そう言って、彼が黒くて大きな手を伸ばした。

 ダメだ……と思いながらも、私は諦めたくなかった。

 私は床に落ちたラベンダーのお香を隠すようにしゃがみこんだ。お香を持ち、自分の体を抱きかかえるように小さくなる。

 けれど、目を瞑っていても、恐怖は感じる。
 伸びてきた彼の大きな手が私の髪の側にある。私はギュッと目を瞑ることしかできなかった。

「……お客様、店内ではお静かにお願いします」

 その時、頭上から低い声が聞こえてた。

 そっと目を上げると、和装の颯ちゃんがいた。

「やわらぎ聞香処」で働いていたはずの彼が駆けつけてくれるほど、お客様の声は響いていたのかもしれない。

 颯ちゃんの手に、お客さまの手首がある。

 あの手は、私に向かって伸びてきた黒い手。
 その手が二度と私のほうに伸びないように彼がねじりあげている。
 颯ちゃんの瞳の色はない。

「いってえな! 客に向かって何すんねん!」

 お客様の叫び声に、祖母が答えた。

「青木さん、もうそれくらいにしたほうがええですよ。私の可愛い孫を傷つけたら、私も許さへん」

「いたたたっ。……離してくれ!」

 青木さんと呼ばれた人が、泣き声にも似たうめき声をあげた。

「これ以上何もしないと仰るなら手を放しましょう。けれど、まだ暴れるというなら話は別です。男同士二人きりで、奥で話合いましょうか」

 目に殺されるとはこういうことなのだろう。
 殺気を帯びた視線に、店内が凍り付いた。

「……わかった。……もうなんにもせえへんわ」

 そう言ってお客様が颯ちゃんの手を振り払った。

 手首が真っ赤になっている。

 青木さんは私と目が合うと、今度は深く深く頭を下げた。

「頼む。いくら出してもいい。そのラベンダーのお香を俺に売ってほしい……」

 そういう青木さんの瞳にきらりと光るものが見えた。
 男の人の涙を見てしまい、私はひどく動揺した。

 どうしてたらいいかわからずに固まっていると、肩を震わす青木さんの色が、桜色に包まれた。
 気づけば、祖母が青木さんの項垂れた肩に手を置いていたのだ。

「一香……そのお香、青木さんに売ってやってくれへんか?」

 祖母の色までもが悲しみに揺れている。