青木さんの目の前に、冷水の入ったグラスが置かれた。
 青木さんは勢いよく冷水を飲みこんだ。ゴクンゴクンと喉元を通って流れていく水の音が聞こえるほど、店内は静かだ。

 静寂な空気の中、ふと視線を感じてそこを見ると、お店の隅の四人がけテーブルにラベンダーの彼女が座っていた。

 あぁ……、今日はこちらに来られていたんだ。

 今日もラベンダーのお香を買いに来られたのだろう。
 けれど、令月香で私たちが青木さんとトラブルになっていたから、やわらぎ聞香処で待っていてくださったのかもしれない。彼女は聞香カフェも気に入ってくれたから。

 ラベンダーの彼女に、私は声をかけそうになる。けれど、彼女は自分の口元に人差し指を当てて、静かにというジェスチャーをした。

 青木さんの様子がおかしいことに気づいた彼女の気遣いだろうか。
 私はこくりと頷いて、颯ちゃんの側に立った。

 水を飲み終えた青木さんに、祖母がゆっくりと声をかけた。

「青木さん、どうや。少しは落ち着いたか」

 祖母の声に彼は疲れたような笑みを見せた。

 やはり祖母と青木さんは知り合いなのだ。私は青木さんのことを知らないけれど、昔からこの商店街でお店を開いている祖母の顔は広い。私の知らない繋がりは山ほどある。

「よければ聞香をしていかれますか?」

 彼の落ち着きが半分ほどしか戻っていないと感じたのであろう颯ちゃんがそう言った。

 彼は鋭い視線を颯ちゃんに向けて

「ラベンダーの香りはあるのか?」

 と聞いた。

「こちらで扱っている香りは香木を使った三種類になります。大変申し訳ありませんがラベンダーの香りはございません」

「そうか……なら、いい」

「どうして、それほどラベンダーの香りにこだわるのですか?」

 囁くように颯ちゃんが言った。

「アイツが好きな香りやからや……」

 青木さんは、長い前髪で、自分の瞳を隠すようにしたまま呟いた。


 表情を見られたくないのかもしれない。けれど、私は表情が見えなくてもわかってしまう。光を失った空虚な色は、絶望にも似た悲しみの色だと。
 肉体的な痛みを伴うかのような悲しみの色に私はどうしていいのかわからなかった。

 けれど、青木さんの隣に立っていた祖母が、そっと青木さんの背に手を置いた。

 祖母の色も青木さんの悲しみの色に混じり合い揺れている。
 二人は何を思っているのだろう。隠し持っている悲しみの正体は一体、何なのだろう。

「俺はアイツにラベンダーのお香を全部用意してやりたい。この令月香のお香を気に入っていたアイツのために……。今度はもう買いに行かんでええから。安心して、帰ってきてほしいんや……」

 彼は『会いたくても会えない人』のことを想っているのではないかと思った。

 お盆の時期に帰ってくるであろう大切なひとのために、ラベンダーの香りを用意したいと思っているのではないか。