「離婚してから母親は、変わりました。泣かなくなり、とても優しくなりました。しばらくして、一緒にアイスクリームを食べました。甘くて美味しかったけれど、実は僕、不思議な気持ちだったんです」
「不思議な気持ち、ですか?」
ふと私が問うと彼が優しい笑みを添えて言った。
「はい。あの時の僕は、本物のアイスクリームより、匂い袋の香りのほうが甘いと思ってしまったんです。アイスクリームを食べるより、この香りに包まれていた時間のほうが幸せだと感じたんです……」
「そうでしたか……」
全てを包み込むような微笑みで、颯ちゃんが言った。
私はそんな颯ちゃんの隣で思っていた。
毎日泣いていた母親が泣かなくなり、優しくなった世界は、彼にとってどれほど甘くて幸せだったのだろう。
幼い彼は、この幸せを運んできてくれたのは、祖母がくれた匂い袋だと思ったのかもしれない。
そして、大人になる前に、あの香りと温もりに包まれて、最高に幸せだと感じた子ども心を、もう一度思い出したくなったのかもしれない。
――きちんと思い出にするために。
「当時の気持ちに出会えてよかったです……。本当にありがとうございました」
彼は頭を下げ、バニラの匂い袋を抱きしめて帰って行った。
彼の体をまとう色は、穏やかに揺らめいていた。
彼が去ってから、私は颯ちゃんを見上げて訊いた。
「でも、どうして、和バニラの匂い袋だとわかったんですか? 彼が“ぽっぽ”と言ったから?」
それでも、鳩屋堂さんには、他の香りの匂い袋もたくさんあった。
けれど、颯ちゃんは迷いなく、和バニラの匂い袋を手に取ったのだ。
「ええ……、彼は甘いお菓子が禁止だった。隠れて与えては、彼が余計に辛い思いをするかもしれないと考えた祖母は、せめて香りだけでもと思い、和バニラの匂い袋を彼に持たせたと思いました。そして、もうひとつ、母親が激高したことを聞き、祖母が泣いたと彼が言ったので、この香りしかないと思ったのです」
「どういうことですか?」
きょとんと首を傾げて問うと、颯ちゃんは鳩屋堂さんの看板を見つめて言った。
「和バニラの芳香は、怒りやフラストレーション、緊張を和らげるリラックス効果があり、気分を向上させると言われています。きっと、彼のおばあさまは、この香りがもたらす効果が、遠く離れる孫を守ると思ったのでしょう。二人きりになった娘が、孫にきつくあたらないように。そして、この香りが孫を守りますように……。そうおまじないをかけ、彼に持たせたのだと思います」
寺町商店街を歩いていく、彼の後ろ姿を見ながら、颯ちゃんが言った。
「おまじない……」
「ええ。大切な人を思うおまじないの効力は、強いですから」
今度は私だけを真っ直ぐに見つめて言う彼の瞳に、低い声に、私の心臓は跳ねた。
私もこの人に、おまじないをかけてもらったことがあるからだ。
アーケード付きの商店街にいるせいだろうか。風が抜けずに、体の中を走る熱がこもる。頬が赤くなっていると思う。
戸惑う私から視線を外した颯ちゃんは、商店街の奥にある令月香のほうを見て言った。
「令月香にも和バニラの匂い袋を置いてもいいかもしれませんね」
「でも、おじいちゃんが作る気はしません」
香司である祖父が作ってくれなければ、ウチに新商品はできない。
祖父が甘い匂いを取り入れてくれる気はしない……そう思ってしまった。
和バニラの匂いはとても素敵な香りなのだけれど。
「では、僕が作りましょう」
「え? どういうことですか?」
「今日から、令月香の香司ですから」
「令月香の……、香司……?」
「実は、もうじきオープンする聞香処の香司として雇われました。一香さんもお手伝いしてくださるんでしょう?」
「え……」
「これから、よろしくお願いしますね。一香さん」
「ええええー‼」
コンコンチキチン、コンチキチン。
どこからともなく祇園囃子の音色が聞こえてくる七月、この町では大きなお祭りが始まる。
それは日本三大祭りの一つの祇園祭だ。
祇園祭とは、七月一日から三十一日まで、一か月にわたって多彩な祭事が行われる八坂神社の祭礼で、千百年の歴史があるお祭りだ。
私の住む寺町商店街には、子ども神輿から始まり、舞妓さんの行列もあるにぎやかな花笠巡行が通る。
アーケードのある商店街は、真夏の日差しをさけ、しかもこれ以上ない近さで花笠巡行を観ることができるため、商店街を通る花笠巡行は、知る人ぞ知る祇園祭の楽しみ方の一つとなっている。
祇園祭のクライマックス、「山鉾巡行、後祭」と「花笠巡行」は七月後半。
七月に入ったばかりの京都の街は、その日を今か今かと待っているかのように、少しそわそわしている。
コンコンチキチン、コンチキチン。
学校が終わった私は、今日も祇園囃子を聞きながら商店街へ帰ってきた。
寺町商店街のアーケードには、たくさんの提灯が飾られ、静かに祇園祭を楽しんでいる。
今日も飾られた提灯を眺めながら、令月香に帰ると、大きなガラス張りの入り口から、あの人が立っているのが見えた。
大島紬のアンサンブルを着て、涼やかに立っている男の人を見ただけで、胸の鼓動が早くなった。
