「一香さん?」
もう一度、名前を呼ばれて、零れそうになった弱い気持ちを胸の奥に閉じ込めた。
私はその言葉を欲してはいけない。責任をもって、このお香専門店で働いているのだから。
「ごめんね。なんでもないの。さっき、お客様が来られて、初めて聞香体験させてもらっちゃった。颯ちゃんがいないのに、勝手なことしてごめんなさい」
「いえ、大丈夫ですよ。うまくいきましたか?」
私は苦笑してみせるしかなかった。
「……ううん。まだまだだなって思った。私、もっとがんばるね」
聞香道具の片付けを終えると、玄関前で颯ちゃんが待っていてくれた。颯ちゃんも今から帰るのだろう。休日に最後まで付き合わせてしまったことを申し訳なく思いながら、彼の前に立った。
「一香さん、今からお時間ありますか?」
「うん……、大丈夫だよ?」
「少し散歩でもしましょうか」