじゃん」

それはそうだけど。

「なんでやめたんだよ。オレ、お前のプレーが見たいから同じ学校に来たのに。練習にも来ねぇし。怪我(けが)したからって別にやめるほどのことじゃねぇだろ」

たたみかける言葉に、思わず息を飲んだ。

「怪我のこと、知ってたの……?」
「バカにすんな。見りゃわかんだろ、それくらい。まぁ、男バス女バスの三年にも(くわ)しく聞いたけど」

そう言って達海は私の右手首を(にぎ)る。意外にもじわっと優しい握りかたなのに、私は怯えたように肩を上げる。
そんな私を見てか、達海はため息をついて静かに言った。

「もう(なお)ったんだろ、手首」
「うん……」

去年の春、大会予選前に私は手首をねんざした。足の故障(こしょう)ならまだしも、利き手の故障はやっぱりダメージが強い。いままで何度も怪我してきたけれど、右手首のねんざは私の得意を奪うくらいの脅威(きょうい)だった。

「怪我くらい、スポーツやってたらよくあることだろ。もったいねぇんだよ。点取(てんとり)のお前が消えるのは」

イライラと言う達海。その(くや)しげな声に、私までいらだってしまう。

「私だってやめたくなかったよ。でも、また手首使えなくなったら今度はねんざじゃ済まないよ。私は足が遅いし、身長もないから点を(かせ)ぐしかないんだよ。それなのに……」

シュートを打つのが怖くなった。怪我が治ってもその恐怖心に(しば)られてフォームが乱れる。あんなにキレイに決まっていたのに、あちこちに跳ね返されていく。
どうやって入れてたっけ。思い出せなくなる。そうなると、もうコートに私の居場所(いばしょ)はない。
達海の手を振り払って、私は右手首を守るように握った。
私からシュートを奪ったらなにも残らない。そんな空っぽな私を見せたくなかった。だから、バスケも達海も避けるしかなかった。
スマホから流れる音楽は、気休(きやす)めな詞をうたう。なにが「諦めんな」だよ。諦めるしかなかったんだよ。

「……泣くなよ」

達海は頼りなく言う。困ったように。
それがいままでに聞いたことがない彼の優しい声だったので、私はさらに感情が高ぶった。(あわ)れみが鬱陶(うっとう)しくなる。これ以上にない(みじ)めな自分。それをこいつに見せるのが、すごくすごく嫌だ。

「泣いてないし!」
「じゃあ……怒んな」
「怒ってない!」
「それは嘘だろ」
「……どうでもいいよ、そんなの」

めんどくさいな、まったく。
達海を(にら)むと、眉をひそめてうなだれていた。どうにもしおらしくて、私はまた気まずい思いを抱く。
達海がため息を吐いた。まくっていたTシャツの(そで)を下ろしながら。

「――オレ、おまえのプレー好きだった」
「え?」

思わぬ言葉に驚くと、達海は口角を上げた。

速攻(そっこう)の場面なのによ、止まってフェイクかけてボール打ってさ。そのフォームが誰よりもキレイだった。中学のときも、ここで練習してるときもいつだって。ずっとおまえのフォームを(ぬす)んでやろうと思ってた」

達海は人差し指のてっぺんでボールを回した。バランスを取ろうとよろめいて地面に落ちる。テンテン、と転がるボールは私の足元で止まった。

「シュートの打ち方、忘れたんならオレが教えてやれる」
「え……?」
「何年見てきたと思ってんだよ。おまえのフォーム、コピーするためにずっと見てきたんだ」

達海はタオルで私の頭を覆った。その上から大きな手でくしゃくしゃとなでてくる。
恥ずかしいからタオルに隠れたままで私は口をとがらせた。

「……なにそれ。一回も決まらないくせに」
「うるせぇ。一応入るようになったし」
「どのくらい?」
「……20%(パー)くらい?」
「入んないじゃん」

相変(あいか)わらずシュートは下手だった。ずっと私を見て練習してるくせに、その程度か。

「うるせぇ」

達海はぶっきらぼうに声を投げた。

「言うとおりにやってるけど、やっぱ試合中は入らねぇ」

止まったままでボールを放つ。達海の手から離れるそれはきれいな軌道を描いた。パスっと網に落ちる。

「でもさ、諦めたらそこで終わりだろ」
「出た、名台詞(めいぜりふ)

古いバスケ漫画(まんが)のワンシーンを思い出す。私はタオルを頭にかけたままフフッと笑った。

「まぁ、それもだけど」

達海はちらりとスマホを見やった。ずっと流れているそれは応援歌。「諦めんな」とかそういう歌詞がつらつらと流れていく。

「おまえの居場所はそこじゃねぇだろ、って歌詞がある」
「へぇ」
「オレはおまえにそう言いたい」
「うーん……」

お前の居場所はそこじゃない、か。
まったく、二つも下のクソガキにここまで言われちゃ敵わない。

「パス、投げて」

息を大きく吸い込んで、達海のパスを受ける。狙いを定めて、手首ではらう。
スッと離れるボールは弧を描いてゴールへ向かう。でも、その手前で呆気なく落ちてしまった。かすりもしない。(むな)しさが転がっていく。
私は「ほらね」と苦笑を向けてやった。でも、達海は一切笑わない。ため息をついてボールを拾って、手のひらで転がす。

「今度の試合」
「ん?
「オレがスリー入れたら、おまえ、大学でバスケやれよ」

その声には少し意地がある。

「オレもすぐに追いついてやるから」
「……なにそれ」

私は呆れて吹き出した。
試合でシュート決まったら、とか。どっかの青春漫画かよ。
でも、なんだか心地良い。むずがゆくて、恥ずかしい。でも、嬉しい。
やめてよ、そんな真剣な顔で。チビだったくせに。クソガキだったくせに。生意気すぎ。ほんと、ありえない。
顔が熱くなってくる。赤く火照(ほて)ってきそうだから、いまが夕方で本当に良かった。

「……まぁ、入ればの話だよね」
「ぜってー入れてやる」

照れくさく笑う私に、達海は機嫌よくボールを地面に叩きつけた。空へと跳ね上がる。