制服の上から臓に手を当てて、ふうと息を吐きだす。
心を落ち着かせてから、暖簾をくぐって店内へ入ると、優しい香りがした。
普段の香りとは違うこの香りは沈香(じんこう)。
今日の香りは彼のセレクトだろうか。
広い空間に香りを漂わせる空薫(そらだき)から零れる香りは、普段の彼から漏れる香りと同じで、私の胸がまたトクンと鳴りだした。
「一香さん、おかえりなさい」
にこりと微笑んで、彼が言った。
今までたくさんの“おかえり”を聞いてきたけれど、この人の声色にかなう人はいない。
令月香の勘定台に立っているのは、私の初恋の人、三ツ井颯也さんだ。
私は九つ年上の彼を“颯ちゃん”と呼び、彼は年下の私を“一香さん”と呼ぶ。
それは、私はこの店、令月香の孫娘だから――。
私が小学生、そして彼が大学生の時から、私たちはお互いのことを知っている。
長期休みになるたびに京都へ来ていた小さな私を、大学生の彼はかわいがってくれた。
そしてその愛は、今も続いているように思う――。
でも、その愛情は――……。
「一香さん、どうされましたか? そんなに嬉しそうな顔をして」
「ひ、ひゃあっ!」
突然、顔を寄せられた。
目の前に鼻筋の通った上品な顔があって、私はたじろいでしまう。
色白でなめらかな肌、キュッとあがった唇、艶のある黒髪。一度目を合わせたら自分からはそらせないほどの力強い眼力持つ彼は、”美しい”という形容詞がよく似合う。
それでいて、筋肉質な体つきや、骨ばった手などは、やたらと“男の人”を感じさせるので、私の心臓は彼が近づくだけではねあがる。
突然、目の前に輝かしい人が現れ、これ以上近寄ることなんてできず、けれど素早く逃げるほどの運動能力も持たない私は、硬直するしかない。
ガッチリと固まる私を見た颯ちゃんは、眉根を寄せて言った。
「今度は青白くなりましたね……何か悩み事ですか?」
そう言って、颯ちゃんは、私の頭の上にポンと手を置くと、優しく目を細めた。
この仕草もそう。
小学生時代、落ち込んだ私に颯ちゃんがしてくれたことと同じことだ。
彼が私に向ける愛情は、変わらない。
彼が私を可愛がってくれているのは、昔も今も同じ理由だと思う。
それはきっと、家族愛――。
颯ちゃんは今も私のことを小学生のように思い、家族のように、そして手のかかる妹のように接しているのだろう。
普段の私なら、目の前の人の色を見れば、ある程度その人の感情や本心がわかる。
その人を取り巻くオーラのような色の動き方、くすみ方、輝き方から、心の動きがなんとなくわかるのだけれど、彼だけはわからない。
それは、彼には色がないから。
涼やかにこちらを見つめる彼には、どうして色が見えないのだろう。
じっくりと見るけれど、やはりわからなかった。
「一香さん?」
でも、それはお互いさまらしい。
私に彼の色が見えない、感情の動きが読めないことと同じように、頭脳明晰でどんなことでも推理してしまう彼に、私の気持ちはわからないみたいだ。
眉間にしわを寄せ、本気で悩んでいる彼に私はやっと声をかけた。
「なんでもないの! ただ颯ちゃんが令月香にいることにまだ慣れなくて……」
「そうでしたか。これから僕は毎日ここにいますので、早く慣れてくださいね」
「うん……がんばる」
「わざわざがんばらなくても」
そう言って短く笑った彼の笑顔に私の胸が高鳴った。
*
――『月令香に雇われましたから』
そう彼が言った時は、信じられなかった。
パッと目が覚めて、起きたら夢でした。なんて、そんなオチが待っているかと思ったけれど、私はまだ目を覚まさない。やっぱりこれは……
「現実だよね……」
「何ゆうてんの、一香。はよ、食べ」
「う、うんっ」
祖母に促された私は、目の前に並んでいる料理を見た。
本マグロ、ヒラメの昆布締め、イカ、サーモンなどの造りの盛り合わせに、トマトやオクラなど季節の野菜の土佐酢ジュレがけ。加茂茄子と刃物揚げだし、ふんわりと焼きあがった出し巻き卵など、数種類の和食が並んでいる。
私は美しく焼かれた出し巻き卵を食べた。ふんわりとした食感の後に、じゅわりとだし汁が口の中に広がっていく。
「おばあちゃん、おいひいよ!」
「これ、お行儀の悪い! 食べている最中にしゃべらへんの!」
「も、もめん……」
「ははは」
まだ喋る続ける私を見て、ふんわり笑うのは、目の前に座っている颯ちゃんだった。
鴨川沿いに立つ京町屋では、期間限定で、鴨川に納涼床を楽しめる。
目の前に、夜の京都の街並みや鴨川を眺めながら、大人たちは地酒を楽しんでいる。
未成年の私の前には、オレンジジュース。
私は颯ちゃんに笑われてしまったことが恥ずかしくて、私はそっとジュースを飲んだ。
今夜は、令月香へやって来た颯ちゃんを祝う会。
メンバーは、祖父母に颯ちゃんと私の四人。川床で小さな祝賀会を開いている。
納涼床で風を感じている颯ちゃんを見ていると、なんだか不思議な気持ちになってきた。
本当に、帰ってきたんだ……と、まだどこかで信じられない私がいるのだ。
「淡路はどうやったんや?」
普段、無口な祖父が日本酒を飲みながら言った。