「淡路を出て、京都で一人静かに暮らすつもりでした。けれど、大学は思っていた以上に様々な人がいて、僕はその香りに耐えられませんでした」

「香りに耐えられないって、どういうこと?」

 彼の言葉が理解できなくて問うた。

 颯ちゃんは遠い記憶を思い出すかのように、いやそれはまるで一番近くにある小石を拾うかのように、話し出した。

「一香さんは、人に色が見えると言いますよね?」

「はい」

「僕は……、相手の香りが聞こえるのです」

「え……」

「けれど、僕の場合は一香さんとは違う。一香さんのようにあらゆる感情が色になって見えるわけではない。僕がわかるのは強い悲しみや憎しみ、怒りといった負の感情の香りだけなんです」

 私は黙って聞いていた。

「僕は物心ついた時から鼻が利く子どもで、いろんな匂いをかぎ分けられました。そのうち、とても強い匂いがあることに気づいたのです。それは人から放たれる負の香りでした。誰もがこの悪臭を感じ取っているのだと思っていました。けれど、みな平気な顔をして嘘をつく、人をだます、全部香りでごまかせないのに、どうしてそんな愚かなことをするのだろうと思いました。けれど、誰も気づかないのです。他人が、自分が、悪臭を放っていることに気づかない」

「……」

「僕にだけその力があることが分かりました。その力は新しくできた家族の負の感情まで察知してしまった。きっと僕がいないほうが、母は、妹は、幸せになれる……。そう思って、僕は京都へ戻ることを決めたんです」